二
今日は、将軍・徳川茂々の葬儀である。遠く、天子様のお膝元で暗殺された茂々の国葬は、町中に暗い影を落としてしめやかに営まれていた。
真選組屯所では、ほとんどの隊士は国葬の警備のために出払っていて、
はひとり、広い屯所の掃除に勤しんでいた。いつもならば、当直の隊士達の話声がにぎやかな時間帯なのだが、今日はいっそ不気味なほど、水を打ったように静まり返っていた。
黙々と仕事を終えて、道具を片付けて、台所へ戻り、ここにはいないはずの人の後姿を見つけて、
は息を飲んだ。
「近藤さん?」
「あぁ、
ちゃん」
近藤は白い歯を見せて笑った。つい先日、遠征から戻ってきたばかりの近藤は、まだ怪我が治りきっておらず、頬に大きな絆創膏を張ったままだ。そのせいだろうか、笑顔がやけに痛々しい。
「何をなさってるんですか?」
「酒をな、少しもらおうと思ってさ」
こんな昼間から? と
は思ったが、口には出さなかった。近藤と将軍・茂々は、縁あって何度か酒を酌み交わした仲だと聞いたことがある。けれど、近藤はその葬儀には参加していない。その理由は
には分からなかったけれど、何か事情があるのだろう。
は何も言わずに食器棚から徳利と猪口を出して、棚から日本酒の瓶を取り出した。
「お客様でもいらっしゃるんですか?」
「あぁ、もうしばらくしたらな」
「用意してお持ちしますよ。冷でいいですか?」
「あぁ、ありがとう。
ちゃん」
は冷凍庫から氷を取り出し、一番大きなボウルに水を汲んで氷水にし、そこに酒瓶を入れた。徳利と猪口はそのまま冷蔵庫に入れて冷やす。これで客が来る頃にはいい具合に冷えているはずだ。
近藤は、
がすることを何も言わずに見ていた。
も気にはなったが、話題が見つからなくて声はかけられなかった。いつもはうるさいくらいに大きな声でくだらないことばかり喋っている人が、じっと口をつぐんで黙り込んでいる。それだけのことなのに、その胸の中に大きな秘密を抱えているように感じられて、下手に声をかけては、その秘密に土足で踏み込んでしまいそうな気がした。
仕事を終え、濡れた手を拭いていた
に、近藤が言った。
「本当に、ありがとうな、
ちゃん」
近藤は深い笑みを浮かべて
を見ていた。
は怖いものを見た時のように背筋がぞっとするのを感じて、反射的に笑ってその感覚を無視した。どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもよく分からなかった。
「こういうことが私の仕事なんですから、何でも言いつけてくださっていいんですよ」
「そんなこと言って、いくらなんでも、何でもっていうわけにはいかないんじゃないのか?」
「私にできることなら何でも、っていう意味ですよ。まぁ、家事だけが取り柄の頼りない女ですから、大したことはできませんけどね」
「
ちゃんは頼りなくなんかないさ」
近藤はそう言うと、両手を軽く足の付け根に添えて頭を垂れた。
ははじめ、足元に何か落ちているのかと思って床に視線を走らせらけれど、きちんと拭き清められた台所の床にはなにも落ちていない。そうしてやっと、近藤が礼をしていることに気が付いた。
「
ちゃん。本当に、今までありがとう」
「近藤さん? 何なんですか? そんなに改まって……」
「
ちゃんは本当に良く、俺達を支えてくれた。
ちゃんがいなかったら、真選組はもっと早くに立ち行かなくなっていたと思う」
「そんな、大袈裟ですよ。顔を上げてください」
そう言っても、近藤はじっと頭を下げたまま身動きをしない。
はとっさに、近藤の真正面に立って、その肩に手を添えて近藤の顔を覗き込んだ。近藤は、痛みに耐えるように眉間に深い皺を刻んでじっと自分のつま先を睨みつけていた。
「近藤さん、何かあったんですか?」
近藤はその質問には答えず、無理矢理、口端を釣りあげて笑った。
「酒は、道場の方に持ってきてもらえないか? 向こうで飲みたい気分なんだ」
はそれ以上、何も聞けなかった。
それからしばらくして、銀時が屯所にやってきた。まだ怪我が治りきっておらず、頭にも腕にも包帯を巻いて松葉杖を着いていた。
道場の縁側で、近藤とふたり、酒を飲みながら静かに話をしていたが、
