七 なみだながるる おもひではながれじ






暗闇の中にふわりと白い膜が下りてくる。それは目覚めの感覚だ。朝のひやりとした空気が肺に入り込んで、夢から現実へと意識を引っ張り上げてくれる。

自然の力に任せて瞼を持ち上げると、の目にはいつもと違った景色が映った。自室の白い天井ではなく、かわりに、何度も修繕を重ねられて継ぎ接ぎの跡だらけの天井があった。違和感を覚えたけれど、寝起きの脳はまだ正常に働かない。匂いが毎朝嗅いでいるものと違う。煙るような、少し重みのある香りだ。不快感はなくむしろ懐かしくさえある。布団は寝乱れているというより、もともと皺だらけだったシーツ上に寝てしまったような感触だ。その手触りが荒い。確実に自分の布団ではない。

寝返りを打ってみて、は愕然とした。一瞬で目が冴えて眠気も風にはらわれたように消えて無くなった。

が見たのは隊服を着たまま自身の腕枕で眠る土方の寝顔だった。土方は布団をかぶっておらず畳に直接寝転がっている。ついでに言えばと土方の間にはいつでも抜刀できる状態の刀が横たえられていた。

あまりに非常識な状況に、はとっさに起きあがって両手で掛け布団をはね飛ばした。着物の状態を見る限り貞操は無事だったけれど、この場合は体に異常が無いことのほうが異常である。今まで一度も敷居を跨いだことのない土方の私室で一夜を明かしてしまった。その経緯が思い出せない。一体これはどういうことか。全く理解できずに、は途方に暮れた。溜息も出なかった。





ここからは、昨日の夜の話になる。

銀時の家はかぶき町のスナックの二階にある貸家で、馬鹿みたいに大きな看板には馬鹿みたいに「万事屋銀ちゃん」の文字が踊っていた。その扉を叩くのには少し、いや、相当の勇気が必要だった。

「ひとまず銀時にでも匿ってもらえ。騒ぎが落ち着いたら家に送ってもらえばいい」

そう言ったのは桂で、それが一番賢い方法だとも思えたのでしぶしぶ同意したまではよかった。
ガラスの引き戸の向こうから覗いた銀時の顔は寝ぼけ眼でなんとも情けなく、その上の顔を見るなり何を聞くよりも先に、

「あーわりぃ。明日にしねぇ?」

とか訳の分からないことをしゃべりだしたので、は思わずその顔面を思い切り殴ってしまった。落ち着いて話ができるようになったのは、銀時が氷嚢を腫れた右頬に押し当てて汚いソファに座ってからで、それでも事情を説明する声は刺々しかった。

「で、なんでそんな理由で俺がお前に張り倒されなきゃならねぇんだよ」

と、銀時は腫れた頬を押さえたままもごもごと言う。は罪悪感は覚えつつも、銀時に謝るということをかつてしたことがなかったので、若干意地にもなっていた。

「悪かったわよ。腹が立ったんだから仕方ないじゃない」

「いや、謝ってんのか逆ギレしてんのかどっちかにしろよ」

は気持ちを落ち着けようと、温くて不味いお茶(銀時が入れた)を喉に流し込んだ。銀時は寝間着のじんべえ姿で、さっきから何度も欠伸を繰り返しては目を擦っている。向かい合って座っているにはそのやる気のなさが手に取るように分かるので、申し訳なさと苛立ちとがない混ぜになった妙な気分だった。

「外が落ち着いたら送ってけばいいんだろ? そうかりかりすんなよ」

「うん。よろしくね」

銀時は立ち上がって、最後に掃除をしたのはいつなのかさっぱり分からない曇りきった窓ガラスから外の様子を盗み見ていた。

はあの頃と変わらない天然パーマの銀髪を眺めながら、一体なぜこんな面倒な事になってしまったのだろうかと思案していた。銀時との再会も、桂との再会も、どちらも全くの偶然だ。誰かが仕組んだとすればそれは神様以外の何者でもないだろうけれど、は宗教心に薄かった。

