四 







 お登勢の話では、ある居酒屋で働き手をひとり探しているのだという。

 年嵩の女性がひとりで切り盛りしている店で、店主は寄る年波に敵わず少しばかり体調を崩しているらしく、ひとりで店に立つのに不安が出てきたらしい。できれば、自分よりも体力のある若者に店を手伝ってほしいとは思うが、つてもないし、そもそも小さな店だから、いっそのことこのまま店をたたむことも考えてはいるが、数人の常連客に反対されて困っているのだという。

 は二つ返事でその仕事を受け、その日の昼にはお登勢とともに店に出向いた。小さな店とは聞いていたが、が予想していたよりも半分も小さな店だった。縦に細長い間取りで、客席はカウンター席しかなく、椅子をぎゅっと壁に寄せてやっと人ひとり通れるくらいの通路しかない。厨房も、両腕を広げてくるりと回ったら、積み上げた食器ががらがらと音を立てて崩れてしまいそうだった。
 早々に話はまとまって、はその夜から店に立つことになった。店主とが店のあれこれについて話し合っている間、ふたりにくっついて来たものの手持無沙汰にしていた銀時は、横目でお登勢を睨みながらこぼした。

「いくらなんでも、気が早ぇんじゃねぇのか? あんなことがあった後だ、少しは休ませてやった方がいいって」

 お登勢は煙草の煙を吐き出し、呆れた目をして銀時を睨み返した。

「あぁいう娘は、何でもいいから体動かしてた方が気が紛れていいだろうよ。長い付き合いなんだろ? そんなことも分からないのかい」
「分かんねぇよ。そういうもんか?」
「はぁ、これだから男ってのは」

 お登勢は、虫を追い払うように煙草を持った手をはたはたと振った。

「感傷に浸るのは勝手だけどね、そんなことしてたって傷は癒えないし腹もふくれないんだよ」

 銀時は言い返す言葉が見つからず、つまらない顔をして唇を尖らせた。





 実際、この仕事はこれ以上ないほどに合っていた。

 はじめの二日ほどは、店主とふたりで店に立っていたけれど、厨房の使い勝手や料理の手順もすぐに覚え、三日目からはひとりでカウンターに立つようになった。常連客ははじめ、見慣れない女をいぶかしんだけれど、が笑顔で事情を説明するとすぐに納得してくれた。「枯れたばばあより若いお姉ちゃんに酌された方が酒がうまいな」と、酔いの回った赤ら顔で言った男に、は「おばあさんに怒られますよ」と軽口を叩いて笑った。

 ただ、銀時が店の暖簾をくぐった時だけは、の笑顔を引きつらせてしまった。

 あれだけ泣いて落ち込んで、さんざん愚痴をこぼした後、何もかも忘れたような顔をして笑って客に酌をする姿を見て、銀時はこんな自分をどう思うだろう。けれど銀時はの不安をよそに、しんみりとした顔で笑って「よう」と、優しく声を掛けてくれた。

「いらっしゃい、銀さん」

 は笑って、銀時を店に招き入れた。

 嘘でもいいから、笑って体を動かしていれば何も考えずにいられた。受け止めがたい現実から目を逸らしていられるのは楽だった。

 けれど、店を閉めて、後片付けをして、店の二階にあてがわれた部屋にひとりでいると、見ないふりをして頭の奥に押し込めていた記憶が井戸水のようにとぷとぷとあふれ出してくる。

 人ひとりがやっと横になれるくらいの幅しかない部屋にどうにか敷いた布団に横になって、天井からぶら下がっている、今は明かりのついていない裸電球を見つめながら、は目を開けたままじっと考え込んだ。

 昼間、食材を買い出しに出掛けた時、どうしても気になって足を向けた真選組屯所には、立入禁止と印字された黄色のテープが表門にも裏門にも張り巡らされていた。みんなはどこへ行っただろうか、散り散りになっていることだけは間違いない。

 みんなの中の一人、土方のことを思った。

 一体、どこへ行ってしまったのだろう。江戸にはお前達が必要だと言った近藤の言葉を銀時が伝えていたから、まさか江戸を出たとは思わないけれど、この広い街だ、手がかりがなければ探しようもない。けれど、たとえその場所が分かったとして、果たして自分は土方に会いに行くだろうかと、は自問した。

 土方はに何も言わずに姿を消した。一言も、声をかけてすらくれなかった。いくらなんでもあんまりだと、は思う。所詮自分は土方にとってその程度の存在だったのかと自虐的な気持ちにもなる。

