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03 「あら、ちゃん。いらっしゃい!」 にこやかに出迎えてくれたのは、花柄のエプロンをした真理子だった。暖かい夕飯のにおいがただよってきて、幸せの輪の中にぽんっと放り込まれたような気分になった。目がチカチカして、は何度も目をパチクリさせた。 「ただいま」 水野がドアを後ろ手に閉めながら言った。 「おかえりなさい。疲れたでしょう? さぁ、上がって」 「……おじゃまします」 は、小さな声でなんとかそう言った。武蔵森の寮や榊の家での生活がここ半年程続いていたし、しばらく帰っていない実家は家政婦を雇うほど大きな家で、仕事に忙しい父と母と食卓を囲む時間はほとんどなかった。以前水野家を訪れた時は、心に余裕がなくて気がつかなかった。こんな家庭的な雰囲気を感じるのは、初めてだ。 「大丈夫?」 と、水野が言う。 「うん、平気。前にも思ったけど、きれいだね、真理子さん」 「そうか? 普通だろ」 水野は言葉とは裏腹に、照れくさそうに目を細める。きっと、自慢の母親なのだろう。は温かい気持ちになって、それと同時に水野を羨ましくも思った。 リビングに入ると、ゴールデンレトリバーのホームズがしっぽを振って近づいてきたので、顔を両手で挟んでなでてやる。ホームズは礼儀正しく、黒く湿った鼻を手のひらに押し付けてきた。 「こんにちは、ホームズ」 「夕飯まだでしょう? よかったら食べて行って」 真理子はキッチンに立って鍋の様子を見ながら言った。今日のメニューはシチューのようだ。ホワイトソースの柔らかく甘い匂いが湯気と一緒に立ち上っている。 「いえ、寮の夕食があるので……」 「そう、残念ね。じゃ、プリンを作ったから、よかったら食べていかない?」 「すいません、ありがとうございます。あの、これ、母からです」 「まぁ、ご丁寧にありがとう」 が真理子に世話になって水野家を訪れたのは、年末のことだった。そのことは誰にも話していなかったのだけれど、ちょっと油断したすきに口を滑らせてしまい、玲をとおして母である静香に知られてしまったのだった。静香と真理子は夫の仕事をとおして知らない仲ではなかったので連絡を取ったらしい。 「静香さんと久しぶりに電話でお話したけど、お元気そうね」 「……はい」 はあいまいに笑った。ここしばらく母と会っていないし、電話もしていない。顔を思い出そうとして、記憶の中の母はぼんやりとかすんだ。 「プリン、おいしくできたのよ。嫌いじゃないといいんだけど」 真理子はの心を察したのか、優しく言った。 白い器の上でなめらかに光るプリン。カラメルソースが甘くとろけている。水野家に流れている空気に似ている。甘く、優しく、包み込むように安心をくれる甘いお菓子。 は、きゅっと苦しくなる胸を抑えて、なんとか微笑んだ。 「いいえ、大好きです」 ここは居心地がいいけれど、自分の本当の居場所ではない。それが分かっているから、悲しくて、うらやましくて、切なかった。 自室で服を着替えてきた水野がリビングに戻ってきたので、3人でプリンを食べた。真理子が淹れてくれた紅茶もとても美味しかった。寮の門限があってあまり長居できないのがもどかしかったくらいだ。 帰りは水野がホームズの散歩がてら、駅まで送ってくれることになった。と水野とホームズの吐く息がふわふわと現れては消える。雲のない夜空は冬の星座で賑やかだ。 「いろいろ、ありがとうね」 白い息に乗せて、は言った。 「何が?」 水野はきょとんと目を丸くする。ホームズも主人のまねをして、小首を傾げてみせた。 「去年、夜遅くにお世話になったでしょう? それから、今日も」 「母さんがにぎやかなの好きだからな。気にしなくていいよ」 「うん。でも、ありがとう」 水野はなんと答えればいいかわからなかったのだろう。困った顔で空を見上げた。吐く息が、雲になって空に溶けていくようだった。 「前にうちに来たとき、親父の話、しただろ?」 「うん」 「あれから、がなんであんなこと言ったんだろうなって、考えたんだ。きっと、親父さんといろいろあって、こじれてるんだろうなって思った」 「……うん」 「でもいつか、ちゃんと話し合って、分かり合える日が来ると思うんだ」 「水野くんは、話し合ったことがあるの?」 「そんなちゃんとしたもんじゃないけど、あるよ」 水野は思い出し笑いをして、白い雲をぽっと口から吐き出した。 「なんか、と話してると、サッカーしてて良かったなと思うよ」 「え? どうして?」 「親父とは、ほとんどサッカーの話しかしないから。親父と話ができるのは、サッカーやってたおかげかなって思うんだ」 水野はを見下ろして、照れくさそうに言った。 「にもいつかそういう時がくるよ。サッカーとか、共通のものとかあると話しやすいと思うけど、そうじゃなくても、きっとさ」 水野は、を元気づけようとしてくれている。その心遣いが嬉しくて、は笑顔をつくって言った。 「ありがとう」 ホームズがのとなりに並んでしっぽを振った。ホームズの息遣いが楽しげで、自然と足取りが軽くなるような気がした。 20140721 |