三 







 その日、銀時はを連れて万事屋に帰った。

 の受けたショックはあまりに大きかったようで、沖田や山崎の問いかけにもほとんどうわ言のような返事しかできず、行くあてもなく立ち尽くしたをひとり残して行くことは、銀時にはできなかった。

 万事屋では、新八と神楽が待っていてくれた。

 大怪我をしているのに夜中になっても帰ってこない銀時を心配してくれていたらしいが、ひどく憔悴したの姿を見るなり、新八は階下のお登勢を訪ねて、女物の着替えや身の回りのものを一揃え借りてきてくれ、神楽は定春と一緒にを和室に案内してずっとその隣に付き添ってくれた。
 
 怪我で不自由な体をした銀時は、ふたりのすることをただ見守っていた。銀時ひとりでは、体が万全の状態でもここまで気は回らなかっただろう。

 銀時から話を聞いた新八は、真選組がそういう状況では姉が心配だと言って、足早に家に帰っていき、神楽は、今日はと一緒に寝ると言って銀時の寝床を奪ってしまったので、銀時は仕方なくソファに横になることにする。

 とはいえ、怪我をした体をソファに横たえると、体の節々は痛むし、少し身じろぎをしただけで治りきっていない傷が痛み、じっと目を閉じていても体中の傷ついた神経がちりちりと脳を刺激してちっとも眠れない。

 暗闇の中、どうにも落ち着かない時間に耐えかねて、台所で水を一杯飲んだ銀時は、どうしても気になって、和室の襖を細く開けてみた。

 窓から差し込む月明かりが青く部屋を染めていた。暗闇に慣れた目では部屋の様子を探るのは容易い。

 仰向けに大の字になって眠る神楽の隣で、は定春の体に背中を預けるようにして体を丸めて眠っていた。定春の毛並みはふわふわで柔らかく温かい。少しでもそれが傷ついたの慰めになっていればいいと、銀時は心なしか安堵する。

 じっと目を閉じているの寝顔はただただ静かで、銀時はほっとした。今日一日に起きたあらゆることが、にどれだけの傷を負わせたのか銀時には見当もつかない。けれど、きちんと眠れるだけの気力があるならまだその傷は浅いはずだ。

 銀時が襖を閉めようとした時だった。

「銀さん?」

 と、かすかな声でに呼び止められ、銀時は襖に指をかけたまま返事をした。

「おう、どうした?」
「眠れないの?」
「それはお前の方だろ」
「ふふっ、そうね。お互いさま」

 乾いた笑い声を上げて、は薄く目を開けた。そして、銀時の方は見ずに、隣で眠る神楽の寝顔を見つめ、そのオレンジ色の髪をそっと撫でた。

「ねぇ、銀さん。先生がいなくなった日のことを覚えてる?」

 銀時は面食らって、息を飲んだ。

「急になんだよ?」
「ごめんね、嫌なこと思い出させて」
「別にいいけどよ」

 銀時は襖に軽く肩をもたせ掛けて、首の裏の辺りを手のひらでこすった。嫌な汗をかいているような気がしたが、肌は乾いていた。

 銀時の中にひそむ、ひどく臆病なものが今にもここから逃げ出そうと銀時の腕を引く。けれど、ここは銀時の家なのでどこにも逃げ場はない。外に飛び出そうにも、怪我を負った体はうまく動かない。
 
 銀時は喉の奥から言葉を絞り出した。

「どうした? そんな昔の話持ち出したりして」
「なんだか思い出しちゃって、眠れないの」

 はかすれた声で呟いた。

 松陽は、ある日突然やってきた黒い着物と編み笠、錫杖を持った役人に連れ出され、銀時やも仲間たちとともに寺子屋を焼け出された。状況は少し違うが、見廻組に近藤を連れ去られた光景は、の昔の記憶と重なって脳裏に再生されているらしい。

 銀時は瞼の裏に真っ赤な炎がひらめいたような気がして、慌てて瞬きをして目を擦る。

 が自分と同じ記憶を見ていることに、銀時は戦慄した。思い出したくもない、非力で弱くて、大切なものを何ひとつ守ることのできなかった自分。できることなら捨て去りたい過去。それは銀時の足元を今でも縛る鎖だ。

