08





「鳴海。ちゃんにあーゆーこと言うの止めろよな」

ピッチの隅で藤代に耳打ちされた鳴海は、不思議そうに問い返す。

「なんで? 俺はトーゼンのことをしただけじゃん?」

「誰にでもナンパすんのかよ」

「人聞き悪いこと言うなよ。かわいい子じゃん。マネージャーがいるなんて、贅沢だねぇ。東京選抜ってのは」

屈伸をして体をほぐしながら言う鳴海はとても楽しげだ。けれど藤代はそうもいかない。

「それは俺も思うけどさ。なんか、わけありっぽいんだよね。ちゃんって」

「なんだよそれ?」

藤代はまことしやかに流れている噂を真に受けている。そのためにを見る藤代の目はいつもどこか不安げだった。は今日も左手首にリストバンドをしているし、ひとつひとつの動作が左手をかばっているようにも見える。

「藤代? はっきり言えよ」

もったいぶる藤代を、鳴海は急かした。藤代は周囲に人がいないことを確かめて声を落とす。そういう雰囲気作りがわざとらしく、鳴海も耳を貸した。

「左手首に、ためらい傷あるんだって」

「はぁ? なんだそれ?」

「噂になってんだけどさ。リストバンドの下に包帯巻いてるんだよ」

「うわ。なにそれ。なんでそれがマネージャー?」

「だからそれが分かんないんだって」

答えの見つからない問答を繰り返すしかなくなってしまった二人は、その後コーチに一喝された。



午前中は雑務に追われ、昼の休憩の頃にははへとへとになっていた。天気予報によれば昨日よりも気温が高いらしく、屋外での労働は想像以上に厳しい。病み上がりの体では尚更だ。

は昼食をとった後、涼しいロビーのソファで一人横になっていた。玲は午後の練習の打ち合わせをしている。もそれに参加するべきであったのかも知れないが、玲に少し休めと言われて会議室を追い出されてしまった。事実、体調も優れないからありがたいことではあった。

リストカットの件が噂になっていることは、も重々承知している。そのことについて言い訳や説明をする気は毛頭ない。
けれど、合宿所のあちこちで囁かれる噂話や、興味深そうな視線に堪えるのは精神的に辛い。元々学校の中でも目立つ事はしない質だし、周りが男子だらけという特異な環境も居心地が悪い。

ひとまず明日まで堪えればいいけれど、体が持つだろうか。自分の体の状態が分からないほどは鈍くはなかった。

「……の、なんだっけ? 鳴海?」

「あぁ。今日遅れて来た奴な」

と、その時誰かの話し声が聞こえた。思わずそれに耳を澄ませてしまって、自分がソファに横になっていることを忘れてしまった。もしこの状態を誰かに見られたら大袈裟な意味に誤解されてしまうかも知れない。何しろ噂が噂だ。

「マネージャーナンパしたらしいぜ。藤代が言ってた」

「はははっ! なんだそりゃ」

おそらく、前者は桜庭で、後者は上原という人だ。練習風景をずっと見ていたから、メンバーの顔と名前はすっかり頭に入っている。この二人の声は特徴的でよく通るから覚えていた。

「ま、かわいいよな。あの子。さんだっけ?」

二人の位置からは見えないらしい。の存在に気付いていればこんな話題にならないはずだ。

「そうか? 俺はもっと健康的な子の方がいいな」

「あーまぁな。ためらい傷のせいなのかな」

「ていうか、その話って結局どうなんだよ? マジなのか?」

「さぁ? 噂だろ? 彼女何も言わないしさ」

二人の話し声が遠ざかり始めた。どうやらには気付かずに行ってしまうようだ。
は口元に手を当てて、必死に息をひそめた。

「言わないって事は、本当なのかもな」

「だとしたらキモチワリーな」

「桜庭ぁ……。その言い方は酷くないか?」

「だってさぁ。なんか、なぁ?」

「分かんねぇよ!」

そこから先の会話は聞き取れなかった。聞こうとも思わなかった。

は横になったまま動けず、ぼんやりと考えた。
噂が先行してあれこれと憶測を並べ立てられるのは構わない。言いたい人には言わせておけばいい。弁解しようという気もないのだから、仕方のないことだ。

ただ、虚しさが残るのはなぜだろうか。波間に取り残された貝殻みたいな気分になるのはなぜだろうか。は声を殺して一時泣いた。



午後のミニゲームの練習中、は体調を崩して倒れた。熱中症のための眩暈と脱水症状が原因で、すぐに救護室に運ばれた。
それはメンバーにそれぞれ不安や苛立ちや、選考に関係のない無駄な感情を芽生えさせるには十分な出来事だった。スタッフに抱えられて運ばれるを見送る目はさまざまで、興味なさげなもの、心配そうなもの、試合のリズムを崩されて不機嫌なもの、ひとりひとり、その表情は全く違う。
はその日、練習には戻らなかった。



20070302