三 さみしい 「さん、最近元気ないですね」 という隊士の噂話を小耳に挟んで、は辟易した。確かに土方に振られて落ち込んでいるというのは事実だけれど、それが噂話になるほどだとは驚きだった。 それをいちいち否定して回るのも馬鹿らしいので知らぬふりをしているものの、屯所の空き部屋や廊下の片隅からひそひそと聞こえてくる声はどうにも耳障りだった。 土方が謹慎処分になどならなければ、きっとこうはならなかっただろう。土方が屯所にいない。おそらく、二度と戻ってくることはないだろう。そういう空気が、に哀れみの視線を集めている。何しろふたりはそういう仲なのだと隊士の間では暗黙の了解だったので、大っぴらにはいかないものの、へ同情するのは致し方のないことだった。 「さん! 良かったら一緒に飲みに行きませんか!?」 とはいえ、下心丸出しでそんなことを言ってくる隊士に付き合ってやる気も起きず、はそんな誘いをのらりくらりとかわし続けた。そもそも土方とでさえ、ふたりでどこかへ出かけたことなどないのだ。土方がいなくなって空いた穴を誰かに埋めてもらおうという気は起きなかった。 「さん、近頃お疲れのようですね」 伊東から頼まれて、使い古した書物の処分をしていたは、急にそんなことを言われて面食らった。 伊東は縁側に腰を下ろして帳面をめくっている。その膝の上には猫が丸まっていて、時折、その背を撫でては静かに目を細めている。「さん」と名前を呼ばれていなければ、独り言を言ったのかと勘違いしてしまいそうだった。 「そんなことありませんよ」 伊東の横顔に向かって答えると、伊東はほんの少し口端を持ち上げた。 「そんなことを言って、顔色が優れませんよ。隊士達も心配しています。きちんと休みはとっていますか?」 「お気遣いいただいて、ありがとうございます。でも、本当に私は大丈夫です。おやすみもちゃんといただいてます」 「そうですか。それならいいのですが……」 は正直、伊東のことが苦手だった。真選組の中では異質なほど生真面目で、冗談ひとつ言わない。真選組の隊士は大雑把で粗野な人が多く、伊東のような人は珍しかった。それに、伊東はいつも何を考えているのかよく分からない。あまり自分のことを話す人ではないし、近寄りがたい雰囲気もある。 伊東がこんな風にの様子を気にかけると言うのも、随分珍しいことだった。 伊東は帳面をぱたりと閉じると、膝の上の猫を抱き上げた。 「てっきり、土方くんがいなくなって落ち込んでいるのかと思っていました」 あぁ、またその話かと、はこっそりため息をついた。土方の名前はここ数日耳にたこができるほど聞かされている。気を紛らわせるために、は紐で書物を縛りまとめる作業に熱中しているふりをした。 「そんなことありませんよ」 「そうですか? 隊士達が噂していましたよ。さんは土方くんの恋人なのでしょう?」 「いいえ、違います」 「そうなんですか? 毎晩土方くんの部屋で会っていたそうじゃないですか」 「それはお仕事の話をしていたんですよ。誤解されるのは困ります」 「そうですか。てっきり、さんなら土方くんの居場所を知っているかと思ったんですがね」 「居場所? 連絡はつかないんですか?」 「実はそうなんです。無期限謹慎の身とはいえ、完全に除隊となったわけではない。なんとか見つけ出したいのですが、一体どこへ行ってしまったのやら……。心当たりはありませんか?」 「さぁ。私にはさっぱり。近藤さんや、沖田くんが知っているんじゃないでしょうか?」 「2人とも知らないそうで、隊士達に命じて方々探し回っているところなんです。困ったものですね、これでは仕事が滞ってしまう」 「今度、街に出たときにでも、知り合いに聞いてみます」 「知り合い?」 はいざという時にしか頼りにならない幼馴染の顔を思い出して、苦笑いした。