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06 : 雨の日の話 私が持つ一番古い記憶は、目が覚めた時に見た、天上の茶色いしみ。 そしてその後に聞こえた、知らない人間の声。 もうぼんやりとしか覚えていないけれど、その日は確か雨が降っていた。 他愛のない質問をしてくる医者の声に混じって、雨が世界を打つ音が絶えずに聞こえた。 どうやら私は記憶を失ってしまったらしいことを知ったのは、医者がそうと言ったときだった。 思い出の部類に位置する記憶だけ、ぽっかりと抜け落ちてしまっているらしい。 その証拠に「記憶喪失」という言葉は理解できた。 自分の名前も思い出せないのに、なんだかとても不思議だった。 医者が部屋を出て行った後、入れ違いに軍服を着た男がひとり現れた。 どうして軍人なんか、と私はこの時はじめて驚いて、警戒心のためにその男から視線を外せなくなった。 黒髪と細い切れ長の目の美丈夫で、あの時は少し怖かった。 「私はロイ・マスタングという。地位は、中佐だ」 男はそう名乗って、今まで医者が座っていた椅子に腰掛けた。 私はまだ視線を外せなかった。 男はそんな私を見て、穏やかに笑った。 「そう堅くならなくていい。ただ話をしに来ただけだ」 「……」 話って、いったい何の話だろう。記憶のない私に、話せることは何もない。 「東部の内乱、というものがあったのは、覚えていないんだね?」 尋ねられても、緊張でのどが張り付いて声が出なかった。 だから小さく頷くことで答えた。 「その内乱中に、私が君を保護した。それは?」 これにも頷いた。けれど、会話が成り立っていることには少しだけ安心した。 「君のことを少し調べてもらっているんだ。住んでいた場所や、両親のことなんだが、」 なんだか、少し頭が痛かった。 目が覚めて間もないからかも知れない。少しだけ休ませてほしかった。 「まだ何も分かっていないんだ。たぶんこれ以上調べても何も分からないと思う」 ワカラナクテイイ。 心の片隅で声がした気がした。 「しばらくはここでゆっくりと傷を癒して、今後のことはそれから考えよう」 なんだか変な言い方だと思った。 これじゃまるで、一緒に考えようと、言ってくれているみたいだった。 軍人がどうしてそこまでする必要があるのかと、ただただ不思議で仕方がなかった。 「そうだ。まずは君の名前だな。どうしようか」 顎に手を当てて考え込む男の顔は優しい真剣さに満ちていて、なんだか本当に訳が分からなくなってしまった。 どうして、私のことでこんなに親身になっている? どうして、私の名前なんかに真剣に悩んでいる? どうして、この男は私と話なんかしている? どうして、私に会いに来たりしている? 「……こんなのはどうかな」 と、男は立ち上がって、雨に濡れた窓の側に立った。 しずくが伝っては落ち、世界に降り注ぐ雨の音がしていた。 室内と外の温度差で曇った窓を、男の指が滑った。 男は、文字を記した。私の名前を。 「……」 その時、という名の私は、雨の優しさに包まれながらこの世界に生まれたの。 「ファミリーネームはどうしたの?」 ハボックさんはまるで天気の話でもしていたみたいに普段と変わらない様子で話す。 もともと記憶がないことも大佐と私が親しいことも知っていたからだと思うけれど、 結構シビアな話題をいつも通りに聞いてくれるから、嬉しかった。 「孤児院を出るときに、院長先生が養子にしてくれたの。もちろん私はこれから働きにでるときだったから、名義上はってことで」 大佐は、孤児院に入ってからも毎週のように会いに来てくれた。 仕事帰りの遅い時間ではあったけれど、その孤児院自体が寛容的で特別に面会を許可してくれたからありがたかった。 ファミリーネームがなかったというだけで、よくいじめられていたりもしたのだけれど、そういう時の支えは大佐だった。 もちろんいじめの内容を具体的に話したりすることはできるはずもなかったけれど、一緒にいるだけで心が安らいだ。 「の記憶ってまだ戻ってないんだよな?」 「うん。でも不便じゃないわ。過去のこと気にするより今の生活の方が大切だもの。……ただ」 口が滑ってしまって、思わず反射的に口元を押さえた。 ハボックさんは軽く目を見張って、くわえていた煙草をいったん口元から離す。 「ただ、何?」 「ううん。なんでもないよ」 「言ってよ。気になるじゃん」 失敗したな、と何となく後悔しながら、少しだけ視線を落とす。 「……両親の記憶がないのは、寂しいなって」 「あぁ。……それは、そうだよな。悪い。変なこと聞いて」 この時はじめてハボックさんは少し慌てて、ごまかすように煙草を吹かす。 こういう風に、すぐに感情が顔に出るから、その素直さが逆に嬉しい。 こんなハボックさんが、私はとても好き。 「いいよ、気にしてないから」 「そろそろ出ようか? 映画でも見ようよ。今やってる奴でおもしろいのあんだって」 少し不自然に、ハボックさんは明るい声でそう言った。 気を遣っているのが明白で、申し訳ないから私も努めて明るく振る舞った。 両親がいないことを、苦に感じたことはない。 親身になって私を世話してくれた、孤児院の先生や、大佐だっている。 私はとても幸せだし、恵まれていると思う。 けれど出会ったことのない両親に憧れを抱くことぐらいは、許されていいことだと思っている。 寂しいと思うことがあったって、かまわないと思っている。 大佐には、やっぱり言えないけれど。 20050328 |