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若菜を傷つけてしまった気がする。若菜と何を話したのか、よく覚えていない。別れ際、若菜は笑ってくれなかった。

ベッドにもぐり込んで若菜の事を考えて、反復する。どうすればよかったのか、何が正しい選択だったのか、分からない。もしもの事も想像がつかない。次に若菜に会う時、どんな顔をすればいいのだろう。

次の選抜の練習日は再来週だ。まだ二週間ある。けれど二週間しかない。若菜に会うのは怖かった。

ちゃん。どうしたの? 具合でも悪い?」

ルームメイトの夏名が心配そうに声を掛けてくる。少し頭痛がすると答えて、夕食には出ないで眠ると告げた。

「寮母先生にいって、薬もらってきてあげようか?」

「ううん。寝てれば平気だと思う。夕ご飯食べてきていいよ」

「そう? 辛かったら言ってね」

「うん。ありがとう」

夏名が部屋を出て行く音を聞いて、肩の力を抜いてうつ伏せに寝た。考えることには疲れていたけれど、循環するように同じ言葉が巡っている。思考が止まらない。頭が休まらない。

もんもんと頭を抱え込んでいたら、ふと扉をノックする音が聞こえた。

「はい」

乾いた声で返事をしたら、扉の向こうから歳を重ねて枯れた寮母先生の声が返ってきた。

さん? ご家族の方から電話が入ってますよ」

重い体を無理矢理起こして、髪を撫で付ける。一眠りしたからか、少しだけ頭が冴えていた。家族というのは、玲か、母親か、もしかしたら父親か。誰にしろ、電話をもらって無視するには理由のない相手だ。





『あ、? 遅いぞ、何してたんだよ』

「……翼?」

受話器の向こうで、明るく笑い声を聞かせたのは翼だった。予想外の声に心底驚いた。翼は母方のはとこだから、家族と言って嘘ではないかもしれないけれど、性質が悪い。

「どうしたの? 寮に電話掛けてくるなんて……」

『今度の土曜なんだけどさ、暇?』

「予定はないけど」

『面白いもん見せてやるからさ、お前も来いよ』

「は?」

『10時に飛葉中な。分かったか?』

「ちょっと待って。意味分かんないんだけど……」

『来れば分かるって』

翼は相変わらず強引で、言葉の端々には相手が戸惑う反応を楽しんでいるような色が滲んでいる。少しばかり腹は立つけれど、聞き慣れた声を聞いてどこか安心している自分がいる事にも気付いた。もやもやした気持ちが、呼吸の仕方を思い出しているようだった。

『元気ないな』

翼の声が聞こえる。少しだけ遠い、数週間会っていないだけの、幼馴染のはとこの声。

『何かあったのか?』

「……別に、大したことじゃないけど……」

『ならいいけど。愚痴ぐらいならいつでも聞いてやるからな。あんまり無理すんなよ』

「うん。分かってる。ありがとう」





部屋に戻っても夏名はまだ戻っていなかった。先にシャワーを浴びて再びベッドに戻ろうとしたところで、今度は窓の外からノックの音がした。

この部屋は一階にある。門限を破った生徒が窓から侵入して寮母先生の目を逃れようとすることは間々あることだから、今夜も誰かがその手を使おうとしているのかと思った。

窓の鍵を外して、押し開く。その向こうに、見知った顔が笑っていた。

「こんばんは、ちゃん!」

「……ふ、藤代くん?」

藤代は黒のスウェットを着ていて、もう肌寒い夜にも関わらず頬が上気していた。
慌ててパジャマの胸元と濡れたままの髪を直す。化粧水を使う前で、肌がつっぱっていないか気になった。

「どうしたの? こんな所に……。見つかったらまずいよ」

「大丈夫だよ。先生だってこんな時間に外の見回りなんかしないって」

「そうかもしれないけど……」

「これ、差し入れ」

そう言って、藤代は持っていた白いビニール袋の中からチロルチョコをひとつ取り出して差し出してきた。反射的に受け取って、藤代の笑顔を見る。部屋からの灯りに照らされて、藤代の肌がオレンジ色に光っている。

「椎名から連絡もらった? 土曜日のこと」

「うん。ついさっき電話もらったよ」

「キャプテンも誘われてたからさ、一緒に行こうよ」

「それはいいけど……。もしかして選抜の用事なの?」

「そうなんじゃないかな。俺は桜庭から連絡もらったんだけど」

「そうなんだ……。そんなことより、ねぇ。こんなところ人に見られたらまずくない」

「何? そんな心配してんの? 大丈夫だって言ってんじゃん」

藤代が持っているビニール袋ががさがさと音を立てて、隣の部屋に物音が聞こえてしまわないかはらはらした。けれど藤代を部屋に入れる訳にはいかない。藤代が何を考えているかは分からないけれど、とにかく早く帰ってもらいたかった。これ以上妙な噂を立てられたら堪らない。

藤代は窓枠に手を掛けて、ぐいと体を部屋の中に乗り出してきた。思わず身を引きそうになるけれど、その方が外に声が響かないことに気付いて、藤代はもしかしたらとても頭のいい人なのかもしれないと思う。

「ところでちゃん、今日若菜と会ってたでしょ?」

「……え?」

「俺のダチがちゃんが男といるところ見たんだって。瀬田三中の制服着てたって聞いたから、たぶん若菜かなって。デート? ちゃん、若菜と付き合ってたんだね」

「違うよ。付き合ってなんかないって。前から遊ぼうって誘われてたから、それで……」

「ふぅん、でもそれってさ、絶対若菜はちゃんのこと好きだよねぇ」

聞かれて、すぐに言葉が出てこなかった。今までずっと感じてきたことだけれど、改めて言葉にされると素直に肯定できない。いや、肯定したくなかった。

若菜に言葉を返さなければならない。好きか嫌いか、二択の答えのどちらかをえらばなければない。それ以外の曖昧な言葉は若菜を傷つけてしまうだけだ。けれど今、どちらの答えも選ぶことはできない事は、分かっている。

好きとか嫌いとか、そういうことを考えるよりもまず、他の事で頭が一杯で、できれば極力人と関わることを避けていたかった。なのにどうして皆、好きとか嫌いとか、そんな複雑な感情をたった一言で解決させようとするんだろう。

ちゃん? どうかした?」

「……ううん、別に」

「そう? 俺そろそろ戻るね。明日また学校で」

「うん。チョコレートありがとう」

「いいよ。じゃ、おやすみ」

藤代の背中を、暗闇に紛れて見えなくなるまで見送って、窓を閉める。濡れた髪が冷えて頭が冷たかった。

恋愛ってどうして面倒臭いんだろう、と心の底から、溜息と共に思った。



20090401