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 目覚まし時計が鳴るより早く目が覚めた。

 妙に頭がすっきりしていて、体も軽い。まるで背中に羽が生えたかのように思えて振り返ってみたけれどそんなはずはなく、一体自分の体に何が起こったのか不思議でならなかった。何もかもが空っぽになってしまったようにも思えたし、何かが体中に満ちて溢れそうになっているようにも思えた。

 玲はまだ静かな寝息を立てて眠っている。薄いカーテンの下に光が帯状に差していた。小鳥の鳴き声が聞こえて、それに導かれるようにベッドを出る。カーテンをそっと開くと、世界が朝の喜びに打ち震えるように発光していた。眩しくて目を細める。何も考えず、誰へともなく微笑む。

 今日も頑張ろうと、思った。

 まるで初めから決めていたように机に向かい、父に手紙を書き、あっという間に書き終えたそれを封筒に詰め宛名を書く。シャワーを浴びて髪を整え着替えをし、その足で部屋を出る。施設の事務室で郵便物を受け付けてくれるはずだった。あまり朝が早すぎるかと思ったけれど、当直の職員がいて快く預かってくれた。

 朝食の時間まではまだ時間があったから、外の空気でも吸おうかとひとり外へ出た。朝の空気はまだひやりと冷たいけれど、太陽の光は春の気配を帯びて暖かかった。

「あれ、?」

 声を掛けられて振り返ると、そこにいたのは黒川だった。

「黒川くん。おはよう」
「はよ。何してんの?」
「目が覚めちゃったから、散歩でもしようかなって。黒川くんは?」
「俺はちょっと、その辺走ってこようかなって」

 黒川はそう言いながら、ほんのわずかに視線を泳がせた。おや、とは思う。黒川がこんな風に、恥ずかしいような照れるような顔をするところを見るのは初めてだった。

「ひとりで?」
「俺は、走るときはいつもひとりだよ」

 黒川は両足首をぐるりと回すと、その場で屈伸をしてアキレス腱を伸ばす。ランニングシューズはよく使いこまれていて、いつもの練習着とは違うジャージはカラフルで、浅黒い肌をした黒川にはよく似合っていた。

「黒川くんって、見かけによらず真面目なんだね」
「見かけによらずってなんだよ」
「誰にも内緒で、ひとりでトレーニングしてるんでしょ?」
「内緒ってことねぇけど。これくらい誰でもやってるだろ」
「そんなことないと思うけど。藤代くんはよく部の早朝ランニング、さぼってるらしいよ」
「へぇ、そうなの」
「このこと、私、知らない方がよかった?」

 黒川はぐるりと肩を回しながら、吊り上がった目を丸くした。

「なんだよ、急に」
「だって黒川くん、知られたくなさそうな顔するんだもん」
「別にこんなことわざわざ秘密にしたりしねぇよ。大袈裟だな」
「でも、さっきそんな風な顔したじゃない」
「あー」

 黒川は両腕を組み合わせてぐんと伸びをする。すらりと長い腕が青空を突くようだった。は何か、尊いものに巡り合ったような気持ちで、黒川の指先が青空に触れそうに伸びている姿を見ていた。

「まぁ、こういうの人に知られるのはあんま得意じゃねんだよ」
「そうなんだ。なんかごめんね」
「謝ることじゃねえだろ。偶然偶然」
「誰にも言わないでおくよ」

 黒川はふいに、自分をじっと見上げてくるを興味深そうに見下ろすと、ほんの少し首を傾げて見せた。

「なんか、どうかしたか?」
「どうかって?」

 は黒川と同じ方に首を傾けながら聞き返した。黒川は大きな瞳をさらに大きく丸くしていた。

「なんかいつもと雰囲気違うような気がしたからさ」
「違うかな?」
「いや、俺の勘違いだったら悪い」
「んー、どうかな」

 は、羽が生えたように軽くなった自分の体のことを思う。何もかもが空っぽで、けれど、何もかもによって満たされているこの体。今までそんなことをしたこともないのに、踊り出したいような気持ちがしている。

 はその気持ちのまま、ふわりと微笑んだ。

「どうなのかな?」

 黒川は眩しい光を直視してしまった後のようにぱちぱちと瞬きをした。

「……まぁ、いいけどな。じゃ、俺行くわ」
「うん。頑張ってね」

 軽快に走り出した黒川の後姿を見送って、はその逆の方向に歩き出した。体中がそわそわして、歩きながら両手を伸ばして空中を滑らせてみる。薄い雲がたなびく空がきれいで、朝露に濡れた芝のコートがきれいで、通路に敷き詰められた赤レンガ風のタイルがきれいで、世界中の何もかもが光り輝いてきれいだった。合宿はもう3日目になるというのに、こんな風に思うのは初めてだった。

 自分の中で、何かが変わったのかもしれない。そう感じて、は歩きながらくるりと回ってみた。少し足がもつれてふらついたけれど、どうせ誰も見ていない。

 はひとり、微笑んだ。




20160328