03





驚いた。
左手に目を落として、リストバンドからはみ出していた包帯を中に押し込む。そのためのリストバンドなのに、人に見られてしまっては意味がない。
手首に切り傷があるだなんて、まず好印象であるはずはないから隠そうと、提案したのは玲だ。下手に目立っても仕方がないし、とも言っていた。
水野はちょっと驚いただけだったようだけれど、とっさについた嘘を疑っているようではなかった。

は、左手をぐっと抱きしめて、動悸を静めるために意識的に息を吐いた。指先が震えるのを押さえ込む。微かに感じた眩暈に堪えた。



技能テストは午前中に終了し、昼食の時間ともなると緊張の糸は緩む。清潔な白で統一された食堂は、うるさくない程度の喧噪で満ちていた。監督やコーチらは別室にいるらしく、そのため彼らの話題の的は一身に注目を集めているマネージャーに集中する。極端に知名度の高い連中が集まったテーブルもまた然りだ。

「どう思います? あのマネージャー」

藤代は隣の風祭のさらににんじんを移しながらそう言った。そこで手を止めたのは渋沢と水野だ。

「どうって、どういうことだ? 藤代」

「キャプテン話してたじゃないっすか。どんな感じの子でした?」

さも当然のように聞いてくる藤代に、渋沢は考え込む。

「どうといっても、普通の子だったぞ。運動はあまり得意そうではなかったが、繊細な感じで……」

「かわいい子ですよね。おとなしそうで、俺的には美術部とかそんな感じだな」

「そこまでは分からないがな。水野はどう思う?」

話を振られて、水野は食事の手を止めて考えた。一瞬感じた罪悪感はどうにも根拠のない感情だし抽象的で話すに話せない。だから確実に分かっていることだけ告げる。

「……何考えてるか分からないって言うか、ちょっと苦手かな」

「え、なんで? かわいいじゃん」

「そういう問題じゃないんじゃないだろ」

水野のつっこみに、藤代は不思議そうに首を傾げる。それを見て、藤代からもらい受けたにんじんを頬張りながら風祭が笑った。
水野はそれを眺めながらぼんやりと考える。左手のリストバンドのことに触れてからの表情が急変したのはなぜだろうか。リストバンドをしているのは怪我をしていることを知られたくないからなのだろうが、それを指摘しただけであんなに顔色を変えるほどの理由が分からない。

「どうかしたか? 水野」

「いえ。別に」

渋沢に問われたけれど、水野はさらりと流した。の事情は何も知らないのだから、適当な事は言えない。

「でもマネージャーさん。手首に包帯してましたよね。怪我してるのかな」

風祭に言葉に水野は一瞬息を詰まらせた。心の中を読まれたような気がしたのだ。渋沢と藤代は軽く目を見張って同時に風祭を見た。

「包帯?」

「どこにそんなもんしてたんだよ?」

「気づきませんでしたか? リストバンドの下にちらっと見えたんですけど……。水野君は気づいた?」

「……あぁ、まぁ」

水野は仕方なく肯定した。

「俺も見た」

ふいに口数の少なかった天城がぼそりと言って、その話題に信憑性が増した。それを聞いてか、ここへきてはじめて不破が口を開いく。

「ためらい傷か?」

内容が内容だけに全員がぴたりと手を止めた。ためらい傷。すなわちそれは、自殺をするために自ら付けた傷のこと。

「不破、変な言いがかりはよせ」

「そ、そうだよ。ただ怪我してるだけかもしれないんだから……」

渋沢と風祭が慌てて不破をたしなめる。天城は誰かが今の話を聞いていやしないかと周囲に目をやっていて、藤代はぽかんとしたままそれらのやりとりを見守っていた。

「憶測だけでそんなことを言うな、不破」

「マネージャーの言動を見ている限りそう思ういう仮定にはたどり着くだろう。自殺未遂を犯した人間は、傷の治療と精神の安定のためにほとんどの場合入院を強いられるはずだ。あの身長に対して目測体重は平均を大きく下回っている。入院が原因とすれば納得がいくだろう。第一、手首に誤って怪我など滅多にするものではないだろうし、マネージャーは右利きだから左手に傷があることにも合点がいく。それに何より包帯をリストバンドで隠していたからな。怪我のことを他人に知られたくない。つまり、自殺未遂を起こしたことなど人に知られたくない、ということだろう」

不破の淡々とした考察は妙に的を射ていて、一同は黙り込んでそれそれ気まずそうに視線を泳がせた。



天城が気を引き締めていたにもかかわらず、彼らの会話を耳に入れてしまった人物がいた。椎名をはじめとする、飛葉中出身の4人だ。

「……何考えてんだか」

椎名はため息をつきつつそう言った。それは不破に対する呆れだ。
黒川や畑らは少し顔色を悪くして視線を交わしている。

「なぁ、翼。どういうことだよあれ」

「何が?」

「マネージャーだよ。お前のはとこなんだろ? なんだよためらい傷って」

「知らないよ。はとこって言ったって会ったのは二年ぶりなんだから」

「……何でお前そんな落ち着いてんの?」

黒川が頬杖をついて椎名の顔をのぞき込んだ。確かに、椎名の態度はあまりにも冷静すぎた。冷淡といってしまってもいいかもしれない。兄弟のように育ったはとこのこんな噂話を聞いて、どうしてこんなに落ち着いていられるのだろうかと言いたげだった。

「別に落ち着いてる訳じゃないよ」

椎名の表情は微塵も変わらない。それ以上何も言わず、黙りこくっている椎名の視線はテーブルに落ちている。

「……あっそ」

黒川はそれ以上追求することを諦めて、何もなかったように食事に戻った。

一方で椎名は考える。 が以前と変わった理由は、あのリストバンドの下に隠れているということは間違いないようだ。それがためらい傷だとは思えないが、玲ならきっと何か知っているだろう。もしかしたら何か話してくれるかもしれない。 に何があったのかを、話してくれるかもしれない。



20070225 修正