五 







 その日、店にやってきたのはひとりの男とその連れだった。

 ひとりは、場末の小さな居酒屋には不似合いな高価そうな着物を着ていて、もうひとりは腰に刀を差している。ふたりとも落ち着きがなく、何度も席を立っては扉を細く開いて外の様子を窺っている。注文した酒と料理は手に付かない様子だ。

 よほど声を掛けてやった方がいいかとは思ったけれど、その緊迫した空気に触れるのは憚られて、黙って厨房の中に立っていた。

 事が起こったのは、男達がようやく徳利を空にして二本目の酒を注文した時だった。

 は首の後ろの産毛がざわりと逆立つような寒気を感じて、ガラス戸を見やる。室内の照明を反射して鈍く白い曇りガラスの向こうを影が横切ったような気がした。それが何かは分からない。けれど、それがひとつやふたつでないことだけは分かった。客のふたりは気が付いていないようで、額を寄せ合って、カウンター越しのにも聞こえないような小さな声で話をしている。

 は嫌な予感がして、糠漬けにしたきゅうりを刻む手を止め、包丁を洗ってふきんで拭い、棚の中にしまった。

 その時、勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、白い隊服の見廻組隊士だ。

「御用改めである! 神妙にお縄に付け!」

 男の連れが慌てて立ち上がり、腰の刀に手を掛けたが間に合わない。先陣を切って店に飛び込んできた隊士に袈裟懸けに斬りかかられ、肩と腕から血飛沫を上げて絶命した。背にかばわれる形になった男が、引きつった悲鳴を上げながら、震えた手で刀を引き抜く。

「おおおおおおっ!!」

 自分を鼓舞するように、腹の底から響かせた声は、胸に突き立てられた刀によって途切れた。刀を引き抜いたところから、どぷん、と、脈打つように血が噴き出す。うつ伏せに倒れた男は、血だまりに顔を突っ伏して溺れるように死んだ。

 はガラスが割れる音を聞いて我に返った。狭い厨房の中、目の前で瞬きの合間に起きた出来事に思わず後ずさりして、背中から食器棚にぶつかってしまいグラスが床に落ちたのだ。悲鳴を上げることもできないには目もくれず、見廻組の隊士が血塗れの死体を検め始める。

「外へ出ていてくれる? 捜査の邪魔よ」

 戸口に立って言ったのは今井信女で、青ざめた顔で棒立ちになっているのがだと気が付くと、無表情の中にもその大きな目を見開いた。





 隊士達の話によれば、斬り殺されたふたりの男は、今は亡き徳川茂々の派閥に属する幕臣で、近頃の政治情勢に不安を感じ、国の金に手を付けて国外へ逃亡しようとした嫌疑がかかっていたらしい。あんなにもそわそわと落ち着きがなかったのはそのせいだったようだが、嫌疑がかかっているだけで、ろくな捜査もせずに斬り殺してしまっては元も子もない。政治や警察の難しいことは分からないが、偶然とはいえ、そんな修羅場に巻き込まれたは、たまったものではなかった。

 店の中は目も当てられない状況だ。店の狭さが災いして、床にも天井にも壁にも、そしてカウンターを飛び越えて厨房まで血飛沫が飛び散っている。これでは当分、営業は無理だ。

 パトカーや救急車の影に隠れるように、ひとりで夜の片隅に立ち尽くしていたは、ぐったりとした疲れを感じて道の端にしゃがみ込んでいた。

 そこに、長い刀身の刀を手に持った信女が、長い髪を揺らしながら近づいてくる。迫力のある大きな瞳に、街灯の光が映って怪しく光る。表情のない顔つきは、その美しさゆえ、人間に化けた妖怪のように思え、はこっそり息を飲んだ。

「知っていたの?」

 信女はただ一言、そう言った。

「何を?」
「私達があの男を追っていたこと」
「まさか、そんなわけないでしょう」
「けれど、足止めをしていた」
「お客様をおもてなししていただけ。私はただの一般人よ、どうしてそんなことが分かると思うの」
「だって、真選組で働いていたんでしょう」

 は眉をひそめて信女を睨んだ。嫌味にしか聞こえなかった。

「家政婦としてね。ご飯を作ったりお掃除したりしていただけ」
「そう」

 納得したようには見えなかったが、信女はそれきり黙り込んだ。

 は無視を決め込んで、膝頭を抱えて俯いた。
 無性にいらいらして仕方がなかった。どうしてこの白い服を着た悪魔のような人達は自分の行く先々に現れてはひどいことばかり起こすのだろう。

 足元から地面ががらがらと崩れて、奈落の底に落ちてゆくようだ。もうどうしたらいいか分からない。誰かの手を取って、助けてほしいとすがりたい。けれど、もうには頼れる人はいなかった。みんないなくなってしまった。土方にも近藤にも、真選組にも、もう頼れない。

――わたしはひとりだ。

 は迷子になった小さな子どものような気持ちになって、必死に自分をなだめた。子どものように体を引き裂くような喚き声を上げて泣きたかった。けれど、喉の奥が詰まったようになって、涙どころか呼吸すらうまくできない。

