4 戸惑いを断ち切れ





「試合終わったらまた二、三日世話になるから。よろしく頼むよ」

合宿へ出発する日の朝、翼はそれだけ言って家を出ていった。特別に変わった様子もなく、ごく普通の表情だった。大きなスポーツバッグひとつを肩から提げた後ろ姿を見送って、はドアに鍵をかけ直した。翼がここへ来た日に持ってきていた大きなスーツケースが、部屋の隅で沈黙していた。

翼の失恋を聞いてから、は平常心で翼と向き合うことができなくなっていた。実の姉である玲と、はとこの翼。二人が皿に乗った天秤がぐらぐら揺れている様子を、何もできずに見ていることしかできないような気分だった。

と、その時私の携帯電話が鳴った。ディスプレイには黒川政輝の文字があって、はすぐに通話ボタンを押した。

「もしもし」

? 翼もう出た?』

「うん。たった今。どうかしたの?」

『あぁ、今時間あるか?』

「うん。何?」

黒川はどうやらに用があるらしい。てっきり翼への伝言かと思ったは緊張して耳を傾けた。

『翼に何か聞いたか?』

「何かって、なにを?」

黒川の声はいつもと変わりなく淀みない。は携帯を片手に、やかんに水を汲んで火にかける。タンブラーに入れて学校へ持って行く紅茶を入れなければならない。

『翼にさ、のとこ行けばって言ったの、誰だか聞いたか?』

「玲じゃないの?」

翼は確かにそう言っていた。玲本人も認めたし、それを疑う要素は欠片もない。しかしなぜ黒川がそんなことを知っているのだろう。は問うタイミングを逃してしまった。

『あぁ。飛葉中の同窓会があってさ、翼がこっちに帰ってきた日に。そこで五助と直樹が酔って悪のりして、そんで六助と俺も呼び出されて』

「……は?」

『翼が失恋したって言うから、半分はからかったんだけどさ。まさか本当にそういうことになってるとは思ってなかったんだけど』

は絶句した。まさかこの一件がそんなくだらない事が原因で起こったことだとは思っていなかったのだ。

『悪かったな、迷惑かけて。大丈夫だったか?』

「……大丈夫って言えば、大丈夫だけど。うん」

『お詫びするからさ、何でも言えよ』

「……えーと……、それはいいんだけどさ、」

火にかけていたやかんが、しゅんしゅんと音を立てている。そろそろ火を止めてしまってもいい頃だけれど、頭を働かせるのが精一杯で手が動かなかった。立ち上がる湯気を見つめながら、がたがた揺れるやかんの蓋を見張りながら、は微動だにできなかった。

「ひとつ聞いてもいい?」

『あぁ。なんだ?』

「なんで私のところにって話になったの?」

『そうだな、直樹とかは何にも考えてなかっただろうけど……』

少し考え込むような間があった。はようやうコンロの火を止めて、言葉を待った。

『時雨はさ、他人のこと詮索しねぇから、翼は楽なんじゃないかって思ったから。少なくとも俺はな』

「……それは褒めてるの?」

『あぁ。ま、結果的に全部押しつける感じになっちまったけど、それだけのこと信頼してるって事だから』

「それはつまり、翼はそうとう落ち込んでるって事だよね?」

黒川はその問いかけにははっきりとは答えなかった。



そして試合までの数日は光の速さで過ぎ去り、はいまだに迷いを抱えたまま競技場に立っていた。

「すみません、記者控室ってどっちでしょうか?」

有名な雑誌社の名札を首から提げた女性に問われて、片手で通路を指し答える。

「そこの階段を上がって右の突きあたりです」

「あ、ありがとうございます!」

ぱたぱたと駆け足で去る彼女を見送り、は今日何度目か分からない溜め息をついた。先程到着したばかりの選手達は着替えのために控室に入っている。これから午後の2時間ほどを練習にあてる予定だ。バスから降りる際に全員と顔を合わせたけれど、翼とはアイコンタクトすらとっていない。
それがなんとなく気になってぼんやりしていたの肩を、大きな手がぽんっと叩いた。

「何してんの? ちゃん?」

不意に下から顔を覗き込まれて、驚いたは目を真ん丸に見開いた。目の前に見えたのは右目の下の泣きぼくろと短く切った黒髪、子犬のように潤いのある黒い瞳の藤代誠二だった。

「藤代くん」

「よ! 久しぶりっ!」

藤代は片手を上げて、白い歯を輝かせて笑った。昔から変わらない、爽やかな緑の風を思わせる笑顔だ。本当に久しぶりに見るそれに、は思わず目元を綻ばせた。

「久しぶり。みんなは? まだ?」

「俺だけ先に出てきたんだ。まじで久しぶりじゃん? 喋りたいことたくさんあんだけど!」

ぱしぱしと小気味良く肩を叩かれる。練習前からもうテンションが高い。半ば呆れつつ、も微笑み返した。このおかしいくらいに幸せそうな様子には心当たりがあった。

「彼女のこととか?」

「うわっ、なんで知ってんの!?」

大袈裟に驚いて見せながら、藤代は笑みを崩さずに執心の彼女についてぺらぺらと語った。相手はスポーツ雑誌の記者であること、あまりの可愛らしさに一目惚れしてしまったこと。こまめに連絡を取り合って暇さえあれば逢瀬を重ねていること。その他様々、私は恐るべき短時間でこのカップルの事情を他の誰よりもよく知った。

「幸せそうね」

思ったことそのままを感想として述べたら、藤代くんは頬を紅潮させてでれでれという形容がぴったりの笑顔を作った。

「うん。もう世界一。大好き!」

「それは、よかったね」

ちゃんは? いないの? 彼氏」

「うん。まぁ」

「まじで!? 美人なのにもったいないなー」

「それはどうも、ありがとう」

「俺てっきり椎名とかと付き合ってんのかと思ってたんだけど」

唐突なことに、は喉を詰まらせ咳き込んだ。藤代は、あやっぱり、とか勝手に納得している。図星をつかれて思わず咳き込んだと思ったらしい。

「ち、違うから。付き合ってないし」

「え? そうなの?」

いかにも意外なことだと言わんばかりに、それこそチワワのようにきょとんと目を丸くした。そんな誤解をされるなんて、正直冗談ではない。咳払いをひとつして声の調子を整えて答えた。

「そう。ただのはとこで幼馴染み」

「はとこでも幼馴染みでもぜんぜんありじゃん」

「ないよ。顔だってちょっと似てるって言われるのに」

「そう? そりゃ、中学の時は椎名も女顔だったからそうかもしんないけど、今はどうかなぁ」

わざとらしくしげしげと顔を見つめてくる藤代くんを半眼になって見つめ返しながら、はこの時ようやく気付いた。翼にとって玲は「あり」だったのだ。玲と翼は、と比べても倍以上の時間を共に過ごしている。もしかしたら、好きにならないほうがおかしかったのかもしれない。
それに気付かなかった事が何よりも申し訳なくて、は自己嫌悪した。



20070831 修正