四 よもや にげもかくれも できぬこと






それはもう何年も前の話になる。



「私、ここを出るわ」

が決然と言い放った言葉に、異を唱える輩はいなかった。

草の庵と言って何ら差し支えないようなおんぼろ屋が彼らの住処だ。家具が何一つない部屋は視覚的には広すぎて、蝋燭一つだけでは隅まで照らし切れない。灯りが届く場所より、闇が占める面積の方が広かった。

「……そうだな。そのほうがいい。を戦争に巻き込むわけにはいかない」

結い上げた髪をさらりと揺らしながら、彼はとても冷静に話す。何人かがそれに賛同して頷く気配がした。
その中に、嘲笑の空気が滑り込むように混ざった。

「まぁ、ここにいられても邪魔になるだけだしな」

「おい。その言い方はないだろう」

「別に間違っちゃいねぇだろ」

「言葉を選べないのか、と言っているんだ」

「やめて。こんな時に喧嘩なんかしないで」

ぷつりと、何かが切れるように静寂は訪れた。

”こんな時”とは、彼らの師匠でありまたにとってもっとも大切な人間が、つい数時間前に非業の死を遂げたことを示している。の言葉は、自分達にとって最大の人生の転機にくだらない言い争いをするその神経が信じられないという、最大級の非難だった。それを理解できない人間はもとよりここにはいない。

「……別に私、皆の邪魔になるからとか、そんなかっこいい理由で出て行くんじゃない。こんな田舎にいたら食べていけないからよ。生きていくんなら、時代に合わせなくちゃ」

蝋燭の火が、すきま風にゆらりと揺れた。一瞬、そこにいた全員の顔がオレンジ色に照らされた。ふてくされているのや、皮肉げな笑顔もあったけれど、皆一様に感心しきった顔をしていた。

「皆と一緒にいたら、私はきっと食べていけないわ」

その中でひとつ、異色な表情があった。寝て起きて間もないのか、頬に畳の跡がついている。寝癖なのか元々の天パなのか区別がつかないほどぼさぼさに乱れた髪に、死んだ魚のような目。けれど口元は笑んでいた。心底、嬉しそうに。

「確かに、それが一番賢い選択何じゃないの?」

こんなに人を馬鹿にしたような表情をするくせに、言っていることは一番まともだった。けれどそれはこの暗闇の中で一番似つかわしくないものでもあった。

それから、誰も何も言わなかった。



***


ここ最近、江戸には雨が降っていない。羊雲がぽつぽつと泳ぐ程度の青い空はからりと乾いていて心地良く、風はいつもしずやかだ。けれど、毎日が戦争の真選組にはこの平安は無関係ではある。

「……これで、篁屋に関する報告は以上です」

「そうか。もうしばらく張っとけ。次の報告まで何もなかったら考える」

「分かりました」

座布団も敷かず、畳に直接あぐらをかいている土方の前に正座しているのは、監察方の山崎退だ。二人の会話は至って真面目なものではあるが、山崎の髪に刺さっている桃色の造花が全てを裏切っていた。土方は気に食わなさそうに眉間に深い皺を寄せている。

「ていうか、何お前それ喧嘩売ってんの?」

さんにいただいたんです」

そう、は内職が趣味なのだ。
山崎は指先で花の位置を調節しながら、

「似合ってますか?」

とか言って頬を赤らめていた。似合うわけがない。

「そういやぁ、近頃桂の噂聞かねぇな」

土方はぷはぁ、と煙草の煙を吐き出して、問掛けるでもなく呑気に言う。とにかく山崎を無視したかったのだ。と、ふいに山崎の表情がすっと曇った。

「それがですね、土方さん」

「なんだ?」

「確な情報じゃないんですけど、桂の奴が万事屋の旦那と接触したって話がありまして」

「……またあいつか」

土方は苦虫を噛み潰したような顔をして、うっとうしそうに髪を書き上げた。土方にとって銀時は目の上のたんこぶでしかない。最近だって屯所一泊(牢屋ではあったが)の件があったばかりだというのに、これ以上銀時には関わりたくないのが本音だった。

