八 や も たて も





夜の喧騒を遠くに聞きながら、高杉は煙管を吹かせながらぼんやりとネオンに彩られた江戸を眺めている。

部屋の照明は落とされていて、ひとつ灯された蝋燭の明かりは穏やかな橙色だ。闇に沈むように溶け込む紫に揚羽蝶の柄の着物、その裾は美しく円状に畳の上に広がっている。蝋の溶ける匂い、その中に混ざっていた不純物が焦げる匂い、紫煙の煙るような匂い。夜風はひやりと冷たい。煙管から立ち上る煙が部屋の中に薄く雲を作り出していた。

「晋助様。車の準備ができたっす」

「あぁ」

高杉の信奉者、来島また子が襖の向こう側でそう言ったけれど、高杉は相槌を打っただけで動かない。高杉が立ち上がるのを待ちながら、また子は覗くように高杉の横顔を眺めた。美しく整った顔立ちは夜の闇の中でこそよく映える。左目が包帯で塞がれているので表情は見えないけれど、だからこそ高杉は妖艶で美しい。その美しさに、また子は心底惚れていた。

「晋助様、お早く。真撰組がそこまで来てるんすよ?」

急かすまた子に、高杉は口端を嫌らしく持ち上げて笑った。下卑た笑い声が妙な調子で響いた。

「そう慌てるなよ。せっかくいい夜なんだ」

「確かにそうっすね。けど下じゃ、幕府の犬が駆けずり回ってて騒がしいだけっすよ」

「それもそれで江戸らしいじゃねぇか。俺は祭が好きなんだ」

高杉はそう言ってからようやくゆらりと立ち上がる。酔っているようにも見えるけれど、これが高杉の美しき常だ。また子はその病的な緩やかさに見惚れながら、高杉の草履を揃えて置いてやる。歩き出した早足のまた子に合わせて、高杉はその隣を歩いた。煙草の甘ったるい匂いを体中に孕ませながら、それは歩くたびにまた子の鼻腔をくすぐった。

「外の奴等はどうしてる?」

「好き勝手暴れてて状況が掴めないっす。晋助様が江戸を脱出するためとはいえ、派手にやり過ぎっすよ。武市先輩が先に出て逃走経路確保してるっす」

「……そうか」

高杉はぼんやりと答えて、また一息煙管を吹かした。

また子が感じている限りでは、高杉は紅桜の一件以来少しおかしい。以前より物思いに耽る時間が長くなったし、言葉の応答も力ないものが多くなった。昔馴染みと顔を合わせて情に絆されたということはないだろうけれど、おそらく原因の一つではあるだろう。また子は心配でならないけれど、高杉の過去を知らない身としては勝手な事は言えない。そんな事をして高杉に嫌われたくはなかった。

「……車は裏口に回してるっす。とにかく急いでください」

「あぁ」

「……それから、」

だからこそ、この事実を告げたくはなかった。また子の知らない高杉の過去。綺羅やかで美しい思い出の中にいる女。それが、現実に目の前に現れてしまっただなんて。

「何だ?」

「……女が一人、晋助様に会わせろと言ってるらしいんですが」

「女?」

「外に出てた奴等が連れて帰ってきたんすよ。理由はよく分からないっすけど、とりあえず捕縛してるっす」

どうしますか、とは聞けなかった。答えは知っていた。高杉はその女の顔を見たがっている。声を聞きたがっている。もしかしたら、自分の女として傍に置くことを望んでいるのかもしれない。そんな事は絶対に耐えられなかった。どうして愛して止まない高杉の前に自分以外の女を差し出さなければならないのだ。

「一緒の車に乗せろ」

あんまりと言えばあんまりな答えに、また子はつい眉根を寄せて高杉を振り返ってしまった。高杉は片手に煙管を乗せたまま悠々と歩いている。その表情には焦燥も恐慌もない。当たり前だ、と思う。彼は高杉晋助なのだから。

「いいんすか? 敵だったらどうするんすか?」

「海沿いを走れ」

高杉の口から、細く長く煙が流れ出た。夜に溶けるように、禍々しさと美しさを足して二で割ったような穏やかさで、高杉は笑った。

「何かあったら捨てる」





「ご機嫌麗しゅう。高杉くん」

高杉が車の上座に乗り込むなり、は女郎時代に培った一番綺麗な笑顔を作り出して挨拶をした。高杉の顔を見たらこう言おうと初めから決めていた。からかってやりたかったからだ。

