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「結人ー、お友達から電話よー」

と、階段の下から母さんの声がしたので、コンポから流れる音楽を止めて返事をする。

「今行くー」

この時間に電話をかけて来るのは、一馬か英士のどちらかだ。一馬だったらゲームの攻略法か何かだろうし、英士なら借りているビデオを早く返せという催促だろうか。
どちらにしろ、待たせると後から怒られそうなので、つまんでいたポテトチップスを飲み込んで、部屋を出て階段を駆け下りた。

「わりぃ、お待たせっ」

固定電話の横に置かれていた受話器を取り上げる。母さんが台所で皿を洗いながら、なぜかにやにや笑っているのが気になった。

『あ、結人?』

受話器の向こうから聞こえた声は、一馬でも英士のものでもなかった。男にしては高めのトーンで、聞きなれないアルト。一体誰の声なのかすぐに思い出せなくて迷った。

「えーっと、誰?」

『あの、です。こんばんわ』

自信なさげな、か細い声。名乗られてようやく、その顔が思い浮かんだ。

「え? ?」

驚きすぎて声が裏返った。母さんが皿を洗いながら吹き出した声が聞こえたら、何だか急に気まずい気分になって、「ちょ、ちょっと待ってろ!」と、どうにか言って、電話を子機に持ち替えて部屋に掛け戻った。

とりあえず息を落ち着けてから、もう一度受話器を耳に付ける。その向こう側にの存在を確かめるみたいに、少しだけ耳をすませた。

「……もしもし?」

『あ、はい』

その声を聞いて、なぜか安心した。が待っていてくれたことが嬉しかった。いや、待ってろと言ったのは自分なのだけれど、とにかく安心して、嬉しかった。まさかから電話をくれる日が来るとは思っていなかった。

『突然ごめんね。今大丈夫?』

「あぁ。どうした? 電話くれるのなんて初めてじゃん。ていうか何で番号知ってんの?」

『選抜の名簿あるから』

「あぁ。なんだそっか」

『それで、あのね。今度の水曜日なんだけど、時間ある?』

「練習はないけど。何?」

『良かったら、放課後ちょっと付き合ってくれないかな?』

「え?」

の声は事務的で、どこか淡々としてはいた。けれどこれはまぎれもなくデートの誘いで、それは若菜にとって驚くべきことだった。何度誘っても頑として首を縦に振らなかったからの誘いだ。まるで奇跡みたいに思えた。

『都合が悪かったら別にいいんだけど』

「いや! 悪くない悪くない!」

思わず大声を上げて、誰も見ていないのに首を横に振る。電話の向こうで、が驚いたような声を出すのが聞こえた。

『じゃぁ、3時に待ち合わせでいい?』

「迎えに行こうか。武蔵森だろ?」

『ううん。駅のロータリーで待ってる。』

「分かった。明日の3時だな?」

『うん。じゃぁ明日ね』

「おう」

電話を切ってから、しばらくじっと受話器を眺めた。瞬きをしていないことに気付いて、乾いた眼球を腕でごしごしと擦った。

今まではいくら遊びに誘っても頑として首を縦に振ってくれなかったのに。これは一体どんな風の吹き回しだろうか。何度かその疑問をループさせた。

「結人ー。早くお風呂入っちゃいなさいよー」

と、母さんの声が聞こえたけれど、何となく無視した。怒られた。





翌日約束の場所に行くと、もうは待っていた。武蔵森の制服は深い緑色のブレザーだと聞いていたのだけれど、はベージュのカーディガンを羽織っていた。学校指定のものらしく、右胸に武蔵森の校章が刺繍されている。ベージュなんて大人っぽい色が、にはやけに似合った。

「よっ。お待たせ!」

声を掛けると、は妙に驚いた顔をする。

「結人」

「そんな、びっくりすんなよ。ぼーっとしてた?」

「うん、ごめん」

「いいけど、別に」

「急に誘ってごめんね」

「謝ってばっかだな。気にすんなって。むしろ嬉しかったよ」

はふと目を伏せて、ぱちぱちと瞬きをする。長い睫が扇みたいに動く。どうやら照れているらしい。それが分かると無性に嬉しくなって、思わずその手を取って歩き出した。

「どこ行く? カラオケ? それとも映画?」

「ごめん、何も考えてなかった……」

「だから謝るなって」

つんのめるように歩き出したは、自分の隣に並ぶととても小さく感じられて、それだけのことなのにはとても可愛かった。の事をとても好きだと思った。

それから二人で今流行の洋画を見て、二時間を映画館で過ごしたらあっという間に日が暮れた。秋はこれだから嫌だ。にも寮の門限があるから、今日はそのまま帰ることにした。寮まで送ると言ったのだけれど、は駅まででいいと頑として首を振らなかったので、仕方なくそうすることにする。

はいつも無表情なところがあるけれど、今日はいつもより表情豊かだ。映画を見ているときなんか、ポップコーンを食べながらふと笑ったりもしたし、自分の冗談にも笑ってくれた。

一体、に何があったんだろう。今日はいつものとは違う。

自動販売機を背にして立って、少しだけ時間を潰した。なぜか人通りは少ない。に温かいココアをおごる。

「ありがとう」

と、が言ったので、コーラのプルタブを開けながら、

「どういたしまして」

と、答えた。

「けど、寮って面倒そうだよなぁ。門限6時半とかってありえないだろ。部活やってる奴とかどーすんの?」

「寮は部活ごとに分かれてるから。サッカー部の寮は9時って聞くけど」

「ふぅん。私立って大変なのな。想像できねぇ」

「結人は公立なんだよね?」

「あぁ。サッカーやりたかったから」

「分かりやすい理由だね」

「俺、単純だからさ。頭も悪いし?」

おどけて言ったら、の口元が微笑んだ。それだけで天にも昇りそうに嬉しくて、つられて頬の筋肉が緩む。

「今度、いつ遊べる? 練習ない日だったらいつでもいいぜ?」

ふと、の表情が少しだけ迷いを見せた。何か間違った事を聞いてしまったのだろうか。答えを待っている間にはみるみる俯いてしまう。思わずいつもそうしているように、の顔を覗き込んだ。

「どうした?」

は今日待ち合わせた時に見せた顔と同じ顔をした。驚いていた。何を驚かれたのか分からない。が何を考えているのか分からなかった。隣にいるのに、全然手が届かない所にが離れてしまったような気がした。

なんだろうこれは。天に昇った気持ちが急降下する。の唇が動いただけでどぎまぎした。

「……ごめん。結人」

また、謝られた。意味が分からなかった。

「……何謝ってんの? 、何も悪いことしてないじゃん」

はふるふると首を横に振る。

「ちょっと、最近嫌なことがたくさんあって……。今日結人を誘ったのは、気を紛らわせたかったっていうのもあったんだけど……」

「うん。まぁ、そういう時もあるもんじゃないの?」

「ううん。それだけじゃ、ないんだ……」

「じゃ、何?」

はまた黙って、それから口を開かなかった。

何だか問いただす気にはなれなくて、の横顔から目を逸らした。が話したがらないなら、何か言ったら傷つけてしまいそうで怖かった。
今までにはいつも気楽に声を掛けてきたけれど、どうしてそんなことができていたのか、自分が信じられない。はこんなにも繊細で、弱々しい女の子なのに。どうしてこんなに強引に接してこれたんだろう。

はすぐ隣にいるのに、さっきまで繋いでいた手がやけに遠かった。



20090204