「あの時と同じね。私はまた何もできなかった」

 はそう言うと、自分の体を抱きしめるようにぎゅっと体を縮こまらせた。

「あの状況で、お前に何かできることがあったとは思えねぇよ。誰があそこにいたって同じだ。あんま気に病むな」
「……それは、ちょっと難しいかな……」

 銀時は目を凝らしてを見たが、月明かりがあるとはいえ、その表情までは読み取れなかった。

 あの日。

 銀時は松陽を追うことに必死で、勝ち目はないと分かっていても、役人に立ち向かっていくことを止められず結局やり込められてしまったのだったが、は燃え盛る寺子屋から小さな子ども達を助け出すため、煤だらけになりながら駆けずり回っていた。のおかげで何人の命が救われただろう。炎に怯えて泣いていた子どもを、気丈に笑いながらあやしていたの姿を、銀時は覚えている。

 あの日、何もできなかったのは銀時の方だった。

「私、そんなにたくさんのものを望んできたつもりはないのよ。贅沢もしたことないし、高望みもしなかった。つつましく生きてきたつもりだった。たったひとつだけ、大切なものひとつだけ守れるんなら、他に何にもいらなかった」

 の声が涙で滲んだ。

「どうして、そのたったひとつさえ、守れる力が私にはないんだろう……」

 と、その時だ。

 隣で眠っていた神楽が突然、がばりと寝返りを打ち、その細い腕で力いっぱいを抱きしめた。定春が体をよじっての頭に鼻先を押し付け、労わるように鼻を鳴らす。

 てっきりふたりとも熟睡していると思っていた銀時は、呆気に取られて目を丸くした。

 は神楽の薄い胸板に顔を押し付けて、くぐもった声を出して泣いた。

 銀時は、そっと襖を閉めた。には、神楽と定春がいてくれる。

「……あぁ、新八の奴、家に帰さなきゃよかったな」

 誰へともなく呟きながら、銀時はソファにもたれかかって、暗い天井を仰ぎ見た。

 の泣き声は、襖を閉めていてもかすかに漏れ聞こえてくる。仕方がない。こんなことがあって涙が出ない方がおかしい。泣きたいならいくらでも泣かせてやりたかった。

 松陽が連れ去られた日。はきっと無理をして、平常心を装っていたのだろう。銀時や桂や高杉は、役人への怒りを爆発させて、今にも刀一本だけを握りしめて官署に乗り込もうとさえした。それを押しとどめてくれたのは、あくまで冷静を装っただった。あの日、は一粒の涙さえ流さなかったのだ。

 あんな風に、無理に自分の気持ちを押し殺して平気な顔をされるより、声を上げて泣いてくれた方がずっといい。

 けれど、の泣き声はただひたすら、銀時の耳に痛かった。銀時の胸の真ん中にあいている大きな穴に、の涙は消毒液のようにじんじんと染みる。

 松陽を失ったことで負った傷は、まだ治りきらずに銀時の体に残っている。鮮血を滲ませる傷口の痛みに耐え、銀時は無理矢理目を閉じて指先で目頭を押さえた。

 眠らなければ、今日という日が終わらない。





 翌朝。

 は窓から差し込む朝日で目を覚ました。抱き合って眠った神楽はまだ夢の中にいて、定春も大きな体を膨らませながら穏やかな寝息を立てていた。

 着物の裾を整えて起き出し、襖を開けると、そこに銀時の姿はなかった。どこへ行ったのだろう、ふらふらと玄関まで行ってみるとブーツもなかった。

 は置いてけぼりを食ったような気になってぽかんと立ち尽くしていると、だんだん顔の突っ張り具合が気になってくる。昨夜は何の手入れもせずに眠ってしまった。洗面所に入って、蛇口をひねって見上げた鏡を見て、は自嘲した。さんざん泣いたせいで赤く腫れた瞼、涙に濡れてかびかびになった肌、寝癖が付いてくちゃくちゃの髪。まるでへそを曲げてぐずっている子どものような顔だった。

 は自分で自分をなぐさめるように、顔を洗う。濡れた手のままで髪を梳いて、洗面台に置きっぱなしになっていた櫛を借りて髪を結い直す。櫛はおそらく、神楽のものだろう、オレンジ色の髪が何本か絡みついている。

 はいつもより時間をかけて鏡の中の自分と向き合った。子どもの自分を胸の奥の方に追いやって、大人の自分に戻っていく。しっかりしなくてはならない。声を上げて泣けば誰かが助けてくれた子どもの頃とは違うのだ。

