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水野は練習が終わった後、スポーツ用品店で買い物をしてから家路に着いた。秋の日暮れは早い。時間はそう遅くはないというのに、空は既に真っ暗だった。気温も低くなってきていて、吐く息が白んだ。

家について、玄関の鍵を開ける。ふと見ると、見慣れないスニーカーが玄関に揃えられていて、どうやら客が来ていることが知れた。そのサイズを見る限り、女性だろう。祖母か、母親か、孝子か百合子か、誰かの友人でも訪ねてきているのだろうか。

「ただいま」

一応控え目に声を掛けて、リビングをガラス越しに覗く。孝子と百合子がテーブルに座って、なにやら真剣な面持ちで話をしていた。友人が訪ねてきているにしては、少し様子がおかしい。

不穏な空気を感じ取って、水野は扉を開くのを躊躇する。ひとまず自分の部屋に引き上げようか迷った。けれど、ワンテンポ遅い。リビング側から扉が開いた。

「あら、竜っちゃん。帰ってたの?」

母親の真理子が、ピンク色のチェックのエプロンを着けて、目を丸くしている。どうやら玄関を開けた音には気付いていなかったらしい。

「どうしたの? こんなところにつっ立って」

「いや、お客さんみたいだったから……」

邪魔しちゃ悪いと思って、と続けようとして、竜也は言葉を失った。孝子と百合子の間に正座をして、小さく背中を丸めている少女がいたのだ。真っ白な顔で、目をまん丸に見開いて、まるで小学生の子どもみたいな顔をしていた。

孝子と百合子が、「おかえりー」「何してんの? そんなとこで」と、間延びした声で言う。けれど水野は、それに答えるどころではなかった。

?」

「……お邪魔してます……」

二人とも、それだけ言うのが精一杯だった。





真理子が水野に話したのは大体次のようなことだ。

買い物帰りに駅を通った真理子は、偶然にも一人で道を歩いているを見つけた。すぐにそうとは気付かなかったものの、小さな背中と昔と変わらないショートヘア、何よりも影の落ちた大きな瞳。記憶と違わない面影に、真理子はすぐに気がついた。

真理子がと知り合ったのは、随分前の事だ。まだ真理子が桐原の姓を名乗っていた頃、当時の夫にエスコートされて参加した、その年一年の労をねぎらうパーティだった。サッカー協会の面々が大勢参加する中で、子どものはとても目立っていた。母親や姉の背中にくっついて隠れてばかりいるが意地らしく思えて、また、自分の息子と同年代であろう少女に感慨も覚えて、真理子はのことをしっかりと覚えていた。

そんなを偶然にも見つけてしまって嬉しくなった真理子は、それなりに遅い時間に、中学生の少女が一人街中にぽつんといることを心配して、声を掛けた。は最初こそ驚いたものの、良識ある言葉遣いと穏やかな真理子の物腰に緊張を解いて、流れのまま水野家に招待された。

が寮の門限を破っていることを真理子が知ったのは、水野家へ向かう道中でのことだった。





水野とが知り合いだと知れたら、それからは早かった。真理子をはじめ、大人達が一斉に席を立ったので、二人はリビングに取り残される。

気まずい空気が流れたけれど、水野の方が一足先に落ち着きを取り戻した。キッチンで湯を沸かして、紅茶を入れて、マグカップを二つテーブルの上に置く。なんと声を掛ければいいか迷って、結局、

「どうぞ」

と一言だけ言った。は、

「……どうも」

と答えて小さく会釈をした。水野がマグカップを手に取ると、も同じようにする。は水野と目を合わせようとしないけれど、緊張は少し解れたように見えた。

「……驚かせてごめんね。水野君んちって、知らなくて」

「あぁ、そうなんだ? 母さんに聞かなかった?」

はマグカップを両手で構えるように持ったまま、言いにくそうに口をすぼめる。

「……あの、『桐原』さんだと思ってたから。おばさんのこと……」

「あぁ」

そういうことか、と水野は納得した。この様子では、は水野家の家庭事情を既に聞いているようだ。我が母親ながら、どうしてそうヘビーな話題をさらりと話してしまえるのか、不思議でならない。

は水野家の事情を知って、どう思っているだろうかと考える。当然いい気はしていないだろうけれど、今更弁解もできない。そもそも弁解するようなものでもない。

「気にしなくていいよ。離婚してずいぶん経つし」

「……お父さんは、今どうしてるの?」

意外な事を聞かれて、水野は内心とても驚いた。は、他人の家庭事情に興味を示すような、好奇心の旺盛な人だったろうか。はいたって落ち着いた表情をしている。だから、水野は正直に答えた。

「離れて暮らしてるけど、連絡は取ってるよ。武蔵森の監督してるから、もどっかで見たことあるんじゃないか?」

「武蔵森? サッカー部?」

「そう」

「全然知らなかった。見たこともないような気がする。水野君に似てる?」

「似てないよ。俺はどっちかっていうと母親似」

「あぁ、言われてみればそうかも。二人とも色素薄いよね」

「正直、父親には似たくないしな」

「どうして?」

「どうしてって……」

水野はふいに、自分はどうしてこんなにも素直に父親への思いを吐露しているのだろうと思う。どうしてはこんなことに興味を示すんだろう。はぼんやりと視線を落として、静かに紅茶を飲んでいる。いつもと変わらない表情だ。何を考えているか分からなかった。

「お父さんのこと嫌い?」

「嫌いって言うか、好きではないかな。憧れない、あぁいう風になりたくないって思う」

「それは、何か原因があってそう思うの?」

の質問が妙に的を外しているような気がして、水野は不思議に思った。こういう時、普通ならどこがとか、どうしてとか聞きそうなものだ。

が、何を考えているのか分からない。ぼんやりとしたその目の向こうに潜んでいるものは何だろう。掴みどころがない。訳もわからず、不安になった。

「……原因は、そりゃあるよ。何にもなく嫌いになったりは、してないと思う」

「そう」

はいつの間にか紅茶を飲み干して、がくりと首を落とすように俯いていた。丸まった背中が小さくて、落ちた肩が頼りない。具合でも悪いのだろうか、声を掛けようとしたら、は片手を額に当てて息を吐いた。

「……私は、覚えてないんだよね」

?」

「父親を嫌いになった原因。気がついたら本当に嫌いで、話したくなくて。酷い事言われたような気もするけど、覚えてない……」

水野は黙ったまま、俯いたを見ていた。何か声を掛けてやらなければならないのかも知れないけれど、言葉すら選べなかった。

も水野と同じように父親に対して複雑な感情を抱いていて、その感情を扱いきれずに迷っている。水野の場合は風祭や桜上水サッカー部の仲間のおかげで、ある程度気持ちの整理ができているけれど、はまだそれができていないのだ。

の気持ちは分かるのに、どうして何も言えないのかが不思議だった。水野は溜息をおし殺した。



20091130