九 ここ で はなし て





微かに血の臭いを孕ませた夜だった。

攘夷志士の大量検挙の真っ只中にある真選組の筆頭は、かぶき町近くにパトカーを停めていた。車体に寄り掛かって咥え煙草をしている土方は、隊士達の報告を受けてそれを総括して、車の中にいる近藤に逐一伝達している。

「一先ず大方は片付いた、か?」

近藤はそう呟くように言って、同意を求めて土方を仰ぎ見る。組んだ腕の拳は固く握られていて、口許はきりりとしまって勇ましい。土方は振り返らずに答えた。

「あぁ。しかし、奴等の行動は解せねぇ」

右手で口許を塞ぐようにして煙を吐き出す。夜の雲のように、それは風に流れて消えた。

「先日の一件で、高杉派も桂派も相当の手駒を失ったってのに、今こんな騒を起こすのに何の意味がある?」

「確かにな。まるで何かのカモフラージュのような、誘導のような……」

「まさかとは思うが、高杉の策か?」

「断定は出来んが可能性はあるな。山崎はどうした?」

「調査に走らせてる。直に戻るだろ。あらかた落ち着いてきたし、そろそろ引き際か」

土方が煙草を踏み潰すと、それとほぼ同時に沖田が戻ってきた。自分の体程もあるバズーカを背負ったままけろりとした顔で片手を挙げた沖田は、隊服に返り血を浴びて凄惨ないでたちをしている。土方と近藤は微かに目を見張ったけれど、まぁいつもの事かと思って気を取り直した。

「よぉ、総悟。首尾はどうだ?」

「そこそこでさぁ。引き時かと思って撤退してきやした」

「自己判断かよっ」

「まぁ今そう話してたんだからいいじゃねぇか」

沖田はバズーカをパトカーに片付けて、重いそれを持って凝った肩をぐるりと回して解した。土方は気に食わないと言わんばかりに視線を険しくしていたけれど、それを言葉で咎める気はもうなかったようで呑気に煙草を吹かしている。

と、その時携帯電話の着信音が鳴った。

「山崎か? あぁ。……」

沖田は土方の注意が自分から離れたのを見て、こっそりと踵を返した。今日は随分と面倒な残業をしてしまって疲れたので早く帰って休んでしまいたかった。サボリは沖田の十八番だ。忍び足だって雲隠れだって得意なものだ。

建物の間の路地を縫うようにして身を隠して、野良猫の隣を並んで家路を急ぐ。あんなに騒がしくて血の匂いの濃い夜も、道を一本外れてしまえばその気配は薄らいでしまうのだから不思議だ。隣を駆け足している猫の毛並みは真っ黒で、黄色の瞳だけがまるで光物みたいにぎらりと光る。

「お前さんも帰りかい?」

話しかけてみたらあっさり視線をそらされて、尻尾を振りながら先に行ってしまった。無視すんなよ、と心の中で毒づく。そうしてから、自分の隊服に付着した返り血の事を思い出した。黒猫には少々刺激が強かっただろうか。沖田にとって、返り血なんか食事中にちょっと醤油を溢したくらいのものだけれど、嗅覚が敏感な動物にとってはそうもいかないのだろう。

「だからモテねぇのかなぁ」

まさかそんな訳はないだろうけれど、一人きりの涼しさになんとなく呟いた。黒猫のしなやかな背中を視線で追いかけたら、路地の出口の明かりが目を焼いた。車のヘッドライトだ。沖田は思わず立ち止まって、物陰に身を潜める。もし攘夷志士が乗る車だったりしたら面倒だ。

「……まで送ってくれなくてよかったのに……」

「別に構いやしねぇよ、……」

しまった、と思った。攘夷志士とは関係なさそうだけれど、これは聞いてはいけない会話だ。声を聞く限りこの二人は男女だろう。恋人同士の夜の会話なんぞ、好き好んで聞き耳を立てたいものではない。言葉をはっきり聞き取れないくらいの距離があるだけましだけれど、妙な気分だ。帰路が塞がれていて動くに動けない。沖田は黒猫の身軽さをうらやましく思った。

ふと、気付く。この声はどこかで聞いたことがないだろうか。沖田は無意識に耳をすませた。





「……これからどうするの?」

思わずは聞いてしまって、寂しさにふと目を細めた。今日高杉に会えたことは偶然だった。再びこうやって話をすることなどもうないかもしれない。今更そんな簡単なことに気付いて、は自分の憎まれ口を呪った。伝えたい事はもっとたくさんあったはずなのに。

高杉はの正面に立って、開いたままの車のドアに片手をかけて惰性みたいに煙管を咥えながら答えた。

「ひとまずは京にでも行くさ。身を隠すにはうってつけだからな」

「……そう」

ぼんやりしていたら俯いてしまいそうな気持ちを奮い立たせて、は必死に高杉の顔を見ていた。目を逸らしてしまったらそれが別れの合図になってしまいそうだ。それはあまりにも残酷だ。

どうして時は流れてしまうのだろう。あの頃、あんなに幸せだった日々は何故過去なのだろう。銀時に伝えた言葉を、同じように高杉には伝えられないのは、何故なのだろう。
それはにとって銀時の方が大切だからという事ではなく、高杉が独りよがりで他人を寄せ付けない性質を持っているからだ。はそれを乗り越えて側に寄り添う事は出来ない。捨てられない現実が、今の周りを取り巻いて邪魔している。互いの手をとる事さえ、もう許されないのだ。

「そんな顔すんなよ」

高杉は呆れたように笑って煙管を口から離すと、の後頭部に手を回して自分の肩に引き寄せた。は驚いて、言葉が出ずに身を強張らせた。高杉にこんな事をされるのは初めてだった。高杉が吸っている煙草の苦い香りがした。耳元で聞こえる高杉の声は優しい。

「俺は死なねぇ。安心しな。昔みたいなへまはやらねぇよ」

「……高杉君」

「お前は幸せになれよ」

一時、高杉の手に力がこも篭っては息を詰めた。

銀時にも、桂にも言われたことだ。早く身を固めろとか、子どもを産めとか、吉田松陽にも昔からずっと言われ続けてきた事だ。けれどにとってそれはむしろ呪いの言葉になっている。すでに亡い松陽の教えは生きる術となっての体に染み付いているけれど、松陽の存在自体はそれ以上の意味を持っている。

あの頃、幸せは松陽の存在と同義だった。いつまでも、今でもその価値が揺ぎ無いのは松陽の死があまりに唐突だったからだ。だから桂や高杉は攘夷活動を止めないし、銀時やは過去を秘事にしている。

幸せの基準は松陽でしかない。昔からその価値観だけは変わらない。女としての幸せは、必ずしもにとっての幸せにはなりえない。

は頷かなかった。高杉は返答を求めている様子はなく、軽くの肩を叩いて体を離してもう一度目を合わせる。

「気をつけて帰れよ」

「……高杉君もね」

高杉は車の中に戻って、の目の前で扉を閉めた。窓には高杉の姿を隠すために黒のカーテンが掛かっていて、それきり高杉の姿は見えなくなる。が車から離れたら、あっけなく車は発進してしまった。



20091010修正