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25 が目を覚ますと、もう昼に近い時間だった。 榊の家の中でにあてがわれている部屋は、もともと物置に使っていた5畳ほどの納戸で、今は使われていないソファがのベッドになっている。 そこから起き上がって、寝ぼけ眼のままリビングへ行くと、テーブルの上に朝食のサラダとスープが乗っていた。ラップの掛かったそのそばには、小さなメモがあった。 昨夜は遅くまですまなかった。 仕事へ行ってきます。 今日は遅くなるから、戸締りに気をつけて。 メモの最後には榊の字を丸で囲んだサインがあって、は思わずくすりと笑ってしまう。名前なんか書かなくたって分かるのに。本当に榊は律儀で真面目な人だ。 用意してもらった朝食をレンジで温めてからありがたく頂戴して、空腹を満たす。そうするとまるで榊に背中を押されたように、今日は外に出てみようという気になった。 食器を片付けてから身支度をして、コートを羽織ってブーツを履いた。食器用の洗剤が切れ掛かっていたから、それを買ってこよう。散歩のついでに図書館に寄って、冬休みの暇つぶしにする小説を何冊か借りてこよう。そうプランを立てて家を出る。 冬の曇り空は重く淀んでいて、今にも雨か雪が降り出しそうだった。昼間だというのに、なんとなく薄暗いような気さえする。そういえば傘を持ってこなかった。突然降られたらどうしようと思ったけれど、濡れるだけならいいかと、元も子もない理屈で開き直る。 玄関を出ると、冷えた空気が肌に沁みた。 この日、鳴海は部活の練習が終わった後、チームメイトとゲームセンターに来ていた。もちろん言いだしっぺは鳴海だ。 今日は今年の最後の練習日だったから、いつもの練習終わりよりも皆の顔は活き活きしていて、鳴海もこのまままっすぐ家に帰る気にはならなくて、有志を募って繁華街へ出たのだ。 およそ一時間チームメイトとたむろして、一人駅に向かう途中に雪が降り出した。少し水っぽい霙のような雪だったので、無意識のうちに早足になる。急ごう、と思った矢先に、雪はどんどん雨に変わってしまった。 ついてねぇーと口の中で毒づきながら、どうにか駅までたどり着く。首の後ろで一つに縛っている髪が重くて、コートの肩がじっとり湿ってしまった。家に着くまではもうしばらくあるというのに、本当についていない。 「あれ、鳴海君?」 と、突然声を掛けられて振り向いた。と、同時に「げ」と嫌な声が出てしまう。慌てて口元を手で塞いだ。 「そんなに嫌そうな顔しなくても……。」 鳴海に声を掛けてきたのは、だった。口ではそう言いながら、たいして傷付いた顔はしていない。表情と言葉の不調和が気持ち悪くて、鳴海は苦笑いもできなかった。 今日は本当に、本当についていない日だ。なぜこんなところで、こんな奴と顔を合わせなければならないのだ。 「おっまえ、何やってんだよ? 家この辺なの?」 「図書館に行ってきたの。駅の裏の、大きいとこ。」 確かに、この駅の裏側には区立の大きな図書館がある。鳴海も小学校時代に課外授業の一環で利用したことがあるけれど、最近はとんとご無沙汰なので思い出すのに少し時間がかかった。 「あぁ、あそこ。へぇー。」 「鳴海君は、家この辺なんだ?」 「あぁ、まぁな。部活帰り。」 「そうなんだ。お疲れ様。」 「あぁ、どうも。」 鳴海は正直、が苦手だった。出会い方が鳴海からのナンパだったし、それが失敗して気まずくなって、の事情を知ってしまったら余計に話しかけにくくなって、練習がある日にも最低限の挨拶をするくらいでほとんど目も合わせていなかったのだ。それで誰かが不自由をする訳でもないし、も鳴海も、それを不自然に感じることもなかった。 だから、こんな風に突然二人きりになるなんて、鳴海にとっては大問題だった。大変な事件だった。何をどうしろというのだ、こんな雨の中に閉じ込められて二人きりだなんて! 「随分濡れてるね。傘は?」 内心、爆発しそうな思いを抱えていた鳴海に、は小首を傾げながらそう聞いた。その視線が、鳴海の足の先から髪の毛の先までを辿る。小動物が敵対した熊か何かを警戒して、小さな目をくりくりと動かすような様子だった。 鳴海は自分より頭二つ分も小さいを見下ろして、その仕草をじっと眺めていた。 「そんなもん、持ってたらこんなに濡れてねぇよ。」 「じゃぁ、タオルは? そのままだと風邪、引いちゃうよ。」 「あー、タオルな。」 タオルは鞄の中に入っているけれど、部活終わりにシャワーを浴びて、その時に使ってしまったものなので、湿っている上にきちんとたたんでもいないから、もう一度取り出すわけにもいかない。 言いよどんでいると、は何か察したのか、無言で自分のポシェットから小さなハンカチを取り出した。 「よかったらどうぞ。足りないかもしれないけど、ないよりましだよ。」 「え?」 鳴海は驚いた。がこんなにものをしゃべるとは思っていなかったのだ。はもっと物静かで、寡黙で、とっつきにくいタイプの女の子だと思っていた。人づてに聞いた事情を考えれば、こちらも話しかける前から身構えてしまう。出会い方が悪かったし、自分の印象も悪かっただろう。本当は、嫌われているんじゃないかと考える事もあった。だって今日の今日まで、こうやってきちんと目を見て話をしたことがなかったのだ。 「鳴海君?」 「あ、お、おう。悪いな、サンキュ。」 慌ててハンカチを受け取って、広げる。鳴海でもよく知っているブランドのロゴマークが刺繍された、タータンチェックの上品なハンカチだった。中学生が持つようなものではないだろう、と言いたかったけれど、そこはぐっと堪える。きっと、あの監督からの贈り物、とかだろう。 「韓国戦もあるんだから、気をつけてね。」 「分かってるよ。今日はたまたまだって。」 ハンカチは確かに小さくて、濡れた体を拭くには足りなかったけれど、肌に触れた感触が柔らかく心地良くて、鳴海はらしくもなく心を穏やかにした。 はやっぱり苦手だ。きっとそう仲良くなるなんてことはできないと思う。けれど、今日はほんの少しだけ、少しだけ近づけたような気がした。いや、のほうから歩み寄ってきてくれたのだ。 「雨、止まないね。」 「、帰りはどうすんだ? 電車で帰れんの?」 「うん。でも、駅から少し歩くから、コンビニで傘買って行こうかなって。」 「じゃ、それおごってやるよ。」 「え? そんなの悪いよ。」 「いいんだって。これ、ハンカチのお礼。」 「そんなの洗って返してくれればいいよ。」 「いいからいいから。せっかくだからピンクの水玉の奴でも買ってやるって。」 「いや、ピンクはちょっと、嫌かも……」 は困ったように眉尻を下げたけれど、その口元はほんのりと微笑んでいるように見えた。あくまでを見下ろす角度に視点がある鳴海の判断だけれど、は笑ってくれた。 鳴海は、そう思うことにした。 20100522 |