高杉は一時目を見張ったけれど、息を漏らしてくすりと笑うとさっさとの隣に乗り込んで煙管を吹かした。

「やっぱり、お前だったか」

「あら、私がここに来るって知ってたの? 凄いわね。千里眼でも持ってるのかしら」

「馬鹿言え。ここ数日で桂にも会って銀時にも会ったんだ。お前に会わねぇわけがねぇ」

「大した運命論ね」

二人が会話をしている間に高杉と一緒にやってきたまた子は助手席に座って、もう一人の部下に発進を命じた。

車が発進する振動を感じながら、は高杉に背を向けて、後ろ手に縛られた両手を差し出す。高杉は何も言わずに脇差でそれを切った。自由になった両手首を軽く振って凝りを解して、はやっと落ち着いたと言わんばかりに溜め息をついて座席に凭れ掛かった。

「酷いわね。手首に縄の跡が残ったわ」

「数日すれば消えるだろう」

「そうね。そしてその数日間妙な趣味持ってるんじゃないかって疑われ続けなくっちゃならないんだわ。面倒くさいったらありゃしない」

「なかなか言うようになったじゃねぇか」

「そう? 変わらないわよ。昔と何も」

高杉がこちらを見て笑うのを感じて、は視線を合わせて心から微笑んで見せた。水商売用の作り上げた笑顔ではなく、心から歓びを伝えるために笑った。久しぶりに会った昔馴染みに必要な笑顔だった。

「高杉くんもお変わりない?」

「あぁ、そこそこな」

気取った言葉を使うのは嬉しさあまっての気持ちの高揚のためだ。照れ隠しのためではない。

車の外では攘夷志士と真撰組が剣を交えて大騒ぎをしている。喧騒はエンジンの音に紛れて遠い。血を見る程の大きな事件が外では起きている。だからこそ、この内の世界は暖かな血が通っているような気がした。は今とても嬉しかったし幸せだった。

「桂くんと銀さんと喧嘩したんですって?」

「俺がじゃねぇよ。うちの奴等が何をしたかは知らないがな」

「同じ事でしょ。昔もみんなよく喧嘩してたけど、年を重ねて大人しくなるどころか、みんな派手になったわね。新聞に載るようになるくらいだもの」

「へぇ、それは知らなかったな」

「載ってたのよ。私はそれで初めて事件の事を知ったの。それから大怪我してる銀さんに会ったわ。銀さんが事件に関わってたことを知ったのは私が一番最後だった」

「何を基準にした最後だよ」

「みんなに話聞いて、結果的にそうだったって分かったのよ。また仲間はずれにされちゃって寂しいわ。本当みんな昔から変わらないんだから」

話していたら、はだんだん感傷的になってきてしまって視線が下がっていくのが嫌でも分かった。

仲間はずれになるのは、性別からはじまって生き方まで彼らと全く違う道を歩んできたからだ。仕方の無いことだ。初めから諦めていた事なのに、悔しいと感じてしまうのは何故だろう。昔馴染みが命を奪い合うような事になってしまったのは何故なのだろう。その只中にいながら生きるために逃げ出して、彼らから離れたのは自分のはずなのに、それを後悔しているつもりも皆目無いのに、共に生きられないことを寂しく思うのは何故なのだろう。

「心配ならいらねぇぞ」

高杉の声を耳元で響いた気がした。

「俺等は好き勝手に生きてんだ。お前も好き勝手生きてきたんだろう?」

「……それはそうね」

「その結果がこれなら、仕方ねぇさ」

「でも、”仕方ない”って言葉の意味は妥協よ」

「違ぇよ」

煙管から立ち上る紫煙がくゆる。いつもの夜に隣にいる人とは違う香り。寂しさに、少しだけ泣きそうだった。高杉の横顔を見る。左目が包帯に巻かれていて表情が見えない。その左目の怪我の由来さえ知らないことが、とてもやりきれなかった。

「過ぎた事をいちいち言うなよ」

「……過激派攘夷志士の言う台詞じゃないわね」

「そうかぁ? そうでもねぇよ」

夜の景色が、車窓の外を流れていく。にとってそれはどうでもよくて、見えない高杉の表情ばかりを探っていた。紫煙が高杉の横顔を隠している。それはの口を塞いで、言いたいことの半分も言葉にさせなかった。

鼻の奥がつんとする。胸苦しさに息が詰まる。それでも涙だけは堪えた。



20091009修正