七
その日、
は朝から店の掃除に追われていた。
店はひどいありさまだった。大量の血痕に加え、見廻組が現場検証の際に残していったチョークの後や白い粉のようなものがあちこちに残っていて、店の中で汚れていないところを探す方が大変なくらいだ。
は床に水を流して、ひたすらデッキブラシを動かした。水に浮いた血痕を雑巾で吸ってバケツに絞り、また新たな水を撒いてブラシでこする。それをひたすら繰り返す。
何も考えずに手を動かしていると、だんだんと時間の流れが曖昧になってくる。デッキブラシが立てる水音以外の音が聞こえず、水で薄まった血がくすんだピンク色になって床を流れていくのが、甘いジュースの川のように見えてくる。
きっと疲れているのだろうとも思ったが、
は手を休めなかった。まるで夢の中にいるようで、これはこれで心地が良かった。
極度に集中して、どのくらいの時間がたっただろうか。
引き戸をがらりと開く音がして、にわかに我に返った
は、開いたガラス戸を見やって目を丸くした。
扉を開けたのは、真選組の隊服に身を包んだ、土方だった。
「……これは、どういうことだ?」
扉を開けるなり、土方は目を丸くした。
店の中はひどいありさまだった。天井や壁に血痕が飛び散った跡があり、いくつかの椅子の足が折れている。床は白い泡と血の色をした水で汚れていて、
は袖をたすき掛けにした手にデッキブラシを握って呆然と立ち尽くしていた。
「何があったんだ? おい!」
土方は血相を変えて店に飛び込み、
の肩を掴む。
途端に、
は堰を切ったように泣き出した。
が手放したデッキブラシが倒れて、固い音を立てる。子どものように声を上げて泣く
を、土方はその胸にしっかりと抱きしめた。
「もう、来てくれないと思ってた……」
しゃくりを上げながら
が言う。
土方は
の濡れた瞳を見つめて言った。
「ひとりにして悪かった。大丈夫だったか? 何があった?」
「私のことより、土方さんこそ、どうしたの? この格好」
「俺のことはいいんだよ。お前こそ、怪我でもしたのか?」
「私は平気です」
「平気ってことねぇだろ。店がこんなことになるなんて……」
「土方さんこそ……」
このまま言い合っていても埒が明かない。土方は、まだ何か言いたそうな
の唇を自分の唇でふさいで無理矢理黙らせた。
は目を丸くして、土方が自分の唇を吸い上げるのを黙って見ていた。
「少し話せるか?」
唇を離すなり土方がそう言う。
は素直にうなずいた。
ふたりは手をつないで、店の奥の階段を上がり、二階の部屋に移動した。そこは
が寝室として使っている部屋で、部屋の隅には三つ折りにした布団が重ねてある。
「狭くてすみません」
は申し訳なさそうに言うと、土方のために座布団を一枚用意した。
土方は小さな窓から外の様子を確認して、異常がないことを確かめてからカーテンを閉めた。そして、
の手を取って腰を下ろし、その体ごと膝の上に抱え上げて深く抱きしめた。
は土方の首に腕を回してそれに応えた。
「ひどい目に合わせて、悪かったな」
「土方さんのせいじゃないわ」
「何があったか話してくれ」
は土方と抱き合ったまま、時折涙で声を詰まらせながら、離れていた間に起きたことを話した。
銀時とお登勢のつてでこの店を任されるようになったこと、見廻組に店をめちゃくちゃにされてしまったこと、土方は二度と自分の目の前には現れないだろうと思っていたこと。
土方も話をした。小銭形の元に配属になり、岡っ引きとして働いていたこと、新将軍松平宣々の蛮行によりお妙が危険にさらされたこと、その罪をかぶって桂小太郎が捕縛されたこと、近藤を救出するために再びこの隊服に袖を通す決意をしたこと。
土方が話をしている間、
はいたわるように土方の頬を撫でていた。土方は
の肩に腰に腕を回して体を支えてやりながら、
の髪を手櫛ですいた。
目を離すのがもったいなかった。
この腕をほどいて体を離すなんて考えられなかった。