「あなたは弱いわね」

 そんな声が聞こえて、は抱えた膝から顔を上げた。
 信女は、まだそこにいた。腕組みをして、夜の闇の深いところをじっと睨んでいる。
 はあからさまに嫌な顔をした。

「まだ何か用?」
「別に。ただ、期待しすぎたと思って、がっかりしていただけ」
「は?」

 信女の抑揚のない物言いが、のしゃくに障った。腹が立って、喉に詰まっていた何かがぽろりと落ちる。

「あなたが私の何を知ってるって言うの?」

 想像以上に大きな声が出て、は自分でも驚いた。
 信女は顔色を変えずに言う。

「別に、何も」
「そんな風には聞こえなかったけれど」

 信女は呆れたようにため息を吐くと、仕方がなさそうに静かにその名を口にした。

「吉田松陽」
「え?」

 は耳を疑った。久しぶりに聞く名前だった。聞き間違えたのかとも思ったが、信女は素知らぬ顔をしてもう一度同じ名前を口にした。

「知ってるの?」
「えぇ、知っている。あなたのことも」

 はふと気が付いて、青ざめた。
 もしかすると、攘夷浪士と関りがあると信女に疑われているのではないか。は銀時や桂、そして高杉の幼い頃をよく知っていたがために、今でも攘夷志士達と関わりがあるのではないかと疑われたことがある。他でもない、真選組副長、土方十四郎に、だ。信女が同じように勘ぐることもあり得るだろう。

 ありもしないことを誤解されるのはまっぴらごめんだ。の目の前で斬り殺されたふたりの男は、国外逃亡を疑われて命を狙われた。あんな風に死にたくなかった。

「私は牢番だった」
「……はぁ?」

 信女はを見向きもせず、相変わらず夜を睨みつけている。

「牢番って、先生のこと?」
「先生って、吉田松陽のこと?」
「そうよ」
「それならこっちだってそうよ」
「……あの、私と会話する気がある?」
「……そっちこそ」

 は膝に頬杖をついて大きなため息をついた。なんだか、話がうまくかみ合わない。相性が悪いのだろうか、それにしても疲れる。客商売を長くやっているからコミュニケーションには自信があったのだけれど、どうやら信女相手には通用しないらしい。

 は気を取り直して、信女の整った横顔を見た。
 
 牢番とは、寺子屋から連れ去られた松陽が捕らえられていた牢のことだろうか。それならもうずいぶん昔のことだ、信女はまだ小さな子どもだっただろう。

 急に懐かしさがこみ上げてきて、は松陽の優しい笑顔を思い出した。あの穏やかな声と、柔らかな眼差し。

「先生とはどんな話を?」
「別に、手習いを少しだけ……」
「手習い? 牢屋で?」

 信女は瞬きをひとつすると、を一瞥してそっぽを向いた。

「そうよ」

 小さな声は、照れくさそうにわずかに震えた。

 の頭の中に、檻を挟んで向かい合って座る松陽と、幼い信女の姿が浮かぶ。確かに、あの松陽のことだ。牢に閉じ込められても目の前に小さな子どもがいれば、手習いや簡単な説法のひとつやふたつ聞かせてやりたくなってもおかしくない。

 想像の中の松陽は清潔な着物で、土を塗り固めただけの牢に正座していて、信女はかわいらしい着物の裾が汚れるのにも構わず、真剣な目で松陽の話に耳を傾けていた。蜘蛛やミミズが這う牢屋で、鉄格子を挟んで向かい合うふたりは滑稽で、は不謹慎だと思いつつも、つい笑ってしまった。

 肩を震わせながら笑って、目尻に涙を浮かべるを、信女は不思議そうに見やった。

「何がそんなに面白いの?」
「だって、あんまり先生らしくて……」
「?」

 信女は大きな目をきょとんと丸くして首を傾げた。近くを通りがかった見廻組の隊士が不審そうにを睨んで通り過ぎていく。

――あぁ、私はまだ笑える。

 浮いた涙を拭いながら、はしみじみと思った。

 これまでにも辛い別れは何度も経験してきた。松陽が役人に連れ去られ、戦いに赴いた銀時達と別れて、たったひとりで江戸に上ってきた。

 幸せな思い出があったから、それだけでなんとか生きてこられた。大好きだった松陽や、銀時や、桂や高杉や仲間達は、その存在全てがの支えだった。彼らがいてくれたからこそ、どんなに暗く長い夜も乗り越えられたのだ。

 これからも、そうやって生きていかなければならない。
 
 真選組屯所での日々。本当にいろんなことがあった。辛いことや悲しいこともあったけれど、それよりも、楽しくて嬉しいことの方が圧倒的に多かった。

 粗野で荒っぽくて、人情に厚く優しい隊士達、馬鹿なことを言っては笑わせてくれた近藤、子どものような悪さをしでかしては騒ぎを起こして楽しんでいた沖田、誰にも見えない場所でいつも努力を欠かさない山崎。

 土方はきっともう二度と、自分の前には姿を現さないだろう。土方はいつも自分の持つ力の全てでを守ろうとしてくれていて、ときどき極端なやり方をすることはあったけれど、それはを大切に思うがゆえのことだった。

 土方は今、真選組副長として持っていた権限を全て手放して、武器と言えばその腕っぷしだけだ。そんな自分には大切なものを守ることはできないとか、そんなことを考えているのだろうと想像はできる。

 真選組と近藤を失って傷ついているなら、慰めるためにそばに居させてほしいと思うのも本心だったけれど、土方はそれを望まないことも心のどこかでは分かっていた。誰にも甘えず自分の力で立とうとする土方の真っ直ぐに伸びた背中が、はとても好きだった。

 もうそばにはいられないのなら、あの幸せだった日々の思い出を大切に抱いて生きていこう。これまでもそうしてきたのだから、これからだってきっとできるだろう。

「ありがとう、なんだか元気が出たわ」

 笑顔で言い切ったに、信女は面白くなさそうに眉をしかめた。

「私は何も言ってない」

 は立ち上がって、大きく伸びをする。見上げた夜空の端が、白く淡く光り出していた。夜明けが近いのだ。

 深く息を吸って、吐く。ひんやりと冷たい空気が体中に染み渡っていくようで、気持ちが良かった。

 新しい一日だ。
 また、ここからはじめよう。
 私はきっと大丈夫。

 清々しく微笑むの横顔を、信女は不思議そうに見つめていた。






20171120