六 むじょう に はな の さく よる 京へ着いたら夕方の少し早い時間で、運転に疲れた様子もない坂本は早々に宿を取った。車で凡そ五時間の旅路だ。耳鳴りと戦いながら、シートベルトに縛り付けられた状態で座りっぱなしだったは、腰が疲れてしまっていたので坂本の気遣いにありがたく甘えた。 「大丈夫か? ちゃん」 はらしくなく、背中を少し丸めながら腰をさすって苦笑いする。 「すみません、車には慣れてなくて……」 「気にせんでもいいきに。ちょっと早いが、今日はもう部屋で休んで、ゆっくりするといいぜよ」 坂本はを部屋まで送ると、からりとした笑顔を残してどこかへ行ってしまった。 この宿は三階建ての小さな温泉宿で、部屋にあった館内案内図には、一つだけあるらしい露天風呂が赤字で記されている。客室は少ないらしい。がいる部屋は十畳ほどの和室で、障子を開けると板張りの床にテーブルと椅子が二脚置いてある。その向こうは大きな窓になっていて、宿の裏手にある小さな里山の緑が見える。襖の中には二人分の寝具と浴衣があった。 ひとまず、凝った体を解す為に湯に浸かって来たは、備え付けられた内の一つ、藍色に白い百合の花があしらわれた浴衣を着て、窓の外の緑を眺めて休んだ。 夕暮れの京は静かだ。昔ながらの神社や寺や墓地が、江戸よりも多く残っている。自然も多い。山が近くて、鴨川は京の街を横切るように流れている。それだけで、江戸よりずっと静かだ。少しだけ懐かしい。 「……天人も、少ないのね」 はぼんやりとつぶやいた。いつも結っている髪は洗い立てで、そのまま背中に流したままにしている。そういえば、真撰組の屯所にいる時に、こんなに力を抜いて休めたことはなかった。そう思ったら、何だか笑えた。屯所にいる時、それを不自由に思ったことはなかったのに、今こんなに静かな場所にいると安心する。不思議だった。 ふと、ノックの音がした。 「ちゃん? おるか?」 坂本の声だった。は姿勢を正して、返事をする。 「はい。どうぞ」 がらりと引き戸が開く。坂本は相変わらずの笑顔で片手をひらりと振った。けれどの目にそれは映っていなかった。 坂本の隣には、煙管を手に持った男がいた。蝶の柄の浴衣を着崩して、肩に大きな羽織を掛けている。黒い髪。左目を覆う包帯。高杉晋助はぐいと顎を上げてを見下ろすと、にやりと笑った。 「久しぶりだな、」 「……え……?」 あまりのことにの思考はすぐに働かない。高杉を凝視したまま動かない目は皿のように丸く、膝の上に置かれた指先はぴくりともしない。 高杉はくすくすと息を漏らしながら笑って、ずかずかと部屋に踏み込んできた。遠慮なく、それでいて流れるようにの真向かいに座る。瞬きもできないに、高杉は軽妙に言った。 「いつまで呆けてんだ? しっかりしろ」 高杉は煙管をの目の前で振って見せた。薄く立ち上る煙と嗅ぎ慣れないその匂いに、はようやく覚醒する。ふいに視界がぼやけるの感じたら、次の瞬間には泣いていた。子供の様に小さく背を丸めて、両手で顔を覆って、肩を震わせて泣いた。高杉は肩を抱くでも髪を撫でるでもなく、暮れ行く空を眺めながらの側にいた。ただ、それだけだった。 が落ち着いてから、二人はその部屋で一緒に夕食を取った。小さな宿と言うこともあってそう豪勢な献立ではなかったけれど、山菜や京野菜がふんだんに使われた郷土料理は素朴で美味だ。一緒に供された地酒は透明感のある日本酒だった。月の桂、という銘柄らしい。 「……まさか、本当に会えるなんて思ってなかったわ」 は言う。ちゃぶ台に向かい合って胡坐をかいている高杉は、にやにや笑ったまま答えた。 「俺だってそうだ。あの時が今生の別れだと思ってた」 高杉は酷くゆっくりと食事をする。