 けれど、覚えている。縁側に並んでたわいもない世間話をしたこと、何度も傷の手当をしてやったこと、沖田のいたずらで怪我をした土方の、なんとも言えない情けない顔がかわいくてつい笑ってしまって、怒鳴られたこと、夜遅くまで台所に居残っていたとき、「ご苦労さん」といつになく優しく労ってくれたこと。

 体に触れるときの壊れ物を扱うような手付き、その反対に、遠慮なしに強く抱きしめられたときの腕の圧力や体の熱さ。煙草の匂い。強く射るように見つめる瞳。

 土方の全てを、は覚えていた。

 その全ては、こんなにも簡単に捨て去られてしまうようなものだとは、には思えなかった。けれど、土方にとっては、そうではなかったのだろうか。

 は少しだけ泣いて枕を濡らしたけれど、一日中よく働いたおかげで心地よい疲労感にほどなくして眠りに落ちた。そして、役人に火を放たれて燃え落ちる屯所と、満月を背にして去っていく土方の後姿を夢に見た。





 町方同心、小銭形平次の元に配属になった土方は、それなりに忙しく日々を過ごしていた。

 江戸の警察組織の末端の末端だ。今までの仕事とはずいぶん勝手は違ったが、真選組副長という立場も顧みず、自ら犯人の追跡や張り込みまでこなしてきた経験が、ここでは大きな助けになった。万引き犯を取り押さえたり、自転車泥棒を現行犯逮捕したり、小さな、けれど確かに市民の生活に影を落とす犯罪は枚挙にいとまがない。

 真選組が取り潰されてから、そんな小さな犯罪はじわじわと増えているようだった。それは土方だけが感じていることではなく、小銭形もその部下のハジも同意見だった。

 どうやら警察上層部がうまく機能していないらしいと噂は流れてきたが、一介の町方同心でしかない小銭形の元にまで、詳しい情報は下りてこない。

 仕事に没頭していれば余計なことを考えずに済んだ。

 ある時、商店街の中で女が一人、粗野な格好をした男に絡まれていた。その後ろ姿に既視感を覚えて、何も考えずに男の肩を掴んで怒鳴りながら睨み付けたら、見知らぬ男女がぽかんと口を開けて土方を見ていた。ただの痴話喧嘩だった。

 非礼を詫びてその場を立ち去りながら、土方は唇を噛み締めて自分の足元を睨んだ。

 あれからがどこへ身を寄せているか、土方は知らなかった。調べようともしなかった。その名前を口に出すこともしなかったし、できるだけ思い出さないようにつとめていた。それはほとんど完璧にできていたつもりだったのだが、少し背格好の似た女を見ただけで我を忘れてしまうとは、嫌になってしまう。

 今更、顔を合わせたところで何を話せばいいのか。それを考えるだけで、土方の頭の中は真っ白になってしまう。

 何も言わずに別れてしまった。土方が寺を出た時、はそこにいなかった。好都合だと思った。

 ならきっと、真選組副長という立場を失い、近藤という大きな道標を失って途方に暮れた土方を、優しく労ってくれるだろう。慰めの言葉をかけてくれるだろうし、優しく肩を撫でて、土方が何を話すことができなくても、ただ静かに隣に寄り添っていてくれるだろう。そんなことにはとても耐えられそうにない。

 それで癒されるような痛みではなかった。江戸を守れと言い残して去った近藤は、じきに首を斬られてしまう。にどれだけ慰められても、近藤が助かるわけではない。それなら行き先も告げずに別れてしまった方がましだった。
 
 「SM天国」と大きな看板が光るイメクラに誘う小銭形を断って、かといって真っ直ぐ下宿先に戻る気にもなれなかった土方は、酔客で賑わう繁華街を、人ごみを避けるように歩いた。できるだけ静かな場所で、ひとりで飲みたい気分だった。人気のない路地を選んで、裏道を行く。
 
 ネオンが煌々と光る大通りから、いくつかの通りを過ぎると、街灯も少なくなり、人通りもまばらになって、店も昔ながらの長屋づくりの小さな店が多くなる。その路地の奥まった場所に、火の入った提灯がぶら下がっているのが見えた。入り口を植木にふさがれそうになっている古い店構えの居酒屋で、暖簾もかかっていて灯りもついているがやけに静かだ。ちょうど今の気分に合いそうな店だと思って、土方は引き戸に手をかけた。

