|
24 学期末試験を乗り切って冬休みに入ると、時間は驚くほどゆっくり過ぎた。 は結局実家には帰らず、榊の家に上がりこんでいる。けれど榊が仕事に出かけている昼間は特にする事もないから、部屋の大掃除をしたり、食器を洗ったり、一通りの家事をこなしていた。は無償で自分を預かってくれている榊に、家賃を払うようなつもりで尽くしていたのだけれど、榊は「そこまでしなくてもいいのに」と言いながら、いつも少し困ったように笑った。 「友達と遊んだりはしてないの?」 大晦日が近づいたある日の夕食の席で、榊はそう問いかけた。この日の夕食は、ぺペロンチーノとミネストローネのスープと、温野菜のサラダ。榊の得意なイタリアンだ。 「友達は、実家に戻っているので。年末は忙しいと思うし」 「なるほどね。いつも家にいて暇じゃない?」 「宿題がたくさんあるので、それほどでも」 「そうか、武蔵森だもんな。勉強は大変?」 「いえ、前の学校の方が厳しかったので」 「ふぅん。勉強できるんだね、は。」 榊は口元に笑みをたたえたまま、上品にフォークを動かしている。は機械的に手と口を動かしている。静かな食卓だ。けれど、どこかぎこちない。二人ともそれを自覚していながら、二人とも突破口が見えずにいた。 本当は話さなければならないことがたくさんあって、それはずっとずっと先送りにしてきてしまった、大切な問題だった。話さなければならない。話さなければならない。ずっとそう考えていたのに、きっかけを掴めずに逃げてきた。 榊は、もうあまり時間はないと思っていた。何か策を講じなければならない。これ以上問題を長引かせてしまったら、の心がもう持たないような気がしていた。 食事を終えて、が食器を洗って片付けている間に、榊はミルクティーを淹れてリビングのテーブルにセッティングする。 「、洗い物が終わったら、ちょっといいかい?」 「? はい」 は食器を水切り棚において、濡れた手を拭ってから、促されたソファに座った。榊の隣だ。 榊はテーブルの上で暖かな湯気を上らせているミルクティを見下ろしながら、ゆるやかな笑みを口元に浮かべている。はその横顔を見上げて、なぜか胸苦しい気持ちを覚えていた。 「勝から君を預かった時から、ちゃんと話をしないといけないとは思っていたんだけどね。なかなかタイミングが掴めなくて。悪かったね」 「どうして榊さんが謝るんですか?」 榊はに目線を向けると、少しだけ泣きそうに目を細める。そして、優しい手つきでの頭を撫でた。 「君が辛そうな顔をしているのを、いつも見ていたつもりだからね。何もしてやれなくて、もどかしかったんだ」 は榊の大きな手のひらを重さを感じながら、妙な居心地の悪さに肩を強張らせた。榊はいつも優しくて、ふらふらと不安定な自分を穏やかに見守ってくれている。けれどこう改まられると、緊張した。 「。君はどうしたら、きちんとした気持ちで西園寺の家に帰ることができると思う?」 榊の問いかけに、はぐっと息を呑む。そんなこと、こっちが聞きたいと吐き出したくなって、それを飲み込むために呼吸を一瞬止めた。 は、反抗期だからこんな風に意地を張っているわけではない。 ずっと父親が嫌いだった。物心付かない頃からそうだったのか、の一番古い記憶にある父親の顔は不機嫌に歪んでいる。その表情ははっきりと覚えていた。どうしてそんな顔をしていたのか、もしくはさせてしまったのか、肝心なところは覚えていない。母親か姉に聞いてみればいいのかもしれない、でも、怖かった。本当はそんなこと知りたくもなかった。 小学生の頃から、サッカーをやらないかと強く勧めてくる父親との折り合いは悪かったのだけれど、二人の関係に決定的な日々を入れたのは中学一年生の頃だ。学業の成績が少し落ちただけで、父親はにこう言った。 「サッカーやってれば、俺はこんなことで怒ったりしなかったのにな」 その言葉は、の堪忍袋の尾を叩き切るには十分すぎるほどの力を持っていた。 はその日、父親の頬をその細腕に乗る精一杯の力で平手打ちしたのだ。突然のことにうろたえて「父親を殴るとはどういう了見だ」と声を荒げる父親に、は金切り声を上げて訴えた。 「お父さんに私の気持ちなんか分かんないよ!」 どこかで誰かが言ったようなせりふを、そんなつもりではなく、喉の奥から振り絞った。両親の制止を振り切ってそのまま家を出て、祖母の家に駆け込んで、それきり家には帰らなかった。 の父親、西園寺勝はサッカー協会の重役で、若い頃は自らも現役のプレイヤーとして活躍した、根っからのサッカー人だ。だから子育てもサッカーなしに考える事はできず、その証拠に、長女である玲はプロのプレイヤーになり、今では選抜の監督を務めるにまでなっている。玲は勝の教育のたまもので育て上げられたようなものだ。 けれどは違う。玲の妹であるというだけで、は玲ではない。は玲がサッカー選手として活躍する様子をずっと見て育った。けれどそれと同じくらい、見られなかった玲の姿がある。シーズン中は滅多に家に帰らない。現役を引退した後も勉強と託けて、ヨーロッパから2年も帰ってこなかった。家族として、姉として共に過ごした思い出はない。 にとってのサッカーはそういうものだ。家族を壊してしまうもの。家族をどこか遠いところに連れて行ってしまうものだ。 だから、怖い。サッカーが原因で父親と喧嘩をして、その和解もしていない。姉とはぎこちないながらも話はできるようになったけれど、それだけだ。少しも素直になれていない。壊れたままの割れ物をおそるおそる指先でつつくような関係だ。 あの夜、を匿ってくれた祖母は死んでしまった。胸の苦しさを吐き出す家族がいなくなってしまったは手首を切って、まだ不安定に寮でひとりきりの生活を送っている。 これをどう修復すればいいのだろう。どんな風に家族と話し合えばいいのだろう。どうすれば、みんながしあわせになれるのだろう。 榊とはこの夜一晩中話し合い続けた。 20100427 |