箸を動かす速度も遅いし、咀嚼も丁寧だ。食欲がない訳ではないようだけれど、なんだか不思議な動作だった。体の欲求に任せて栄養を摂取しているというより、もっと意識的な行動に見えた。 対しては、本当に食欲がなくて箸が進まなかった。高杉が目の前にいるという事実だけで胸がいっぱいだった。目を逸らせなくて、いっそ穴が開きそうなほど見つめていた。 「坂本さんに、案内してもらったの?」 「まぁな。どうやって俺の居場所を嗅ぎ付けたのかは知らねぇが」 「あれからずっと京にいたの?」 「そういう訳でもねぇよ。あちこち転々としてた」 「そうなんだ。警察とか、大丈夫だった?」 高杉はふいに、箸を持った手で口元を押さえて笑った。にはその意味が分からなくて、きょとんとしてしまう。 「お前、質問してばっかだな」 「だって……」 「相変わらず心配性だな」 高杉は肩を震わせていつまでも笑っているけれど、そうされる事が気に食わないわけでも、腹が立つでもなかったので、は黙って箸を動かした。高杉は笑い上戸だ。昔からそうだった。こういう時は待つしかないのだ。 そういえば、坂本はどこへ行ったのだろうか。同じ宿の違う部屋に泊まっているのだろうか。ぼんやりとそんな事を考えた。 「で、何で京になんか来たんだ?」 「え? 何でって?」 「用事があって来たんじゃねぇのかよ」 言われて、は目を丸くした。京へ来たのは高杉に会うためであって、それ以上の事は何も考えていなかった。もともと本当に高杉に会えると思っていなかったし、昔の事に思いを馳せるばかりで先の事なんか何も考えていなかった。 今になってそれがとても恥ずかしくて、は思わず俯いてしまう。箸を持った手が膝の上に落ちた。 「? どうした?」 うまく言葉を選べず、は悶々と考え込む。高杉に会って、今、本当に言いたいことは何だろう。 「あの、……」 「あぁ。何だ?」 「……元気だったんだよね?」 は顔を伏せたまま、独り言のように言った。つまるところ、高杉について気になっていることなどそれくらいしかなかったのだ。攘夷活動に身を投じている高杉の無事を確かめることなどそう出来る事ではないから、元気な姿を見られればそれでよかった。顔を見るだけで、それだけで十分だった。 「銀時達はどうしてる?」 高杉は質問には答えず、逆に自分から質問をする。が戸惑って顔を上げると、高杉は箸を箸置きに置いて、頬杖を着いて、を見ていた。長い髪と包帯のせいで、からその表情はよく見えない。 「……元気よ。桂君とはあんまり会えないけど、真撰組には捕まってないし」 「そうか。そりゃよかった」 「心配してたの?」 「あいつらの事いちいち心配してたら身が持たねぇよ」 「……私はいっつも心配してるけど」 「だからそんな疲れた顔になってんじゃねぇのか?」 「よく言われるんだけど、……私ってそんなに心配性かしら?」 「だから言ってんだろ」 高杉は煙管に火種を入れて火を着けると、口に咥えてゆっくりと、吸って、吐いた。そのゆるやかに流れるような仕草。映画の一場面にあるような、見せ付けるような美しい仕草。片足を立てて肘を付いた寛いだ姿勢で、高杉は笑った。 「俺は、死なねぇよ」 あの時と、同じ台詞だった。真撰組の包囲から逃れるために車を走らせた、あの騒がしい夜。微かに血の匂いを孕ませた、再会と不思議な高揚感に彩られたあの夜。高杉はあの時も、こんな風に笑っていた。 「少しは安心したか?」 また少しだけ泣きそうになりながら、は精一杯の力で頷いた。 心配は消えないし、安心なんかこれっぽっちもできなかったけれど、それでも高杉の口から言葉を聞けてよかったと思えた。思い出はまだ目の前で生きていてくれるのだと、思えた。 20091016修正 |