十 と に やすんずる こと





翌日の朝である。

「おい、山崎」

屯所の庭、朝からミントンのラケットを振っていた山崎は、声をかけられて振り向いた。縁側に立っていたのは沖田で、今日は非番らしく白い着物と薄茶の袴を纏っている。山崎は顎の下を伝う汗を手の甲で拭って答えた。

「沖田さん。おはようございます」

「聞きてぇことがある。ちょっと顔貸しな」

「? はぁ」

沖田はその場にしゃみこんで手招きをするので、山崎は歩み寄って腰を屈めて視線を合わせた。沖田妙に真剣な表情していて、周辺に誰もいない事確認すると口元に手を当てて声を低くする。

「誰にも他言すんなよ」

「何です? もったいぶって」

さんの事、お前なんか知ってんだろ?」

山崎は思わず咽た。唾が飛んで沖田の顔にちょっとかかる。沖田は嫌そうに眉を寄せて、額に血管を浮かせた。

山崎にとっての話題は鬼門だった。何しろ、あれ以来まともにと顔を合わせて話すらできていない。どうやら沖田はそのことに気付いていたらしい。

「やっぱり何か知ってんだな?」

沖田はまるで邪気のない子供みたいな顔で笑って見せた。沖田の本性を知っているから、背後に般若のお面の凄みのある笑顔が見えた。

「いいいいいや、別に! 何も知らないっすよ俺!?」

「嘘付けぃ。顔に書いてあんだよ」

沖田は唐突に山崎の前髪を掴んで引いて、至近距離で視線を合わせた。目は確かに笑顔の形をしているのに、瞳が笑っていない。黒々と濡れた虹彩に映る自分の姿を見止めて、山崎は背筋を伝う冷や汗に肌を粟立てた。

「全部話せ」

そう言われてしまえば、

「……はい」

と、頷くより他になかった。





一方でその頃、土方は昨晩帰宅してから数時間の睡眠で目を覚ましたところだった。沖田がサボったせいで事後処理に時間が掛かってしまったことがその原因だったのだけれど、いつもの事なので慣れたものだ。もちろん、後で一喝しておくことは忘れない。

朝の一服をしながら着物姿で寛いでいると、朝の湿った空気に煙草の煙が滲んだ。冷えた空気が疲労に沈んだ体に優しい。今日の仕事は午後からだから、午前はゆっくり過ごそうと思う。

「土方さん? 起きてます?」

ふと、縁側から声が掛かって振り向いた。盆に急須と湯飲みを乗せて運んできたのはで、夜でもないのに障子の向こう側に正座していた。そこから動く気配がない。部屋の奥の座布団に腰掛けていた土方は、仕方なく灰皿を持って立ち上がる。そのまま畳の隅に胡坐をかいた。

「どうした?」

「いえ、朝食にいらしてなかったので」

「別に、少し寝過ごしただけだろ」

は急須から茶を注いで、土方の前に差し出す。土方は煙草の火を消して、湯気の立ち上る暖かい湯飲みを右手に持った。

は膝に両手を揃えて、綺麗に背筋を伸ばしている。視線が少しだけ下に落ちていて、前髪がその表情を隠していた。少し疲れているのだろうか、そう土方は思ったけれど、ただそれだけとは理解しない。

「お前、何で昨日帰ってきたんだ?」

ふいに言われて、はきょとんと目を丸くする。土方はその仕草を眺めながら、体の後ろに片手を付いて重心を移す。

「危ねぇから万事屋の野郎の所に泊まれって、総悟から連絡行かなかったのか?」

「……いえ、電話をもらいましたけど」

「だったらなんで出てきたんだ? 何もなかったから良かったものの、攘夷志士と鉢合わせでもしてたらどうするつもりだったんだ」

土方は当たり前の事を言っただけのつもりだったけれど、は視線を曇らせて俯いてしまう。真っ直ぐだった背筋が少しだけ曲がったような気がして、土方はその時ようやくの様子がおかしい事に気付いた。

