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28 ホテルに着くなり、は倒れこむようにしてベッドに入った。潤慶と話し込んでしまったせいか、バスの中で少し熱が上がってしまったのだ。体がだるい。 「薬は飲んだ?」 と、同室の玲が心配げに言う。 「飲んだ。」 と、はかすれた声で答えて、もぞもぞと布団の中で体の置き場所を調節した。 「大人しく寝てないさいね。私これから明日の打ち合わせしてくるから。何かあったら、マルコの部屋に電話してね。」 玲はそう言ってから、荷物を整理したり、簡単に着替えを済ませたり、身の回りを片付けた。特に何を話すでもなく、はぱたぱたを部屋を歩き回る玲の気配を追う。きっとの荷物まで整理しているのだろう。それが申し訳なくて、はため息を吐いた。 玲は15分ほどでシャワーを浴びて戻ってきて、打ち合わせのために身なりを整えると、ベッドの縁に腰掛けて、の額を撫でた。 「まだ少し熱いわね。ポカリ飲む?」 「……気が向いたら。」 「じゃ、枕元においとくわね。」 は謝りたいような気分になって、横になったまま、玲を見た。 きっと玲の頭の中は明日の試合の事でいっぱいのはずなのに、風邪を引いて面倒をかけているのが申し訳ない。本当はこんな妹にかまうより、サッカーのことだけを考えていたいはずだ。風邪を引いたんなら、大人しく日本に残っていればよかったのに、そう思われているような気がして、やるせない気分になった。 「……ごめんね、玲。」 「何が?」 「風邪引いて、こんな、面倒かけて……。」 玲はそれを聞いて苦笑した。 「いいのよ、そんなこと気にしなくても。」 「でも……、」 「大丈夫よ。私、こう見えて丈夫なのよ? 風邪もらったりなんかしないから。」 そんなことを心配したのではなかったけれど、玲があんまり自信たっぷりに言うから、は頷いた。玲の手が冷たくて心地良かった。 「一つ、聞いていい?」 「何?」 玲は神妙な顔つきになって言った。 「なんでこんな無理をしたの?」 なぜ、熱を出して、風邪を引いてまで韓国にやって来たのか。 その答えは、にもよく分かっていなかった。旅費を全て払ってしまった後だったし、韓国には行ったことがなかったから行ってみたかった。美味しいものも食べたかったし、観光もしたかった。けれどそれだけじゃなくて、もっとぼんやりした、掴みどころのない思いが、に中にあった。 若菜、藤代、三上、渋沢、スガ、天城、水野、鳴海……。皆があんなに頑張っている姿を見ていると、いつまでたっても答えを出すことのできない自分が情けなくて、どうしようもなくやりきれない気持ちになってしまう。 たくさんの人から、背中を押されたような気がするのだ。がんばれ、と。 「……何かをがんばらなくちゃって思ったの。」 風邪を引いているのに無理をして、飛行機に乗って海外へやってくる。それが何を頑張ることになるのか、にもよく分からない。ただ、逃げ出したくはなかったのだ。きっとみんながそうしていたように、前を向いていたかった。 いろんな人に迷惑をかけているから、これはきっと正しい選択ではなかったのだろう。風邪が治ったら、なんであんなばかなことをしたんだろうと、自分自身に呆れるのかもしれない。それでも、都選抜、初の公式試合をこの目で見てみたかった。しっかりと前を向いて。 ふと、玲の目が、泣き出しそうに歪んだように見えた。 「は、もう十分頑張ってるわ。」 「そうかな?」 玲は泣き出しそうになるのを堪えて、にこりと笑った。 「そういや、の話聞いた?」 と、上原がぼんやり言うと、 「おー、聞いた聞いたー。」 と、桜庭がぼんやり応える。 それを聞いた同室の伊賀は、ぼんやり視線を上げて耳をすませた。 「あんなにあっさり答えてくれるもんなんだなぁ。」 「なぁ。意外っちゃ意外だよな。」 「アイツが聞いたからじゃねぇの?」 アイツというのは、李潤慶のことだ。あんな風に気さくに話しかけられれば、ともう少し仲良くなれるのかもしれない。3人はそう考えて、あの無邪気で屈託のない笑顔を思い出す。そして、複雑に顔を曇らせた。 あんな風に軽々しくに接するなんて、今更できるわけがない。 