身も心もすれ違っていたこの数週間という空白を埋めるように、ふたりはお互いの存在そのものを深く抱きしめ合っていた。
「怪我がなかったんなら良かった」
心底ほっとして、土方は吐息で言った。
「土方さんも」
「ごめんな。俺が不甲斐ないばっかりに」
「もう謝らないで」
「けど、俺はお前に何も言わずにいなくなって……」
「それは本当に酷かったと思ってるけど」
「ほらみろ」
「でも、戻ってきてくれたからもういい」
は土方の胸元の、白いスカーフを撫でた。真選組の隊長格であることを示すスカーフだ。土方はその手を掴むと、その指に唇を押し当てた。まるで、神様の前で誓いを立てるように。
「今夜、近藤さんを助けに行く。桂一派と一緒にだ。もう真選組は戻って来れなくなる。あの屯所へもだ。もしかしたら、江戸の町にもいられなくなるかもしれない」
土方は
の手を握りしめ、今にも震えそうな声で言った。
「
。それでもお前は、俺と一緒に来るか?」
これを言うのは、土方は怖かった。
土方はこれまで、自分から誰かを求めたことがない。土方が大切に思った人達は、みんな土方より先に死んでしまった。父も母も、兄も、みんなもうこの世にはいない。幸せになってほしかったし、できることなら守りたかった。けれど土方はいつも力不足で、大切な人のために何ひとつ、恩を返すことすらできなかった。
強くなりたかった。大切なものを守り抜くための力が欲しかった。
のことが大切だ。けれど、
を求めてそばに置いていても、果たして守ってやることができるだろうか。
土方には自信がなかった。自分の力量はきちんと分かっているつもりだし、そんじょそこらの侍や浪人に易々と負けるつもりはない。けれど、それはただの通過点であって土方が求め続けた強さではない。
が土方を選ばずに別れると決断するなら、それを受け入れる心構えはできていた。
を守るために、潔く身を引く。そのために自分の欲望が満たされないとしても。それが、土方が幼い頃から求め続けてきた本当の強さだった。
どの道を選ぶのか、それは
が決めることだ。土方は
を見つめたまま、静かな気持ちで
の答えを待った。
「……本当のことを言ってもいい?」
は土方の手を握り返し、涙で瞳を潤ませた。
「あぁ。いいよ」
「私は、あの屯所に帰りたい」
の瞳から、涙がこぼれた。土方は涙の粒が光をはじいて宝石のように光るのを、黙って見ていた。
「私は、あの屯所が、真選組が好きよ。賑やかで騒々しくって、いつも馬鹿なこと言って笑ってるみんなが大好き。戻れるなら戻りたい。毎日、みんなのご飯を作ってたあの時間が一番幸せだった。あそこで、近藤さんや、沖田くんや、山崎くんや、土方さんと一緒に暮らしたい」
しまいにはぼろぼろと泣き出した
を、土方はぎゅっと抱きしめた。子どものように泣きじゃくる
が、かわいそうで仕方がなかった。
「でも、もうそれはできないんなら、私は土方さんと一緒に行きます」
土方の胸の中で言った
の声は、涙に濡れていたが響きは確かだった。
は土方の胸に手をつくと、涙を飲んで意志の強い目をして土方を見つめ返した。
「土方さんと、みんなと、一緒に行くわ。何があっても、辛いときに大切な人のそばを離れて、後悔なんかしたくない。それで死んでもかまわないから、一緒にいさせて。お願い」
すがるように言う
の唇を、土方は再び奪った。きつく
の体をかき抱いて、熱く舌を絡める。
何をしても、何もかも足りないような気がした。
とひとつになりたくて、隊服と着物の厚い生地が邪魔だった。
を守り抜くという覚悟を目に見える形のあるものにして、
の目の前に差し出してやりたかった。
土方はやり切れない思いを全てぶつけるような口付けをして、それでもあり余る気持ちを、呼吸の合間にどうにか吐き出した。
「好きだ」
泣きながらしがみついてくる
の体を、ありったけの力を込めて抱きしめた。
20171204
← ↓ →