銀時が土方の行方を知っているとはとても思えなかったけれど、が頼れる人物は他にいなかった。 「友人に、何でも屋をやっている人がいるので。それとなく頼んでみます。土方さんと面識もありますし、顔の広い人だから、何か手がかりが掴めるかもしれません」 伊東はにやりと笑うと、膝の上から猫を下ろして庭に放った。どこかから、床板を踏みしめる足音がして、それはどうやら部屋から遠ざかっていく足音のようだった。誰かがそばで2人の話を聞いていたのだろうか。聞かれて困る話ではないけれど、嫌な予感がしては眉をひそめた。 「ところで、さんは武州に行ったことはあるのですか?」 「武州、ですか?」 そこは近藤達が江戸へやってくる前に住んでいた故郷だ。は近藤や沖田から昔話を聞いたことがあったけれど、それだけだ。 「実は今度、隊士募集のために武州へ遠征することになったんですよ」 「まぁ、そうなんですか」 「大掛かりな遠征でね。近藤さんに私もお供するんです。良ければ、さんもご一緒しませんか?」 「私が?」 目を丸くして顔を上げたの前に、伊東が立っていた。唐突に視界に飛び込んできた伊東の刀。そこからかすかに血の匂いがしたような気がした。 「実は、近藤さんからの提案なんですよ」 「近藤さんが?」 「さんの気晴らしになるだろうから、と」 「でも、私が行ってもお邪魔になるだけでは?」 「そんなことはありませんよ。戦をしに行くわけでもあるまいし。武州は田舎ですが、空気のきれいな良い場所だそうです。私たちが仕事をしている間に、ゆっくりと体を休めてください」 「……私は、そんなにくたびれて見えるんですか?」 伊東はの背後に回り込むと、喉の奥を鳴らして笑った。その声で、首の裏側に鳥肌が立った。嫌な予感がした。 「さんを心配しているんですよ。近藤さんも、僕も」 「お気持ちはありがたいのですけれど、お気遣いいただくだけで私は十分です」 「せっかくの近藤さんの申し出をお断りすると?」 「いえ、そういうつもりでは……」 伊東の手がの肩に触れて、はびくりと体を強ばらせた。伊東の手は肩を滑って胸元に伸びる。は反射的に立ち上がって、縛った書物を両手で持ち上げた。の細腕にそれはずしりと重かったけれど、泣き言をいう暇もなかった。 「本当に、お気遣いいただいてありがとうございます。仕事の都合もありますから、お返事はまた後日させてください。では、失礼します」 部屋を出て行くとき、は伊東の目を見られなかった。恐ろしかった。 これまでも、こういうことが全くなかったわけではない。真選組の隊士の中で女ひとり働くということ。ナンパもされたし、セクハラまがいのことも受けてきた。けれど、今までは土方がいた。鬼の副長と恐れられる土方が、をそばに置いていてくれた。2人の間には本当に何もなかったけれど、土方との関係についての噂話はそれだけで隊士達への抑止力になっていたのだ。 土方がいなくなってしまった途端にこんなことになるなんて。 は、屯所の廊下でひとり立ち止まると、重い書物を手放して、両手をぎゅっと握り締めた。腕をさすると、かすかに鳥肌が立っていた。 は自嘲して、苦笑いする。男の人に肩を叩かれたくらいでこんな風になるなんて、生娘じゃあるまいし。 どうして土方は真選組からいなくなってしまったのだろう。局中法度を犯したという理屈は分かるけれど、納得がいかなかった。真選組の顔とも言える鬼の副長が、どうしてここを去らなければならなかったのだろう。いや、そんなもっともらしいことを本心から思っているわけじゃない。本当は、ただ土方に会いたいだけだった。顔を見られればそれだけでよかった。少し疲れたり、不安が過ぎった夜に、ほんの少しだけ隣にいさせてくれたらそれだけでいいのに。 あの煙草の匂いがどうしようもなく懐かしかった。 20150817 |