 と、その時、ガラスの引き戸が開く音がした。

 洗面所の扉を開けると、ちょうど銀時が上がり框に腰を下ろしてブーツを脱いでいるところだった。

「おぉ、起きてたのか」

 首を巡らせて振り返った銀時は、が拍子抜けするほどいつも通りの顔をしていた。

「うん、ついさっき」
「腹減ってねぇ?」
「まぁ、少し」
「あ、銀ちゃん、、おはよう」

 ちょうどよく、神楽と定春がおおあくびをしながら和室から出てきた。

「おぉ、朝飯にすんぞ。着替えて来いよ」
「分かったー」

 神楽は要領を得ているらしく、そのまま自室にしている襖の中に入っていった。

「外に出るの?」

 金銭的にそう余裕があるとも思えない銀時が朝から外食とは、には意外だった。

 銀時は脱ぎかけたブーツを履き直して立ち上がると、靴箱に立てかけていた松葉杖を手に取って答えた。

「まぁ、ツケみたいなもんだけどな」

 そうして案内されたのは、万事屋の階下にある「スナックお登勢」で、お登勢は夜の仕事をしているというのにずいぶん早起きらしい、もうカウンターに立って漬物を切っていた。炊き立てのご飯の甘い、いい匂いがして、鍋が火にかけられている。おたまがカウンターテーブルを拭き清めていて、キャサリンの姿はなかった。きっと、まだ寝ているのだろう。

「おはよう。よく眠れたかい?」

 お登勢が笑顔を浮かべて言った。
 は小さく頭を下げて答えた。

「はい。おはようございます」
「座りな。もうできるところだよ」
「あの、何か手伝います」
「それじゃ、味噌汁でもよそっておくれ」
「はい」

 カウンターの中に入ろうとすると、おたまがたすきを貸してくれた。味噌汁はすでに煮えていて、具はわかめと豆腐となめこだ。

 ご飯と味噌汁をよそって、漬物と卵焼きを大皿に盛り付け終わったところで、神楽と定春が身支度を整えて下りてきた。

 カウンターに三人で並んで、両手を合わせる。ご飯茶碗がひとつ足りないと思っていたら、神楽はしゃもじを使って炊飯器から直接食べ始めてたので、は度肝を抜かれてしまった。大皿に乗った卵焼きと漬物は争奪戦の様相を呈していて、が手を伸ばす隙もないほどの勢いで神楽と銀時の口の中に消えていく。とはいえ、ここでは神楽の方が力関係は上らしい。どうにか確保した卵焼きのひとかけらを、銀時はのご飯茶碗の上に乗せた。

「ぼやっとしてると食うもんなくなるぞ」
「いつもこうなの?」
「ばばぁはガキにばっか甘くて、腹立つわ」
「聞こえてるよ」

 銀時はお登勢の声を無視するように、音を立てて味噌汁をすすった。

 も同じように味噌汁を一口飲んでみる。なめこのとろみの付いたそれは、驚くほど温かくの体の奥に染みた。屯所では毎日自分で作った味噌汁を飲んでいたけれど、人の手で作られた食べ物はどうしてこんなにも違う味わいがするんだろう。卵焼きを一口齧ると、それは舌先がしびれるように甘くて、途端に、は目頭が熱くなった。砂糖がたっぷり入った、銀時が好きそうな味わいがした。
 
 しっかりしなくちゃと決意した矢先に、泣くわけにはいかない。はご飯をくちに詰め込んでもぐもぐと口を動かしながらどうにか堪えた。

 お登勢はカウンターの隅のスツールに腰掛けて、たまの淹れたお茶を飲みながらそれを見ていた。
 
 食事を終えた頃を見計らって、たまがお茶を淹れてきてくれる。
 
 神楽は膨れたお腹をさすりながらゲップをして、銀時は爪楊枝で歯の間に挟まったわかめと格闘していた。
 
 がお茶を飲みながら、さてこれからどうしようかと思案し始めた時だった。
 
 ふいに、お登勢はの真正面に立つと、煙草に火を着け、深々と息を吸って、煙を吐いた。

「事情は聴かせてもらったよ」

 きょとんとするを見下ろして、お登勢は口端をくいと釣り上げて笑った。

「あんた、働く気はあるのかい?」




20171030