八 や こう ちゅう





「さぁて、今日はどうするちゃん? 京の観光でもするか?」

坂本は昨日以上に明るく振舞っている。車の運転席でハンドルに両手を重ねて乗せて、サングラス越しに空を見ている。

はその横顔に、小さな声で言った。

「坂本さん、ご迷惑でなければ連れて行ってもらいたい場所があるんですけれど……」

「おう、どこじゃどこじゃ? 俺はちゃんのお抱え運転手じゃきぃ。どこにでも行ってやるぜよ」

坂本が努めて明るくいてくれている事が、暖かい心遣いとして嬉しかった。迷惑を掛ける事は申し訳なかったけれど、この旅の同行者が坂本でよかったと、は心底思う。

「それじゃぁ、萩まで。お願いできますか?」

坂本は、そのサングラスと同じ形に、きょとりと目を丸くした。





緑色の鮮やかな森。松陽の家の側にあるそこは子ども達の遊び場で、人の手の加えられた森は山菜や木の実が豊かだった。そして寺子屋の授業をサボるにはかっこうの場所で、そこを最も頻繁に利用していたのは坂田銀時だ。

「銀さぁん」

は森の入り口で、口の横に手を立てて大声で呼んだ。もちろんそう簡単に返事は返ってこないので、ずんずんと森の中に足を踏み入れる。この時は夏だったので、蝉の声が四方八方から煩かった。みんみん、じーじー、つくつくぼうし。

しばらく行くと森の中で一番大きな樫の木があって、その太く伸びた枝からだらしなく着物の足が垂れ下がっているのが見えた。紛れもなく銀時のものだ。見慣れているからにはよく分かった。

「銀さーん。そろそろ起きないー?」

見上げて呼びかける。やはり返事はない。蝉の声で聞こえていないのか、本気で熟睡しているのか、ただ無視されているのか、垂れ下がった足だけでは判別が付かない。
は少し考えて、思いついた作戦を実行に移すか悩む。相手は銀時だから、一筋縄ではいかないのだ。もうしばらく考え込んで、そして決めた。大きな声で叫ぶように声を張り上げた。

「あぁあ。せっかく今日は松陽先生がかき氷を作ってくれるのになぁ。特別に餡子と抹茶も買って来てくれてたなぁ。宇治金時おしいそうー」

「え、何それ。まじで」

凡そ子どもらしくない低い驚きの声を上げて、銀時は木の上からを見下ろした。いつもは死んでいる目が、甘味の響きを聞きつけてきらりと光る。あんまり単純なものだからは呆れてしまって、

「うーん、ほんとーう」

と、やる気のない返事を返した。もちろん嘘である。銀時はこれだから面倒だ。正直銀時の相手をするのは嫌いだった。

「早く帰ろう。夕ご飯の準備もあるよー」

「おう」

銀時は言うなり、結構な高さのある枝の上から飛び降りた。驚いて体を竦ませたの目の前、足全体のばねを使って落下の衝撃を殺して、しゃがみ込む様に着地する。涼しい表情だ。そして片手に持っていた木刀を帯に差して平然と歩き出したので、は慌ててその後を追った。

「本当、甘いものには目がないのね」

「当たり前だろ。俺から甘味取ったら何にも残らねぇ」

「わぁ、そこまで言う?」

蝉が二人の足を急き立てるように鳴いている。蝉時雨と言う言葉があるけれど、まさにその通り、雨のように降り注いでいる。それだけで体感温度が上がりそうだ。けれど森は木の葉の影に守られていて涼しい。二人分の足音。風が梢を鳴らしている。

「今、授業何?」

「思想史」

「あぁ、だからお前追い出されたのか」

「その代わりに縫い物してたよ」

「今ここにいんじゃん」

「課題分は終わったの」

「何縫ってたの?」

「雑巾」

「まだ雑巾かよ。そろそろ巾着ぐらい縫えるようになれって」

「余計なお世話よ! もう!」

森の出口まで来ると松陽の寺子屋の一部が、木の陰に隠れるようにして見えてくる。まだ授業中のようで、松陽の声が蝉の声に混じって遠く聞こえた。今更教室に戻っても仕方がない、と銀時が言う。もその通りだと思ったので、寺子屋の裏にある畑で時間を潰すことにした。

「あ、茄子が食べ頃かな。夕ご飯に使おうか」

「おー。いいんじゃねぇ?」

「銀さんも手伝ってよ」

「俺茄子食えねぇもん」

「好き嫌いは駄目だよ。松陽先生にも言われてるでしょ」

「甘かったら食うけどな」

「またそれ」

仕方がないので、は一人で茄子の収穫に臨む事にした。袖を襷掛けにして、髪を結う。収穫用の籠は畑の隅にいつも置いてある物を使う。寺子屋にいる生徒の人数ともかく、皆育ち盛りでものすごい量を食べるので、ある程度の量を持ち帰らなければならない。

銀時は土の上にべたりと座って、木刀を肩に立て掛ける。大きな欠伸をしながらの収穫作業を眺めていた。は初めから期待していなかったので、銀時を無視して作業に没頭した。どちらも何も言わないので、蝉の声だけやたら大きく響いた。

それは、未来から振り返ればとても郷愁的な場面になる。夏は無性に切なさを覚える季節だからいけない。暑さに意識が朦朧とする中で過ぎる記憶は、一歩間違えれば走馬灯だ。最期の時もきっと思い出すだろう。それくらい大切な物。

「なぁ、

「なぁに?」

「髪、伸ばしてんの?」

「……似合わない?」

「いや、そういうんじゃねぇけど」

「何? はっきり言ってよ」

「何でもねぇよ。別に」





夜の高速道路を制限速度以上で飛ばしている。深い橙色の街灯が等間隔で過ぎていく。その度に色の変わる車内で、坂本とは同じように前方を見つめていた。夜の空気はしっとりと湿っているように重い。声はひっそりと、誰を憚るでもなく小さい。

「それで、は今ロングヘアーなんか?」

「それだけが理由じゃないですけど。きっかけではあったかもしれませんね」

「桂は何か言うとった?」

「『もしかするとそれは俺の真似か?』って」

「ははっ! あいつらしいのう」

「その後銀さんと高杉くんに怒鳴られて」

「当たり前じゃ。あの二人が黙っとる訳ない」

「松陽先生が止めに入ったんですよ。罰として三人とも半日正座して……」

ちゃんは何か言われたん?」

「私は、別に何も。松陽先生、誰が見ても私に甘くて」

「女の子は一人だったんか?」

「そういう訳じゃなかったんですけれど。……私は、娘だったから」

萩に着くまではまだまだ時間がかかる。けれどその夜、は一睡もしなかった。



20091016修正