はそこには近づかなかった。近づけなかったのだ。近藤は何か口にはできない大きな秘密を抱えているようだったし、銀時もあの大怪我を負って以来、どことなく様子がおかしい。入院中に何度か見舞いに行ったが、いつもの憎まれ口は鳴りをひそめ、ぼんやりと天井の染みを睨んでいることが多かった。こっそり新八や神楽に原因を尋ねてみたが、あの高杉晋助と一太刀交えたということ以上に詳しいことは、ふたりにも分からないようだった。銀時は心の内を言葉にすることを極端に嫌っている。それはこんな時にも変わらない。
こんな時だからこそ、話をしてくれたらいいのに。
はそう思って、自分の無力さに絶望した。近藤はそんなことはないと言ってくれたけれど、自分の頼りなさやちっぽけさは、誰よりも身に染みて分かっていた。
そんなことを考えてひとりしょんぼりとしていた時、来客があった。
「近藤勲はいる?」
見廻組の隊服を着た、髪の長い若い女だった。
よりもずっと若くて、腰には黒い鞘の長刀を差していた。
「はい。道場におりますが……」
が答えた途端、女の後ろに控えていた見廻組の隊士達が一斉に道場に向かって駆けて行く。嫌な予感がして、
は胸の前でぎゅっとこぶしを握り締めた。
「あの、一体どのようなご用件でしょうか?」
「あなたには関係のないことよ」
「そうは思えませんが……。ここは真選組の屯所です。見廻組の皆さんには管轄外の場所なのでは?」
「一介の家政婦が、警察の仕事に口を挟むものではないわ」
「家政婦にも常識はあります。隊士の留守中にこんなに大勢で押し入って、礼儀がないにもほどがあります」
女に睨み返され、
はぐっと口をつぐんだ。自分でも気づかない間に、口調が荒くなってしまった。女が歩み寄ってきて、
の目の前に立つ。その大きな瞳は、底なしの深い闇のように黒々として、
はとっさに逃げ出したいような気持になったがなんとか堪えた。
「慣れないことはしない方がいい。さもないと、命が短くなるわ」
「……話を逸らさないで」
「私は私の仕事をしに来ただけよ。つつがなく任務を遂行できればそれでいい。余計な手間をかけさせないで」
は女の大きな瞳に写る、狼狽えて情けない顔をした自分を見た。女は能面のような無表情で
を見ている。
その眼差しの中に、なぜだろうか、懐かしいものを感じて
は無意識に呟いた。
「あなた、どこかで会ったことがある?」
女の目元がぴくりと痙攣するのを、
は見逃さなかった。
女は引きちぎるように踵を返すと、近藤のいる道場に向かって足早に歩き出した。
は少し迷ったが、これから何が起きるのか、きちんとこの目で見なくてはならない、駆け足で母屋を回っていくことにする。こちらの方が、中庭を回っていくよりも早い。
けれど、
が道場の縁側にたどり着いたときには、見廻組の隊士達に囲まれた近藤の両手首に、銀色の手錠が嵌っていた。
「近藤さん!?」
大声を出した
に、振り返ったのは銀時だけだった。松葉杖を持たなければ直立することもままならない銀時は、足袋のまま地面に下りた
の体をどうにか捕まえた。
「
! 待て、落ち着け!」
「でも! どうして、こんな、近藤さんが……!」
「公務を妨害しようというなら、家政婦だろうと容赦しないわよ」
近藤に手錠を掛けた女が、
を睨んで言う。
は腹が立って、声を荒げ、銀時と近藤を困惑させた。
「質問に答えて! あなたは誰?」
女は眉間に皺をよせ、吐き出すような声で答えた。
「……見廻組、副長、今井信女」
「私とどこかで会った?」
「会ったことはない」
「じゃぁ、どうして……」
は口籠った。突然、自分が何を言っているのか分からなくなってしまった。どんな罪状でかは分からないが、近藤が連れて行かれてしまう。そんな時に何を言っているのだろう。
呆然と立ち尽くした
に、銀時はその耳元で怒鳴った。
「おい、
! しっかりしろよ!」
その声は
には届かず、近藤の悲しげな微笑みだけが
の瞼の裏に焼き付いた。
国葬の警備から戻った真選組は、屯所に入ることも叶わず、町外れの古寺に追いやられた。
は小さな巾着にわずかな貴重品だけ詰めて持ち出すことができたけれど、隊士達はそれすらできず、着の身着のまま、持っているものと言えば愛用の刀一本だけだ。不安や苛立ちを隠せず、見廻組や幕府に対する悪口雑言が、寺の中に充満している。