 狭い店内のカウンター奥に、がいた。

「いらっしゃいませ……」

 ガラス戸の音に反応して反射的にそう言ったは、土方の顔を見るなり笑顔を引きつらせた。

 とっさに土方は身を後ろに引きかけたが、は引きつったままの顔で声を大きくした。

「どうぞ! お好きな席に」

 その声の強さに引っ張られるように、土方は店の中に足踏み入れた。

 客は他にひとりしかおらず、カウンターの一番奥の席でお猪口を煽っている。すでに出来上がっている様子で、ゆでだこのように顔を赤くして土方には目もくれない。
 
 迷った末、土方が戸口に一番近いカウンターの端に落ちつくと、はすぐにおしぼりを持ってきた。

「何になさいます?」
「……酒と、なにか適当につまみ」
「熱でいいですか?」
「あぁ」

 は人のいい顔をして笑い、土方の前に熱燗とお猪口、つまみの盛り合わせを乗せた皿を並べた。土方が猪口を持ち上げると、黙って酌をして、すぐにカウンターの奥に戻った。

 何を言われるかと、内心恐々としていた土方は、こっそりため息を吐いた。

 はあえてそうしているのか、土方の方を見ずに厨房で包丁を握っていた。袖をたすき掛けにして、白く細い二の腕が見えている。包丁がまな板を叩く音だけが店に響く。

ちゃん、お勘定ここ置いとくよ」

 酔客が小銭をカウンターに落としながら立ち上がった。は首を巡らせて笑顔で応えた。

「はい。どうぞ、またいらしてね」
「おう。ちょいと、後ろを失礼するよ、お兄さん」

 体を斜めにして狭い通路を通り抜けた男は、足元をふらつかせながら店を出て行った。

 ふたりきりだ。

 なかなか減らない徳利の中の酒を見下ろして、土方は苦虫をかみつぶしたような顔をした。気まずさに窒息しそうだった。

「お口に合いませんでしたか?」

 ふと、が遠慮がちに言った。

 驚いた土方は顔を上げて、申し訳なさそうなの顔と手に持ったお猪口を見やった。

「いやそういうわけじゃねぇけど……」
「そうですか? むつかしい顔してるから」
「これは別に……」

 言って、土方は手のひらで顔を隠すようにして眉間の皺を指先で伸ばした。

「それならいいんです」

 は微笑んでそれだけ言うと、再び包丁を動かしてそれきり口を開かなかった。

 土方はちびちびと酒で唇を濡らしながら、横目でを盗み見た。

 一見、以前と何も変わらないように見えるが、全てが変わってしまったようにも見える。いつもとは違う場所で、違う仕事をしているからか、それともカウンターを隔てた微妙な距離があるからか、考えてみたが心当たりが多すぎた。

 今、ここにいる土方は真選組副長ではないし、も真選組の家政婦でない。かたや町方同心の下についている岡っ引き、かたや今にもつぶれそうな小さな居酒屋の女店主。下手な三文芝居を演じているようで気恥ずかしくて、それを言い訳にしてここから逃げ出してしまいたい。

 けれど、偶然とはいえの無事な姿を見られたことに安堵していることも事実で、できることならその手に触れて、抱きしめて、の存在をこの体全体で感じたかった。

 そんな資格は自分にはないのだと、土方はつまみの焼き魚を噛みしめながら必死に自分に言い聞かせた。

 近藤を守れなかった自分。
 真選組を、その隊士達を守れなかった自分。
 大切なものを何ひとつ守ることのできなかった自分には、を守るためにそばにいる資格すら、ない。

「ちゃんと、食べているんですか? 少し痩せたみたいに見えますけど」

 穏やかに声を掛けてくるの優しさは、土方には殴られるよりも痛かった。黙って姿を消した自分に、が怒っていないはずはないのに、土方の気持ちを慮っているのか、はそれをしない。それは土方にとって、拷問を受けるような苦痛だった。

 土方はの問いかけには答えずに手酌で酒を飲み干すと、代金をカウンターに叩きつけるように置いて立ち上がり、カウンターの木目を睨みながらひとり言のように言った。

「近頃はいろいろ物騒になってる。女ひとりでやってく気なら、十分気を付けろよ」

 は濡れた手を拭いながら、土方の横顔に言った。

「また、いらしてください。今度はお食事も出しますから」

 土方はが言い終わる前に、逃げるように店を出た。ガラスの引き戸が高い音を立てる。その音は人気のない夜道によく響いて、土方の耳の奥に余韻を残す。

 速足で道を行く土方は、が後を追ってくるだろうかと期待して、一度だけ後ろを振り返ってみた。けれど、そこにはただ暗い夜の道が延々と続くばかりで、電柱の影から、野良猫が一匹飛び出して道を横切っただけだった。

 まるで地獄の底にでも通じているような道をじっと睨んで、気が済んでから土方は踵を返した。

 そして、この界隈には二度と足を向けまいと、誰へともなく誓った。




20171106