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「ただいま」

が部屋に戻ると、玲は先に部屋に戻っていて、お茶を飲みながらくつろいでいた。先にシャワーを済ませたらしく、ショートヘアの毛先が少し湿っている。首にタオルをかけ、熱心に書類を読んでいる。たぶん、明日の対戦相手のデータだろう。
 
「おかえり。遅かったのね」
「うん、ちょっと話し込んじゃって。シャワー浴びるね」

 部屋に備え付けられたこじんまりしたシャワー室で体を洗い、寝間着のスウェットに着替え、部屋に戻ってきても、玲は同じ姿勢のままじっと書類を睨んでいだ。

「まだ起きてるの?」

 時間はちょうど10時を回ろうというところだ。眠るには少し早い時間だけれど、明日も朝は早い。

「もう少しね。先に寝てていいわよ、ここだけ明かりを点けていてもいい?」
「うん」

 がベッドに潜り込むと、玲は部屋の明かりを消して、デスクライトの明かりだけにした。

「おやすみ。明日もよろしく」
「うん」

 は一時目を閉じたけれど、ちっとも眠気がやってくる気配がなくて、薄闇の中で目を開けた。興奮冷めやらぬ、というのはこういうときに使う言葉なのかな、と思う。ベッドの中で、心臓がどくどくと脈打っているのが分かる。指先やつま先がむずむずして落ち着かなくて寝返りを打つと、オレンジ色のデスクライトに照らされる玲が見えた。

 枕に顔の半分をうずめながら、はこっそり玲の横顔を眺めた。玲は、とても綺麗だった。端正に整った顔立ち、髪はしっとりと輝くような黒で、オレンジ色の明かりの中でそれが際立って美しく見えた。こんなに美しい姉と、こうやって同じ部屋で眠ろうとしていることが、急に不思議に思え、は布団の下でぎゅっと自分の肩を抱きしめた。

 にとって、玲はずっと遠い存在だった。14歳も年が離れているし、若くして才能を開花させた玲は毎日毎日サッカーばかりしていて、普通の姉妹がするように、姉に遊んでもらったり面倒を見てもらった記憶は、にはない。物心ついたころから玲は女子サッカー界のアイドル的存在で、そんな玲は、にとってはただただ眩しかった。
 たったひとり傷を抱えていたを迎えにきてくれたのは、玲だった。玲が来てくれなかったら、いったい自分は今頃どうなっていただろう。そう思うと、の胸が大きく鼓動した。

「眠れないの?」

ふいに、玲が穏やかな声でささやいた。

「……うん」
「温かいものでも飲む?」
「ううん、大丈夫」
「そう?」
「……ねぇ、玲。少し話をしてもいい?」
「何?」

 玲は書類を机に置くと、オレンジ色の明かりの中で、柔らかく微笑んだ。その顔を見たら、は胸が詰まって今にも泣きだしそうな気持ちになった。

「……私、お父さんに会ったら、何を話したらいい?」

 そう言ったの声は、不安げにかすれた。玲は立ち上がると、のベッドのふちに腰を下ろしての頭を撫でた。

「お父さんと会うのは、怖い?」
「……うん、怖い。どんな顔をすればいいのか分からないもの」
「もう1年も会っていないんだもの、当然よ」
「私になんて言うと思う? 怒るかな?」

 玲はそっとの頬を撫でる。その手つきは、ほんの小さな子どもにするように優しかった。これが姉の手のひらというものかと、は思う。

「絶対に怒ったりなんかしないわよ。それどころか、嬉し泣きして家じゅう走り回るくらいのことはするんじゃない?」
「えぇ? 本当に?」
「本当よ。あの人、何事につけても大袈裟だから」
「いい歳した大人のくせに……」
「そうよね。本当、私もときどきいやんなっちゃうわ」
「玲でも?」
「そりゃそうよ。私だってお父さんの娘なんだから。と同じよ」

 玲はちょっと肩をすくめて見せながら、おどけた口調でそう言った。同じだ、という言葉が、の胸にはじわりと染みた。玲の指が優しくの指を撫でたのがくすぐったくてが笑うと、玲もそれにつられてくすくすと笑った。

「ねぇ、今日は一緒に寝てもいい?」
「いいよ」

 玲がデスクライトを消して戻ってくる間に、はベッドの端に寄り、玲のために布団をめくり上げてやった。玲とふたりで眠るには、シングルサイズのベッドは狭かったけれど、両腕を組むようにしてくっついていればどうにかなりそうだった。

 真夜中ではあったけれど、野外の街頭がカーテン越しにも明るくて、至近距離であればお互いの表情までよく見えた。目と鼻の先にお互いのそれを見つめながら、ふたりはくすくすと笑い合った。

「こんな風に一緒に寝るなんて、初めてだね」
「そうね。……ねぇ、。今までごめんね」
「? 何が?」
「私、全然お姉ちゃんらしいことしてこなかったよね」

 玲は布団の中での手を握りしめた。

「私はいつも自分のことばっかり考えてて……」
「でも、私が今こうしていられるのは、玲のおかげだよ」
「そう?」
「そうだよ。私、玲にはすごく感謝してるんだよ」

 は玲の手を握り返して、暗闇の中でも分かるようににっこりと笑った。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 玲もに笑い返そうとしたけれど、それはあまりうまくいかなかったようだ。けれど、は玲の体温に暖められて、ようやく眠気に襲われ、緩く瞼を閉じていた。
 
「ねぇ、お父さんに会った時、初めになんて言ったらいいと思う?」

半分眠りに落ちたような声でが言うと、玲はひそやかな声で答えた。

「まずは、『久しぶり』って言って、それから『元気だった?』って聞いてみればいいんじゃない?」
「もしも、お父さんの顔を見て、何にも言えなくなっちゃったらどうしよう?」
「そうね……、そんなに不安なんだったら、手紙でも書いてみたらいいんじゃない?」

 その提案に、眠りに落ちてしまったの答えはなかった。玲はの静かな寝顔をしばらく眺めてから、いつになく穏やかな気持ちで眠りについた。




20160201