八 やがてあけゆく やくそくやぶり ぴちちと、小鳥が呑気に鳴いていた。空気が肌に冷たい朝だ。軒越しに見上げる空は青く、羊雲が群れをなしている。 平和だなぁと、らしくない言葉を思い浮かべて、土方は溜め息のように煙草の煙を盛大に吐き出した。土方は寝間着の浴衣姿のまま縁側に腰かけている。裾が割れて脛を丸出しにするのもかまわず両足を投げ出すという格好は、鬼の副長と呼ばれるにはいささかだらしがない。傍らに置かれた灰皿には吸い殻が山積みになっていた。 いつも通りであれば、そろそろ朝食の時間である。基本的に病人でもなければ、食堂に出向かなければ食事にはありつけない。真選組の家政婦は自己責任で食いっぱぐれた人間の食事の世話までしてくれるほど暇ではないしお人好しでもない。 腹は減っているが、さてどうしたものかと、土方はぼんやりと中庭を見下ろした。度重なる暴力行為で穴が開いては埋めるを繰り返されてきた庭は植物もまともに育たない有り様で、雑草がぼそぼそと頼りなさげに生えているばかりである。なんの面白みもないただうすら寂しいばかりの庭に、土方はいっそう虚しさを煽られた。何が原因かというと、である。 昨夜は結局、桂は捕まらず、無駄に体力を消耗してしまった土方はくたくたに疲れて屯所に戻った。時刻は深夜を回っていた。思考回路が鈍っているのが嫌でも分かって、もう風呂もなにかも明日でいい、今はとにかく眠りたい、という一心だった。ところが、自室に着いたら、が縁側に正座をしたまま眠りこけていたのだ。 これにはさすがに土方も閉口した。は毎晩吸い殻の回収のために土方の部屋までやって来るけれど、今まで一度も夜に土方の部屋の敷居を跨いだことはない。男所帯に住むただ一人の女としてのけじめなのだろうと土方は思っているけれど、何も部屋の主が留守の時にまでそんな決まりを守る必要はないだろうに。 けれどにそんな意識を植え付けているのは他でもない土方だ。それに加えて、最近になって浮上したの過去に対する疑惑。はいつも以上に気を遣っていたのだろう。ここまで神経質になってしまうのも無理はないのかもしれない。 とにもかくにも、この夜土方は非常に疲労していた。今すぐ布団の上に寝転がって目を閉じてしまいたかった。けれどが目を覚ます気配はない。かといってを部屋まで運んでやる気力はないし、むしろそうすること事態がルール違反だ。の居住場所である離れに隊士が足を踏み入れる事は、自らが局中法度に書き加えた重要な事項なのだ。 仕方がないので、土方は布団をのべるとそこにを寝かせてやった。女を縁側に放置して自分だけのうのうと毛布にくるまるわけにもいかない。土方自身は畳の上に寝転がった。寝心地は良くはないけれど、よほど疲れていたようで土方はすぐに眠りについた。 ここまでが昨夜の話である。 翌朝、土方が目を覚ましたのはいつもより半刻ほど遅い時間だった。固い畳の上で眠ったせいで身体中の間接ががちがちに固まっていて、隊服を着たまま寝てしまったことも災いしてなかなか起き上がれない。そして土方は、その寝惚け眼に空っぽの布団を映した。はいなかった。土方は我知らず、あぁやっぱりなと思った。 さて、なんとか体を動かして風呂にも入り着替も済ませ一服したところでようやく、土方はいつもの冷静さと思慮深さを取り戻していた。 「……何やってんだ。俺は」 何故、自分はいつもの通りに朝食の席に向かわないのか。どうしてと顔を合わせることを躊躇っているのか。何を今更迷うことがあるのか。 とは一定の距離を保って付き合ってきたつもりだし、それをこの先変えていこうとは露とも思わない。昨夜の件は特殊な条件が偶然にも重なりすぎただけだから大した問題にはならないだろう。土方がに対して後ろめたいのは、桂と銀時との関係を疑ってしまったことで、それをお互いに承知していながらその話題に触れないよう背を向け合っている今の状況だ。 は土方にとって全くどうでもいい存在ではない。けれど絶対的に必要な存在でもない。土方が何よりも最優先にするものは真選組の存在そのものだし、その仕事に誇りを持ってもいる。そのために手に入れることができないものが多々あることも自覚している。だからを自分のものにしたいとは思わない。真選組の家政婦として側にいてもらえるだけで満足だった。 それならば、さっさと食堂に行って朝食を食べて、昨夜のことは軽く謝って済ませてしまえばいいのに。