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08 中学生の女の子がひとりで夜の街を出歩くというのは、やはり目立つ行為だったらしい。 あの頃の私は、夜の闇に溶け込むように消えてなくなってしまいたかった。ほんの少し、首筋がひやりとするような恐怖を感じながら、一歩踏み外したら二度とこちら側には戻ってこられない崖の淵を歩くような、境界線の真上を両手を広げて目を閉じ、綱渡りをするような、夜の街にはそんな危うさがあった。そんな夜を、ひとりで歩くのが好きだった。 境界線の向こう側から手を引いたのは、20代後半か30代前半くらいの、スーツを着たおじさんだった。身なりはきちんとしていて、ネクタイも整っていて、髪型も清潔で乱れたところはない。「こんなに遅くに、女の子ひとりで何してるの?」という言葉にも、いやらしい響きはないように思えた。「別に、なにも」と答えると、「暇ならお茶でもしない? おごるよ」と言うので、小腹がすいていた私は甘い餌にくいついてしまいたくなった。この境界線の向こうには何があるのだろう。純粋な興味もあった。 「あかんで、おっさん。俺の女に手ぇだしたら」 そう言って、おじさんを殴り飛ばしたのは佐藤くんだった。おじさんはこめかみの辺りを押さえてしゃがみこみ、吐きそうな声で嗚咽した。どうやら打ちどころが悪かったらしい。その背中をさすってあげたいような気持ちになったけれど、佐藤くんは私の手を掴むと、唐突に走り出した。 「ったく。だからひとりでふらふらするなっちゅーとんのや。この辺、ほんま危ないんやで?」 佐藤くんは怒気を含ませた声でそう言いながら走った。私は佐藤くんの走りについていくので精一杯で、息が切れて何も言えなかった。 それからどのくらい走っただろう。佐藤くんが足を止めたのは、駅前のロータリーだった。 「終電、まだあるな。今日はこれで帰りぃ」 佐藤くんが握っていた私の腕を離そうとした。私は何も考えず、その手を握り返した。佐藤くんはぎょっと目を丸くした。 「……今日は、帰りたくない」 「なんで?」 「なんでも」 「帰りぃや。親が心配すんで?」 「いやなものはいや」 まるで駄々をこねる子どものようだなと、自分でも分かっていた。それでも、あの夜はどうしても譲れなかった。 お父さんはサッカーが好きだ。サッカーの話しかしないし、女の身でありながらプロサッカー選手として活躍し、指導者への道を進んで確実にキャリアを積み重ねている玲が何よりの自慢だった。どこへ行っても、お父さんは玲の話しかしない。そこに私がいても、すっかり蚊帳の外だった。お父さんの目に、私は映っていないのだ。そう思ったら、自分の存在そのものがここから消えてしまったような、虚無感に囚われた。私はここにいない。だから、それを本当にするために、夜の中に消えてしまいたかった。 電車が駅を発車するベルの音を聞いて、佐藤くんは私の手を引いて歩き始めた。どこへいくのかと思ったら、佐藤くんが身を寄せている草晴寺というお寺だった。 住職やお弟子さん達はもう寝静まった後だった。物音を立てないように、佐藤くんにあてがわれた部屋に忍び込み、制服がシワになるのも構わず畳の上に腰を落ち着けた。佐藤くんは落ち着き無く、漫画雑誌の山やサッカーボールを部屋の隅に寄せ、積み重なったカップ麺の空を所在無さげに部屋の奥に押しやった。 「バレたら和尚に殺されるな」 「……やっぱり、私、帰ろうか?」 「どやって? 電車ももうあらへん。それとも、寺の前にタクシー横付けして和尚叩き起すか?」 「……ごめん」 「こうなったらもうええけど」 佐藤くんの右手は、人を殴り飛ばしたせいで赤黒く変色していた。その色を見た瞬間、いてもたってもいられなくなって、私は佐藤くんの手を両手でギュッと握り締めた。私は冷え性で、夏でも指先が氷のように冷える。少しでも、佐藤くんの怪我がよくなって欲しかった。 「ごめんね」 佐藤くんは苦笑いをして、何をするでもなくじっと私を見おろした。 「何かあったんか?」 「……別に何も」 「嘘つけ。顔に書いてあるで?」 「じゃぁ、佐藤くんがどうしてお寺に住み込んでるのか教えてくれたら、話すよ」 「それは企業秘密やさかい、教えられへん」 「じゃぁ、私も教えない」 ふたり、ひそひそと押し問答を繰り返し、夜は静かに更けていった。2人とも徹夜する気でいたのだけれど、ふたりでいると妙に心が安らいで眠気に襲われ、結局佐藤くんの布団で添い寝した。 佐藤くんは、いつも怪我をしている。この時もそうだったし、夏に都大会の会場で偶然に出会った時も、腕を怪我していた。初めて会ったときからそうだった。佐藤くんはいつも傷だらけだった。 そんな彼に、私は勝手に親近感を覚えていたのだと思う。佐藤くんは体に傷を刻んで、たくさん血を流したけれど、私は体の内側に多くの傷を負っていた。あの頃のふたりは、本当はぼろぼろだった。ぼろぼろなもの同士寄りかかって、なんとか2本の足で立っていた。境界線を超えてしまわないよう、お互いに手をつないでいたのだ。 けれど私は祖母の家に引っ越し、佐藤くんと離れ、手首を切って境界を超えた。今思えば、私は佐藤くんがいないと自分を保てなかったのだ。そのくらい佐藤くんを頼っていたし、依存していた。大切なことは何一つ話さなかったけれど、私と同じような傷を負った佐藤くんがそばにいてくれればそれで良かった。 季節はめぐり、もうすぐ春がやって来る。佐藤くんはもういない。いるのは、少しだけ背が伸びて、体には傷ひとつない、晴れやかな顔で笑う藤村くんという人だけだ。 それに、この1年で私も変わった。もうあの頃のような気持ちで夜の街に出ることはない。境界線はまだ私のすぐそばにあるけれど、それを横目に、安全な場所をしっかりとした足取りで歩くことができる。道しるべは、新しく出会った人々だ。 桜庭や上原とハイタッチをしながら、ふたりにつられて笑っていると、コートの向こうに立つ藤村くんが見えた。チームメイトと並んで、口元を片手で抑えながら笑っていた。 彼のあんな笑顔は初めて見たなと思ったら、嬉しい気持ちがした。あの頃の2人の傷がきれいに癒えたら、きちんと話をしたいなと思った。 20150713 |