|
2 ぎりぎりの境界線 「勝手に上がったことは謝るけど、空港から直帰なんだからおおめにみろよ。夕飯ぐらいは奢るからさ。まぁもっとも、が何かご馳走してくれるって言うなら止めないけど?」 あんまりといえばあんまりな出来事に、の思考回路は若干狂っていた。今目の前で起こっていることは、一体何なのか、もはや夢を見ているとしか思えなかった。 「そうだな、とりあえず日本食がいいな。あっちにも日本料理店はあるけどやっぱり本場とは違うからね。寿司でもとる? あ、けどこんな時間じゃ出前は無理かな。せめて明日にするか。この辺りにいい寿司屋ある?」 よく見ると、の足元にはやたらと大きいボストンバッグが我もの顔で居座っている。もうひとつ、スーツケースが口を開けていて、そっちは何か取り出したのか中身が乱れていた。そう言えば翼はずいぶんとラフなかっこうをしている。白黒のスウェットだ。どうやらここで着替えたらしい。 はようやく自宅の全体像を把握する。そしてどうにか喉から声を絞りだした。 「……つ、翼?」 蛙が踏み潰されたみたいな声が出た。しかしそれに構うほどの精神の余裕はない。 「久しぶりに会った幼馴染みに言う言葉がそれ? 相変わらず愛想ないな。そんなんじゃ男できないよ?」 椎名翼はにんまりときれいに笑った。昔から全く変わらない笑顔は、今ここにいるのが間違いなくの幼馴染みではとこである椎名翼であることを証明していた。 何を言えばいいのか分からず口を開けては閉じ、閉じては開けて言葉を探しあぐねている を、翼は心底楽しそうに観察している。 「まぁ、お前の男関係に口出しする気は毛頭無いけどね。けどお前ももう22だろ? 男の一人や二人いなくてどうすんだよ。社会に出る前に女としての経験値上げといた方がいいんじゃない? 幼馴染みとしては心配なんだよ。こっちの気持ちも汲んでくれたら嬉しいけどさ、まぁそういうことは人に言われたからってすぐできるものでもないしね。気長に頑張ってよ。それはそうと……」 翼のマシンガントークはそれからしばらく続いた。 『今帰ったの? 遅かったのね』 電話口の玲の声は悔しいくらいに穏やかだ。こうして聞くと、さすが翼のはとこなだけに声の調子や抑揚の付け方が似ている気がする。 それを言えばも玲と同じ「翼のはとこ」であるはずなのだけれど、とりあえずこの時に限っては親戚の関係図をすっかり忘れて話をしていた。それくらい冷静さを欠いていたのだ。 「ちょっと聞きたいんだけど」 『えぇ。何?』 「翼が帰ってきて、合宿まで私の家に泊めろって」 『あらそう』 「あらそう、じゃなくて」 『いいじゃない、別に。泊めてあげれば?』 「なんでこんな狭い一人暮らしの家に? 物理的に考えておかしいでしょ? 玲のとこじゃだめなの?」 『私は合宿の準備があって今忙しいのよ。翼の両親は今旅行中だし。どうせ少しの間でしょう?』 「なにその旅行って」 『前々から計画してた旅行と翼の帰国の時期が重なっちゃったんですって』 「……あのね、こう言っちゃなんだけど」 『なに?』 「……年頃の男女をひとつ屋根の下に置くのはどうかとか、思わないの?」 『あら、、翼のことそういう風に思ってたの?』 受話器の向こうで、わざとらしく玲は笑った。は完璧に戦意喪失した。そもそも玲に言葉で勝負を挑んだこと自体が間違いだったのだ。は乱暴に携帯電話を充電器の上に叩きつけて、腰に手を当てて荒々しく息を吐いた。むしゃくしゃしてしまって心なしか頭痛まで覚えてしまう。がここまで腹を立てることはあまり無いことで、その感情をどう処理したらいいのか分からず持てあましていた。 「あーもーおー」 「何一人で唸ってんの?」 と、翼がちょうど風呂から上がってきて、は頭を抱え込んでうずくまった。ひとりで悶々としている姿を見られたことの恥ずかしさもあるけれど、あまりの混乱を抱えきれなくなって堪えられなくなったからだ。 「なんなんの、もう」 「それはこっちが聞きたいんだけど」 翼は別段気にした風もなく、勝手に冷蔵庫を開けて自分で買ってきたらしい缶ビールを取り出した。そうして気兼ねなく床に足を伸ばして座った。 はそれを恨みがましく睨んだけれど、翼は素知らぬ顔で喉を潤している。心底くつろいでいる様子がまた腹ただしく、はテーブルを挟んで翼の向かい側に腰を下ろした。 「ねえ、本当に合宿までここいるの?」 「さっきそう言っただろ。二度も同じ事言わなきゃならないわけ?」 「今からでもホテルとろうとか少しも考えないの?」 「今からはいくらなんだって無理だろ」 「言っておくけど、ベッドは貸さないからね。それでもいい?」 「別にどこだっていいよ。ていうか、俺ってそんなに嫌われてるわけ? 久しぶりに会うスペイン帰りのはとこはこんな狭い部屋にいられたら邪魔って言いたいの? それとも……」 「あぁ分かった。もういい。いていいからちょっと黙って」 なんだか面倒くさくなってしまって、は片手を突き出して翼の言葉を遮った。頭痛持ちの今、にとって翼のマシンガントークは間違いなく有害物だった。 「ま、恨むんなら玲を恨めよ」 「なんで」 「お前のとこ行けばっていったのあいつだから」 「あぁ、うん。今聞いた」 はとうとう吐き気まで催してきて、自分の事ながらここまで激しい拒絶反応をおこす自分の体を薄情に思った。 20070831 修正 |