一体自分は何をやっているんだろう。 短くなった煙草の灰を落として、土方は誰にも聞かれていないのをいいことに、とても情けない声で嘆いた。 「……腹減ったぁ……」 一般隊士と真選組幹部の食事場所は分けられている。食堂は一晩寝ただけで飢えた隊士の波で溢れかえっているけれど、局長と各隊隊長がちゃぶ台を囲むこの部屋は比較的静かだ。今朝の献立はご飯(各人丼)と具だくさんの味噌汁、卵焼きに焼いた紅鮭にほうれん草のおひたし、お好みで納豆やふりかけやお茶漬け。全ておかわりし放題だ。これでも足りない人間は自己負担ということになっている。 「さんおかわり!」 「はい、どうぞ」 大盛りの丼を差し出すやいなや、祖酌しているのかいないのか分からないくらいの速度で箸を動かす彼等には、毎日の事ながら驚かされているである。けれど、用意した料理を心底美味しそうに食してくれることは家政婦の本望であるので、は一日の仕事の中でもこの給仕を一番気に入っていた。 「そういや総悟、トシはどうしたんだ?」 口に卵焼きの大きな塊を頬張りながら喋るのは近藤だ。確に、近藤の右隣、沖田の正面の席に用意してある椀は伏せられたままだ。沖田は一体どんな技術を使っているのか、味噌汁をすすりながら答えた。 「まだ寝てるんじゃないですかぃ? 今日はまだ見てませんけど」 は内心冷や汗ものである。なにせ今日土方の姿を見た人間はだけだ。しかも寝姿を。 「めずらしいな。あいつが寝坊だなんて」 「副長、昨日は遅かったみたいですからね。お疲れなんじゃないですか」 「さんおかわり」 「はい」 給仕の仕事は息つく暇もない。はそのお陰で平静を保てていると言ってもよかった。近藤達の会話に耳をそばだたせないわけにはいかないが、それでも手を動かせるだけ気をまぎらわせることができた。 「それにしたってトシが寝坊は珍しいな。いつも朝飯食いっぱぐれるのは総悟なのにな」 「昨日はいつになくこき使われやしたからね。腹が減りすぎて目が覚めやした」 「おぉ、そうか。健康的だな!」 「さんおかわり」 「はい」 「そういえばさん。昨晩どこかに出掛けてましたか?」 は笑顔を取り繕って、配膳をしながら答えた。桂との関係が疑われるようになってから作り笑いは特技といっても差し支えないほど上達していたのだけれど、今日ばかりは緊張で頬が引き攣った。 「えぇ、ちょっとお醤油が切れちゃって」 「そんなの下っ端に頼めば良かったのに。危なかったでしょ」 「大丈夫よ。それに巻き込まれたとしても真選組が助けてくれるんでしょ?」 「そりゃあもちろん! まかせとけちゃん!」 「なんでそこで局長が張り切るんですか」 室内が笑い声に包まれる中で、給仕が一段落したは着物の裾を整えて立ち上がった。沖田だけが振り向いて、視線での後を追う。声は口に含んだおひたしでくぐもった。 「どこ行くんですか? さん」 は声を潜ませて苦笑した。この場から一刻も早く去ることが目的だったのだけれど、沖田の目には照れ笑いのように映った。 「土方さん起こしてくるわ。今日は昨日の報告しに松平さんの所に行かなくちゃならないんでしょう?」 「まぁそうらしいですけど」 「朝食抜きは可哀相だもの」 片づけにはちゃんと戻るわ、と言って、はこっそり部屋を辞した。沖田はの笑顔を眼裏で反芻しながら、いい加減あの二人くっつけばいいのにと思って卵焼きに齧り付いて飲み込んだ。 その後ろで、 「いやぁでもやっぱりちゃんにはトシが一番似合いだよなぁ!」 とか近藤が一人で盛り上がっていて、 「ちゃんがトシの嫁に来てくれれば最高なんだけどなー!」 とかまるで朝から泥酔しているような暴言を吐いて、沖田以外のその場にいた全員が口に含んでいたものを吹き出した。食卓は惨劇と化した。 あの副長が嫁なんか貰うわけないだろうに、それを一番よく分かっている局長がそんなことを言うとは。沖田は感心すらしながら味噌汁を飲み下した。 気持ちの良い朝だった。空が青い。縁側で煙草を吹かしている土方はぼんやりとしたまま、やって来たを振り返った。 「土方さん、朝ですけれど」 「あぁ」 「早く来ないと朝食なくなっちゃいますよ」 「あぁ、すぐ行く」 は朝の清々しい空気に似合う穏やかさで笑っていた。土方は灰皿で煙草の火をもみ消した。 今日も、いつも通りがはじまっている。 20091004修正 |