「ちょっとちゃんに馴れ馴れしすぎですよね、あいつ。」 藤代が珍しく不機嫌にそう言うので、渋沢は驚いた。藤代はチュッパチャップスのコーラ味を舐めながら唇を尖らせていている。 大切な公式戦で負けてもあっけらかんと笑っていられるのが藤代で、の事が絡んでいるとはいえ、藤代がここまでへそを曲げるのは珍しい。 「やけに気にするんだな。」 と、渋沢が言うと、藤代は声を大きくして答えた。 「そりゃそうっすよ! あんなぽっと出の奴が何様のつもりなんすかね?」 「そこまで言うことないだろ。」 「キャプテンは心配じゃないんすか? ちゃんのこと。」 「そんなことは言ってないだろ。ただ、あんまり先走って、さんの迷惑になるようなことはするなよな。」 「迷惑ってなんすか?」 「いや。お前の事だから、すぐにでもさんの部屋に乗り込んでいくんじゃないかと思って。」 「やだな、キャプテン。いくら俺でもそんなことしないっすよー。」 藤代はからりと笑ってとぼけて見せたけれど、渋沢は目を光らせる。 「お前には前科があるだろ。」 「……なんだ、知ってたんすか?」 藤代は一度、寮のの部屋へ忍んで行ったことがある。ルームメイトの間宮すら知らないことのはずなのに、渋沢は一体どこでその情報を仕入れてきたのだろうか。「誰に聞いたんすか?」と藤代が言うと、渋沢は意味深に笑って答えなかった。渋沢が笑うのを見て、藤代もにやりと笑った。 潤慶の気さくさとか、人懐っこい雰囲気とか、親しみやすい言葉遣いとか、風邪を引いていたせいで普段とは気持ちの持ちようが違ったとか、の心を柔らかくした要因はいくらでもあっただろう。けれど、が勇気を出してくれたことが何よりも嬉しかった。 2人とも、が自分から自分の話をしてくれたことが、本当に嬉しかったのだ。 「明日には元気になってるといいっすね、ちゃん。」 からりとそう言った藤代に、 「そうだな。」 渋沢はそう答えた。 「、大丈夫かな。」 と、呟いたのは若菜だ。 規則を破ってひとりホテルから抜け出していった郭のいない部屋で、若菜と真田は暇を持て余している。誰か大人が見回りに来た時の言い訳は打ち合わせ済みなので、緊張もなく怠惰な気分だったけれど、若菜は今この現状より、の事が気がかりで仕方がないらしい。真田はそんな若菜の相手をするのは心底面倒臭かった。 「あいつのことより英士のこと心配しろよな。」 と、真田。 「英士は大丈夫だよ。どーせうまくやるって。。」 若菜はベッドの上でごろりと仰向けになって深いため息をつく。雑誌をぼんやりと眺めていた真田は、内心うんざりしていた。若菜の口から聞くの名前は聞き飽きていて、 「風邪ならぼちぼち落ち着いたみたいだっつってたじゃん。」 「そらそうだけどさぁ、心配なもんは心配なんだよ。」 「……結人って、に振られたんだよな?」 真田の言葉に、若菜は黙り込んだ。 「まだ好きなのかよ?」 「……好きだよ。そんな簡単に吹っ切れるほど簡単じゃねぇんだ。お子様のかじゅまにはどうせ分かんねぇよ。」 「まぁ分かんねぇけどさ。」 「ならつべこべ言うなよ。」 若菜は黙り込んだ。 若菜がに未練たらたらなのは誰が見ても明らかなことだったから、若菜の考える事は真田にも手に取るように分かる。 「……、今日ちゃんと自分のことしゃべってたじゃん。」 「あぁ、名字のこと?」 「潤慶にはあんなに素直にしゃべるんだよなぁ、俺が聞かなかったのが悪ぃのかもしんないけど、けどなんかもう、なんで潤慶なんだよって思うじゃん?」 「……思うのか?」 「思うだろー、そりゃー。」 どうやら若菜は、潤慶に嫉妬して、激しく落ち込んでいるらしい。ベッドの上で枕を抱え込んだままぐるぐる悩んでいる若菜を見て、真田は心底面倒臭くなった。勝手にやってろ、と、口の中だけ呟く。 若菜は何かひとりごとを呟いているようだったけれど、返事を求めるでもなく、一晩中大きなため息の音を吐き続けていた。 その夜、誰かがそれぞれに、のことを思っていた。韓国の夜空の下で風邪で熱っぽくうなされるを、想っていた。 想いは飛んで、力と夢になる。 の背中を押したのは、間違いなく、を想う誰かだった。 20110421 |