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22 午後の練習で、渋沢が膝を痛めた。玲が行けというので、はマルコに連れられてタクシーに乗って、近場の病院へ行くことになった。は定期的に通院しなければならない身なので、病院の持つ独特の雰囲気には慣れている。渋沢に付き添う事に抵抗はなかった。 マルコと渋沢が治療室に入っている間、は渋沢が入寮しているサッカー部寮に連絡を入れた。 渋沢は心配ないと笑っていたけれど、マルコにこっそり耳打ちされたのだ。おそらく渋沢の膝はあまりいい状態ではないから、武蔵森の責任者に事前に連絡を入れておくように、詳しい事は後でコーチから伝えるから、と。 「……と、いう訳ですので、渋沢さんを送る際に詳しくお話をする事になると思います」 『では、こちらでご家族やコーチの方に連絡しておきますね。わざわざありがとうございました』 「いいえ。それじゃ、失礼します」 電話に出た寮母は、を武蔵森の生徒とは思わなかったようで、丁寧に挨拶をして礼を告げてきた。それを聞いたは妙な気持ちになって、公衆電話の受話器をじっと眺めてしまう。大人に大人扱いされるのは初めてだった。電話越しとはいえ、不思議な気分だった。 「あれ、?」 と、突然に呼ばれて驚いて、は右手を電話にしたたかぶつけてしまった。 「……いった」 「大丈夫かい?」 右手を振って痛みをやり過ごすの顔を覗き込んだのは、榊総一朗だった。ジャケットを腕にかけて、Yシャツの上にはグレーのニットを着ている。スーツは紺色に白のストライプだ。 「榊さん」 「こんなところで何してるの?」 「榊さんこそ」 「僕はお見舞いだよ。知人がここに入院していてね。君は?」 「選抜の練習中に、キーパーが怪我をしちゃって……、今診察中なんです。私は寮に連絡を」 「あぁ、なるほど。頑張ってるみたいだね」 選手が一人怪我をしたと言ったのに、榊はにこりと笑っての頭を撫でた。こんな時にどうして笑うんだろう、とは思う。選手が一人、怪我をしたと言っているのに。けれど榊が自分を心配してこうしてくれていることも分かったから、素直にその笑顔を見上げる。ありがとうというつもりで、微笑んだ。 「会えてちょうど良かったよ。今、大丈夫?」 「はい。レントゲンとか、撮ってると思うので。まだ時間は掛かると思います」 「聞きたいことがあったんだ。は年末、家に帰るの?」 は驚いた。玲に言われた事と全く同じ事を聞かれるなんて、これはどういうことだろう。目をぱちくりと瞬くを見て、榊は何か悟ったのか、微笑んだまま言った。 「西園寺さんに頼まれたんだよ。君があんまり連絡してこないから、僕から聞いてみてくれって」 「あぁ、そういう事でしたか」 榊が言うところの西園寺さんというのは、西園寺玲の父親、つまりの父親、西園寺勝のことだ。榊とは選手時代からの知り合いで、玲やが子どもの頃から互いの家を行き来するの仲なのだ。夏休み中にが榊の家に世話になっていたのもその縁で、年末年始に関しても、その繋がりから心配してくれているのだろう。 「どうするつもりだったんだい? 寮にはいられないんだろ?」 は何も言わずに俯いた。考えても考えても逃げ場のない悩みを目の前に突きつけられて、何も言えなかった。榊は優しいから、怒らない。甘える事を許してくれている。黙り込んでも問い質そうとしない。無理強いをしない。見守ってくれている。 だから、甘えた。は黙ったまま何も言わなかった。榊は微笑んだまま、じっとを見つめていた。榊の手が、の肩をぽんぽんと叩いた。 「……ごめんなさい、榊さん」 「うん?」 「……ごめんなさい」 「うん。僕の方は大丈夫だから、いつでも連絡してくれて構わないからね」 「……ありがとうございます」 は、ずん、と沈み込んだような気分になって、無意識に下唇を噛んだ。心配を掛けてしまったことが申し訳なくて、分かっているのに答えを出せない自分に腹が立った。 榊と別れた後、治療を終えた渋沢とは、マルコの運転する車で寮まで戻った。マルコと渋沢は怪我について詳しい報告をしなければならないので、だけがここで別れる事になった。 「悪かったな、面倒掛けて」 渋沢は松葉杖をつきながらそれでも笑っていて、そこまで無理をしなくてもいいのにと、またを申し訳ない気持ちにさせる。は慌てて首を振った。 「ううん、お大事にしてね。何かあったら、言ってくれたら私から玲に連絡するから」 「ありがとう。それじゃ、も気をつけて帰れよ」 「渋沢、ソロソロ行クヨ」 マルコが渋沢を呼ぶ。松葉杖を操って体を反転させた渋沢は、ゆっくりと、けれど慣れた手つきで寮の門をくぐった。 マルコはに向かって微笑むと、「寄リ道シナイデ、真ッ直グ帰ルンダヨ」と、まるで小学生の子どもに言うような事を言う。はむっとして、ひらりと振られた手を振り返さなかった。会釈だけして、踵を返した。 帰りたくなかった。 寮に帰ればルームメイトが待っている。 誰の顔も見たくなかった。 一人になりたかった。 考える時間が、覚悟を決める時間が欲しかった。 自然と足が早くなる。 冷えた空気に溶ける吐息が白い。 心臓が高鳴って、息が上がった。 胸が苦しい。 何かが詰まっているような気がする。 鉛のように重くて、濃い霧のようにもやもやしている。 思えば、いつも感じていたような気がする。 このもやもや。 取り除きたいのに方法が分からなくて、蓄積するままに放置していたのだ。 もやもやの欠片みたいな白い息が、表れては消える。 なのにこの胸はちっとも軽くならない。 どんどん重くなる。 どうしよう。 どうしよう。 泣きそうだ。 こんな風になるのが久しぶりで、どうやって耐えればいいのか分からない。 唇を強く噛む。 俯いたまま、さらに足を早める。 暮れかけた街、人通りは少ない。 時たま通りすぎる車の排気ガスの匂い。 鼻の奥が、つんとした。 20091121 |