五 ごかい より みつごと の あと 近藤からまさかあんなことを言われるとは思っていなかったので、は酷く疲労していた。苛立ちももちろん感じていたのだけれど、それと同時に脳を働かせる事に必死だったのだ。心を落ち着かせるために、頬に手を添えて軽く叩く。ずっと笑顔を作っていたから顔の筋肉が強張っていた。 「……ていうか、結婚って」 近藤には言えなかった言葉を呟いてみる。あまりに現実味がなくてかえって頭が冴えた。 土方十四郎ともあろう人がそんなこと承諾する訳がないだろうし、結婚という選択肢が土方の人生設計に設定されているのかどうかすら疑問だ。いや、確実にないだろう。 近藤もずいぶんと酷なことを言ってくれるものだ。そう思っては苦笑した。近藤はお妙のストーカーになって久しいけれど、その義理深さに定評はあるし、真選組がここまで大きな組織に成長したのも近藤の努力の賜だ。ストーカーでも局長だし、隊士達にも慕われている。に結婚を勧めたのも、土方との幸せを願ってのことだろう。その気持ちは分かる。だからって素直に頷く事はできないのだ。 は固く口元を引き結んだ。 その日の土方はどうやら不機嫌であることが分かって、はその顔を見るなり顔をしかめた。土方は煙草を吸いながら庭の方を眺めていて、から見えるのは横顔だった。 副流煙が燻っていて、苦い香りが満ちている。 「土方さん」 「……あぁ」 一間置いて、土方は振り返る。長い前髪が顔に濃い影を作っている。 「どうしたんですか? 何かありましたか?」 「何だよ急に」 「なんとなくですけど」 土方の隣に膝を折って座って、吸い殻が山になった灰皿を自身の方に引き寄せる。吸い殻回収用の紙袋ががさがさと大きく鳴った。 「別に何もねぇよ」 「そうですか。すみませんでした」 副流煙が漂っている。縁側には微風もあるというのに、土方の周りには白い煙がまとわりつくように残っている。土方の着物にも隊服にも染み付いた匂いだ。いつだったか、沖田に「さん煙草臭いですぜ? 土方さんの匂い移されて来たんじゃないですかぃ?」と忠告されたことを思い出した。こうやって土方の匂いをもらうのだと思った。 「今日、近藤さんと話してただろ」 と、土方が言う。 は思わず指を止めてしまったけれど、すぐに気を取り直して笑顔を繕った。 「話くらいしますよ。同じ屯所内にいるんだから」 「天気の話でもしてたのか?」 「そうですね。近頃の天気予報ははずれてばっかりですから。なかなか予測が立てられなくて」 「わざわざ膝付き合わせてそんな話か。暇だな」 「誰かに聞いたんですか?」 「まぁな、そんな所だ」 「そんなに天気の話が気になるんですか? 確かに雨の中で刀抜いたらお手入れ大変だと思いますけど」 「いやそっちの話じゃねぇよ」 土方は短くなった煙草の火を灰皿の上で押し潰した。いつもより荒っぽく見えるその仕草に、は違和感を覚える。そして、もしかしてと思った。 「もしかして、知ってるんですか?」 土方は答えず、ひときわ長く煙草を吸って、長く長く白い煙を吐き出した。その沈黙が何よりの肯定になる。は、面倒なことになったと、小さな溜め息を溢して言った。 「近藤さんから聞いた訳じゃありませんよね。立ち聞きでもしてたんですか?」 土方は答えない。 「図星ですか」 白い副流煙がたゆたう。苦い匂いをに伝染させながら、それは少しずつ土方の姿を霞ませた。 「聞いてどう思ったんですか?」 「忘れろよ」 あぁ、やっぱり。と、は思った。この人に結婚なんて選択肢はないのだ。予想していた答えではあったので驚きはしない。むしろずっと冷静さを増したくらいだ。頭の芯がすっと冴えるような感覚だった。副流煙。こんなにも同じ匂いに巻かれながら、どうしてこんなすれ違うばかりの思いを抱かねばならないんだろう。 「俺よりいい男なんて他にいくらでもいんだろ。お前もいい年なんだから、行き遅れても知らねぇぞ」 「……確かにそうですね。天気予報はあてになりませんし、」 「あぁ?」 「こんなにころころへそ曲げられちゃ、こっちもやってらんないです。洗濯物は乾かないし買い物にも行けなくなっちゃいますし、」 「……何言ってんだお前?」 土方は煙草を口から放して、明瞭な声で言う。土方の視線を受けて、は右目の端がちりと痙攣したのを感じた。そうして初めて、自分が酷く腹を立てていることに気付いた。昼間近藤を話をした時から、苛立ちは収まっていなかったのだ。 「いっそのこと、土砂降りの雨にでもなってくれればいいんですけれどね」 曖昧な天候は雨が降るより厄介だ。傘が必要か迷う。気持ちとは裏腹な土方の言葉も、どう扱えばいいのか迷ってしまう。いっそお前なんかいらないと罵ってくれたらきっと楽になれるのに、どうせ拒否するなら思わせ振りなことはしないでほしい。毎夜の談笑。駆け引きの言葉。煙草の匂いが移った着物。たった一度だけ、土方の寝床で眠った夜。 「だから、何言ってんだってお前」 「ところで土方さん。ひとつお願いがあるんですけれど」 「俺の話を聞け。質問に答えやがれ」 「万事屋の銀さんが事故にあって寝込んでるんです。できれば看病してあげたいんですけれど、一週間くらい屯所の家事が手薄になっても構いませんか?」 何も理解できずに口を半開きにして呆然としている土方を無視して、は無表情にまくし立てた。複雑な怒りをそのまま言葉にするには気持ちに見合うほどの言葉が足りなかったし、土方は鈍すぎる。どんなに努力したって、どうせ伝わるはずはない。 「できるだけ皆に迷惑はかけませんから。いいですか?」 土方は煙草を一口吸って、一度長く吐き出した。土方にとっての煙草は精神安定剤みたいなものだ。はそれを知っている。 「……好きにしろ」 「ありがとうございます」 心を込めずに礼を言って、は吸殻をまとめて袋の口を縛る。いつもならこれで二人の夜は終わる。終わるはずだった。 はさっさと場を辞して明日の朝食の仕込みをしようと思ったのだけれど、立ち上がったの背に土方の皮肉な声が掛かった。 「……あいつは止めとけよ。ろくでもねぇ」 土方の言う「あいつ」とは誰か。には考えるまでもなくすぐ分かった。 の中で何かが音を立てて切れる。そして、怒りが顔に出ないよう細心の注意を払って振り返った。それはそれは綺麗な笑顔ができあがって、しゃらんらときれいな効果音が鳴りそうなほどだった。 土方はそれを見てぼとりと煙草の灰を落としす。はそれを無視して、努めて穏やかな声で言った。 「銀さんのこと悪く言わないでもらえますか? 彼は彼なりのいいところがあるし、少なくともあなたより何倍も男前だと思いますけど」 「……おい、……」 「おやすみなさい。また明日」 ぽかんと口を開けたまま固まってしまった土方を尻目に、はくるりと踵を返す。煮えくりかえるような腹を抱えて、硬くこぶしを握りしめながら。 20091008修正 |