「何か、決定的な証拠はねぇんだろ?」

「えぇ、まぁ。あいかわらずちゃらんぽらんしてますね」

「だったら探り入れるもなにもねぇだろ。放っとけ」

「しかし、今のまま野放し状態というのも俺はどうかと思いますよ」

桃色の花を着けて真剣に抗議する山崎に、土方はいろんな意味でどう答えていいか分からなかった。腹も立ったし、馬鹿馬鹿しくもなる。なんで山崎ってこんななんだろうといつも思った。

「失礼します。お茶です」

ふと、縁側から声がして二人が視線をやると、盆に茶を乗せて持ってきたが縁側に膝をついていた。障子は全開になっていたから、は返事を待たずに敷居を跨ぐ。

山崎は不抜けた笑顔を浮かべていたが、その一瞬の内に土方の脳裏にはある考えが霞めていた。

「お邪魔しましたか?」

「いえそんな。ちょうどいいタイミングでしたよさん」

「そう、それはよかった」

二人に湯飲みを差し出すと、はすぐに膝を立てて後ろに下がる。土方は慌ててそれを呼び止めた。

「おい、。今いいか?」

は少しだけ驚いたような顔をして、再び腰を落とす。空いた盆は表にして体の横に置く。山崎は粗茶の素朴な上手さに頬を緩めていた。

「何ですか? 土方さん」

「沖田に聞いたんだが。お前、万事屋の野郎と昔馴染みらしいな」

「えぇ」

山崎は物凄い勢いで茶を吹いた。土方の顔面が唾液粗茶まみれになったけれど、山崎はそれどころではない。

さんそれまじですか!? なんで今まで黙ってたんですか!?」

「だって、聞かれなかったから」

は袖の下からはんかちを取り出して土方に手渡した。

「黙っててごめんなさい。まさか銀さんと皆が知り合いだなんて思ってなかったんだもの」

「いや、そりゃそうでしょうけど……」

「で、だ」

威厳と眼孔の圧力で山崎を黙らせて、土方は濡れたはんかちをに突き返した。はそれを受け取って盆に乗せると、背筋を伸ばして改めて土方と向き合った。

「野郎が桂と関わってるって噂、聞いた事はあるな?」

「えぇ」

「その事でお前は何か知ってるのか?」

山崎は、この時ようやく土方が言わんとしていることに気付いて、はっとした。 つまり土方は、が銀時を通して桂とまで繋がっているのではないかと疑っているのだ。話の流れから考えれば自然な論理展開かもしれないが、山崎にとって、いや真撰組隊士にとってこれほど理不尽な話はない。は真選組が江戸で形を為してきた頃からずっと尽してくれているというのに、これでは恩を仇で返すようなものだ。

「似たような事を、沖田くんにも聞かれましたけど、」

山崎は驚いた。は至って冷静で動揺した様子はない。むしろ微笑んですらいて、何度も同じ事を問い質されて困る、というような顔をしていた。

「私は銀さんとお友達ですけど、そんなテロリストさんとはお話ししたこともありません」

「野郎と桂の関係について知ってることは?」

「何もありません。銀さんとは何年も会っていなかったんですよ」

「……そうか。ならいい」

そう言いながらも、土方の表情はすっかり不安が消えたとは言えない、複雑な色を残したままだった。山崎は、土方の無神経な物言いを責めるくらいのことはしたい気分だったのだけれど、その顔を見て怒りが萎えてしまった。土方だって、を責めたくて責めているわけではないのだ。

「もういいぞ。引き止めて悪かったな」

「いいえ。失礼します」

は腰を上げると、驚くほどいつも通りにさらりとした仕草で部屋を辞した。



20091004修正