は寺の外、階段に腰を下ろした銀時のそばに立って、じっとその喧騒に神経を尖らせていた。
「中、入ればいいのに。お前だって真選組の一員みたいなもんなんだろ?」
銀時が言うが、
は小さく首を横に振った。
「私はただの家政婦よ。首を突っ込んでも何もできないわ」
「そうか」
「銀さんは? 近藤さんからの伝言、もうちゃんと伝えたんでしょ」
「まぁ、なんとなくさ」
議論は紛糾している。
近藤を取り戻すために幕府に喧嘩を売ろう、近藤を救うために命を懸けようという意見が大半を占めていて、このままではこの足で近藤の後を追うという流れになりそうだった。
は平静な顔を装ってはいたが、内心、気が気ではなかった。そんなことをしては、巨大な幕府を前に全員が打ち取られてしまうのは目に見えている。こちらにはひとり一本の刀しかなく、拠点となる屯所ももうない。負け戦になるのがおちだ。それはみんなが分かっていることだろうが、もうそんな理屈は隊士達の怒りの前では何の意味もなさない。大将のために命をなげうつ。そんな悲劇には美学がある。みんな、そういうものに目がくらんでいるように見えた。
は、部屋の片隅で煙草を吸いながら静かに隊士達を見守っている土方の横顔を見たが、とても声をかけられる雰囲気ではなかった。
「ごめんなさい、少し歩いてくるわ」
は階段を下りて、荒れた庭に足を踏み出した。銀時は何も言わずにそれを見送った。
高台にあるこの寺からは、江戸の町の夜景が見下ろせた。夜の底で白々と光るこの町は、昨日までは真選組が守っていた町だった。幕府の都合で追い出された今、その鮮やかなネオンの光すらよそよそしい。
は膝を抱えるように座りこんで、眼下に広がる町を睨んだ。その脳裏に浮かんだのは、遠い昔、自分が捨ててきた昔馴染みの顔だった。
昔、全く同じようなことがあった。
大切な、世界で一番大切だった先生が、黒い着物と編み笠の役人に連れ去られ、そして二度と戻っては来なかった。銀時達は先生を救い出すため、結果的に攘夷戦争に参加することとなったが、
はそうなる前にあの場所を離れてしまった。銀時や桂や高杉がどんなに辛い思いをしたか、そこで一体何が起こったのか、どうして先生の救出を諦めざるを得なかったのか、
はそれを知らない。銀時が話さないから、聞かなかった。いや、聞かなかったから、銀時は話さなかったのか、どちらなのかは今となってはもう分からない。
あの時と同じことが、今起こっている。
隊士達は銀時達と同じように、近藤を救出する道を選ぶだろうか。その時、自分はあの時と同じように、そこから離れる道を選ぶのだろうか。そう思うとぞっとして、
は自分の二の腕をぎゅっと抱きしめた。一体自分は何にこんなにも怯えているのか、考えても分からなかった。
しばらくひとりでそうしていて、どうにか気持ちを落ち着かせてから本堂に戻ると、先ほどとは状況が一変していた。
怒声が飛び交っていた本堂は静まり返り、隊士達が神妙な顔をして静かに話し合っている。本堂の外に出てきている者も何人かいて、ひとり、またひとりと長い階段を下りて行く者もいる。
「戻ったか」
と、銀時が松葉杖を付きながらそばに来て、
はとっさに聞いた。
「何かあったの?」
「まぁ、見ての通りだよ」
「え?」
「鬼の副長の一声で、ひとまず落ち着いた」
はぐるりを見回した。そこに、土方の姿は見えない。
「土方さんは?」
銀時は申し訳なさそうな顔をして答えなかった。
頭が真っ白になってしまった
は、銀時の胸の辺りを呆然と見つめたまま硬直してしまう。
何も言わずに、行ってしまった。
満足に顔も見られなかった。
追えばまだ間に合うだろうかと思ったが、足に力が入らず動けなかった。
何を考えているのだろう、近藤を救い出そうという血気盛んな隊士達をたった一言で治めて、けれど、一番近藤のことを慕って、尊敬していて、助け出したいと一番心に強く想っているのは土方のはずなのに。
どうして、何も言わずに姿を消してしまったのだろう。
どうして。
20171010
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