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29 かごの中から、小鳥が逃げ出した。 扉が開け放れていたのか、鍵が甘かったのか、何があったのかは分からない。逃げた。目の前をまっすぐ飛ぶ小鳥。 は、迷わずその後を追った。小鳥をかごの中に戻さなければ。猫に襲われてしまうかもしれない。帰り道を見失ってしまうかもしれない。自分で餌を取れるかどうかも分からない。 けれど、あんなに空高く悠々と飛ぶ小鳥を、どうやったら捕まえられるだろう。 はがむしゃらに走る。小鳥を追って、ただひたすらに走った。 小鳥はときどき地面に降り立って、を振り返る。ちゃんとが着いてきているか確かめるように、または、いつまでたっても追いついてこないにいらだっているようでもあった。 が近づくと、小鳥は飛び立つ。しばらくすると羽を休めて、振り返る。 息が切れて、どんどん足が重くなっていくを、小鳥は高い位置で旋回してあざ笑った。 小鳥はどこまでも飛んでいった。は足が鉛のようになるまで、うまく息もできなくなるまで、走り続けた。苦しくて、体中が悲鳴を上げていた。小鳥は残酷にも、透き通るようなソプラノで鳴いた。 途端に、背中にぞくりとしたものを感じで、は崩れ落ちるように足を止める。 一体どこまで走ってきたのだろう。どこをどう通ってここまできたのか、ここはどこなのか、不安が闇のように襲ってきた。体が震えて、涙が出る。恐ろしさのあまり、声が出ない。怖い。けれどもう、帰り道も分からない。小鳥は、どこへ行ってしまったんだろう。 大声を上げて泣きたかった。溢れ来る恐怖心のまま、吐き出すように泣きたかった。声を出そうとしても、自分の声が聞こえない。喉が震える感覚もない。ただ、どくどくと脈打つ心臓が、胸の奥で唸りをあげている。 まるで、体の中に獣が住んでいるようだった。自分ではどうする事もできない、もてあました暴れ者の獣。 その時、暗闇の中で小鳥の目が光った。いや、それはもう小鳥ではなかった。 黒い髪、黒い瞳、色素の薄い肌と、微笑んだ唇。それは紛れもなく人間だった。と同じ顔をした、人間だった。泣きっ面のとは対照的に、もうひとりのはうっすらと微笑んでいる。 はを見つめて、呆然とした。こんな風に笑う自分は見たことがなかったし、こんな風に笑える日が来るなんて、これっぽっちも思えなかった。 微笑みを浮かべるが涙に濡れたの手を取ると、は小鳥になった。小鳥は、逃げた。 足元に流れる風景を眺めながら、小鳥はどこまでもどこまでも飛んでいった。 は思う。 小鳥を追って、こんなに遠くまでやってきた。同じ顔の自分に会った。空さえ飛んだ。 小鳥は逃げ出したのではなく、かごの中にいた時さえ自由だったのかもしれない。逃げたのではなく、飛び立ったのだ。本当は、追いかける必要すらなかったのだ。 気付いていなかっただけで、人はどこへだって、自由に飛んでいける。涙と闇を、同時に携えて。 *** ぼた雪が絶え間なく降りしきるサッカー場で、は仰向いて空を見上げる。 灰色の空から、埃の塊のような雪が降ってくる。まるで、自分が空へ登っていくような錯覚にとらわれて、眩暈がした。雪がぐんぐん自分の後ろに消えていって、遠すぎるはずの空に自分が近づいていく。灰色の雲が引力を持っているようにも思えた。 不思議と、寒くはない。きんと、心の奥が研ぎ澄まされている。 ずっと空を見上げていられなくて、ぐっと俯いて目をつむる。次に目を開けると、赤一色に染まるスタンドと雪の白さがコントラストになって、その劇的な景色に、は言葉を失った。 風邪を引きながらも韓国へやってきたけれど、この景色が見られただけでも無理をした甲斐がある。けれど、にとってその感動は付属品だった。 試合はハーフタイム。今のところ、1対2で、ソウル選抜にリードを許している。 雪の中、赤と青のユニフォームがピッチを駆け回る様はどこか芸術的でもあった。そして、選手の表情は一様に明るく、熱い。 「!」 と、の肩を叩いたのは木田だった。ユニフォームを着替えて、ウィンドブレーカーをきっちり着込んでいた。 「そんなとこ突っ立ってっと、また熱上がるぞ。」 「木田君、交代? 誰と?」 「椎名とだよ。いいから屋根の下入れって。」 木田に腕を引かれて屋根の下に入ったは、ちょうどピッチへ向かう椎名と目が合った。燃えるような目を椎名は不敵に笑って、の頭をぽんと叩いた。 「しっかり働けよ、マネージャー。」 椎名はそう言って、勢いよく雪の中へ駆けて行った。 何かを頑張りたくて、ここまで来た。努力をして、報われたかった。けれどやっぱり思い通りにはいかなくて、頭の中に描いていた設計図は何の役にも立たない。 けれど、そんなことはもう、どうでもよかった。この景色を見られたことが、は嬉しかった。この景色を、ずっと忘れずに覚えておこうと思った。 青いユニフォームの、みんなの顔が見える。ホイッスルの高い音が、雪空の下に響いた。 20110513 |