、お前どうかしたのか?」

は何か言おうと口を開きかけて、けれど躊躇って指先を口元に添えた。迷うように目線をあちこちに動かしていたので、土方は待った。

近藤の御節介な言葉をきっかけにした二人の口喧嘩は、結局そのまま水に流れた形になっている。土方にと っては心底馬鹿馬鹿しい話だ。だいたいの将来に口を出せるような立場ではないのだし、あの時は夜だったからつい口が滑ってしまっただ けの事だった。そんな事はも分かっているはずだ。だから、土方はの表情に映る感情はそれと関わりはないと決め付けていた。

「……別に、大したことじゃないんですけれど、」

そう言って、は無理に唇を笑みの形にする。三日月のような、緩やかな曲線。引いた紅は健康的な美しい赤だった。

「昨日たまたま、昔のお友達に会っちゃって。屯所の近くまで送ってくれるって言うから甘えちゃったんです」

「へぇ、そうだったのか」

「えぇ。そうなんです」

は何が面白いのか、息だけでくすくすと笑った。それはとてもわざとらしい仕草で、土方は不審に思って眉をひそめた。の様子がおかしい。いつものように、溌剌としていない。けれどそれを指摘する気にはなれなかった。触れてはいけない事のような気がした。

「彼と会うの、もう何年ぶりかも分からなかったから。懐かしくなっちゃって」

「そう言えば、万事屋の野郎も昔馴染みだって言ってたな」

「同郷なんですよ」

「へぇ」

土方は指先を持て余して、再び煙草に火を着けた。煙を吸って、深く呼吸して吐き出すまでの、長いようで短い時間。は何もせず、ぼんやりと瞬きを繰り返している。

土方はあえて何も言わなかった。の様子がおかしいのは誰が見ても明らかな事だろう。土方が朝食をすっぽかした位で様子を見に部屋までやってくるなんて事も、いつものを考えればありえない事だ。けれど土方は、その異常を正すために必要なものを何一つ持っていない。

「ところで、土方さん」

「あぁ?」

「先日の近藤さんのお話なんですけれど」

は土方が戻した湯飲みを盆に載せて片付けて、自分の膝元に下げる。その仕草一つ一つをいちいち目で追いながら、土方は慎重にの言葉を待った。

は静かに言った。落とすように、そしてそれを自分自身で受け止めるように。

「きちんとお断りしてきましたから」

土方は何と答えていいのか分からず、煙草を咥えて沈黙を誤魔化した。

煙は重力に逆らって空へ昇っていく。空は良く晴れていて、白い雲はまるで水で引いたように薄い。誰か剣の稽古をしているのだろうか、屯所のどこかから威勢のいい掛け声と竹刀を打ち合う高い音が微かに聞こえた。

「……そうか」





山崎から知っていることの全てを聞き出した沖田は、柱の影で二人の話を聞いていた。山崎の情報力の確かさを疑いたくなりながら、それでも世界で一番気に食わない真撰組副長の不器用さと不甲斐なさを嘆く。

山崎は、の秘密を土方に話す気はないと言った。沖田ももちろんそう思っている。攘夷戦争という過去など、今の世となってはもはや時効となっていておかしくはないし、に罪はないこともその人間性を知っていれば明白だ。

けれどこのままでは何も変わらない。土方は馬鹿だから、布石としてこの事実を投げ込まなければならない日は来るのかもしれない。まぁ、沖田がそんなことをする義理はないのでやらない。土方なんかより、の方が沖田にとっては大切だ。なんたってあんなにうまい飯を毎日作ってくれているのは他でもないなのだから。

「……ま、俺の知ったこっちゃねぇか」

呟いた沖田は、足音を殺してその場を離れた。さて、今日の昼飯は何かなぁ、なんて考えながら。



20091010修正