二人はきっかけであっても原因ではない。原因、と考えてが思い至ったのは土方だった。土方がと銀時の関係、そして芋づる式にと桂の関係を疑ったことがそもそもの始まりだった。
では、なぜは土方に疑われたのか。ふたりの間にはそれほどまでに脆い信頼関係しか成り立っていなかったのか、そもそも出身も経歴も曖昧な怪しい家政婦でしかなかったにはそんなもの欠片もなかったのか。土方の真面目すぎる性格が災いしたのか。から本当のことをきちんと話しておくべきだったのか。考え出せばきりがなかった。



呼ばれて初めて、は銀時が、窓を背にして自分を真っ直ぐに見ていることに気付いた。その瞳は相変わらず、死んだ魚のように淀んでいた。

「ごめん。ぼーっとしてた」

「しっかりしろよ。これから逃げるんだろ。そんなんじゃ掴まっても俺責任取らねーぞ」

「どういう意味? それ」

「そのまんまだよ」

「私は屯所に帰るの。逃げるんじゃないわ」

「馬鹿。そう言うこと言ってんじゃねぇよ。気付よそれくらい女だろ」

銀時は面倒くさそうに頭をぼりぼり掻きながら、なかなか答えを言おうとしない。はわけが分からなかったから、黙って首を傾げた。

銀時がを見る。死んだ魚の瞳で。

「お前、結局あの野郎から逃げてんだろ?」

「誰あの野郎って」

「あーなんだっけ名前。瞳孔開きっぱなしのマヨネーズ」

「あぁ、土方さん?」

「それ。そいつに本当の事話せないから逃げてんだろ?」

「あのね、言っておくけど、私が土方さんに昔のこと話さないのは銀さんのためでもあるのよ。攘夷戦争に参加してたって知られたら、銀さんだって尋問の一つや二つされたって文句言えない立場なの分かってる?」

「だから、なんでお前は人の心配ばっかして自分のこと全部後回しにしてんだって聞いてンだよ」

だんだん銀時の口調が苛立ちを押さえきれなくなってきていた。は、滅多に感情を露わにしない銀時がそうした時どうなるかよく知っている。かつては白夜叉と恐れられた男だ。まずい。知らず、地雷を踏んでしまったと思った。

「信用して欲しいなら嘘吐くな。疑われたくないなら行動で示せ。逃げても何の解決にならねぇ」

「……銀さん……」

「お前、昔っからいろいろ苦労してんだからさ、そろそろ自分に素直になれよ。そんないちいち意地張ってたって仕方ねぇだろうが」

銀時の目は相変わらず死んでいる。昔からそうだった。幼い子どものくせに生気のないぼんやりした目をして、松陽の元にいた時にも真面目に勉強をしていたことは一度もない。銀時はだめ人間の代名詞みたいな男だった。銀時の言う理屈っぽい説教はに屁理屈と同じだった。それは今も昔も変わらない。

「銀さん。女ってね、どうしても素直になっちゃいけない時もあるのよ」

「へぇ。例えば?」

「秘密を守り通さなくちゃならない時」

は銀時を真っ直ぐに見て、微笑した。
にとって銀時は思い出の中の存在だった。懐かしさはある。愛しさも、失ったものへの切なさもある。それらは夏の終わりの花火のようなものだ。大輪の花と例えられるほど美しいけれど、後に残るのは火薬の焼けた匂いと煙の残り香。それだけだ。これからの未来に関わってもらっては困る。思い出は思い出のまま、美しいまま、引き出しの中にしまっておかなければならない。

は不敵に笑って言った。

「今好きな人に、昔の男の話なんてしたくないのよ、私は」

銀時は軽く目を見張って、気まずそうに頬を掻く。から目を逸らして、もう何も言い返せなくなってしまった。

「……まぁ、そりゃ、そうか」

「そうよ。そうなの」

「そうかそうか」

「そうそう」



20091004修正