![]() その朝、が目覚めると、隣で眠っているはずの野獣の姿はなく、広いベッドの上はがらんとしていました。は寝ぼけ眼で、少しだけ冷えた肩をさすりました。 いつもとは何かが違います。小鳥の鳴き声も、梢が風にそよぐ音もしません。静かすぎました。空気がざわざわとして落ち着かず、何か雑味が混ざったような匂いがします。 まだ朝食には早い時間でしたが、は起き上がって身支度を整えました。枕元に置いておいたナイフは、こっそりドレスの隠しポケットに忍ばせました。 食堂にはいつも通り朝食の用意がされていましたが、野獣の姿はありません。は席に着き、しばらく野獣が現れるのを待っていましたが、あまりの静けさに耐え切れず、席を立ちました。 城中を探しましたが、野獣は見つかりません。は、覚悟を決めて庭に出ました。大勢の人の気配がして、ざわざわと落ち着きません。この城に来てから自分以外の人の気配を感じるのは初めてのことでした。 「!」 そう声を上げて草むらから飛び出してきたのは、銀時と桂でした。 「銀さん! 桂くん!」 3人を取り囲むように、猟銃を担いだ猟師達が庭を駆け、城の中に入っていきます。それを横目で追いかけながら、はふたりに問いました。 「どうしてここにいるの?」 「決まってんだろ!? お前を助けに来たんだよ!」 「怪我はないか? 野獣に襲われはしなかったのか?」 銀時と桂がかわるがわるまくし立てましたが、は混乱して答えることができません。 はじめこそ、野獣に身を引き裂かれるのだろうと死を覚悟してこの城へやってきましたが、はいたって穏やかに野獣との暮らしを楽しんでいました。どうしてふたりが血相を変えてこんなことを言うのか、には分かりませんでした。 「落ち着いて、ふたりとも! 私は大丈夫よ!」 「本当だろうな!?」 「見てのとおりよ。一体これは何?」 「だから、お前を助けに来たと言っているだろう」 「けど、私が家を出てからもう随分経つのよ?」 「あれからずっとこの城を探してたんだ。けど、森に化かされてたどり着けなかったんだよ」 「じゃぁ、どうして今になって?」 「土砂崩れが起きたんだ。気づかなかったのか?」 は昨夜の地震を思い出しました。あれは、土砂が崩れたときに起きた揺れだったのです。野獣は様子を見に行ったきり城へ戻ってきてはいないようです。 そのとき、城の中から銃声が響きました。が振り返ると、猟師達が何か大声を上げながら城の中を踏み荒らしていました。 「あの人たちは一体何をしに来たの!?」 は銀時の胸ぐらに掴みかかりそうな勢いで言いました。その勢いに気圧された銀時の声を遮ったのは、沖田でした。 「野獣を狩りに来たんですよ」 沖田は猟銃を肩にひっかけ、ゆうゆうと言いました。 「沖田くん? あなたまでどうして?」 沖田は、が働くレストランの常連客でした。街の自警団に所属していた頃は、その仲間達とよく食事をしにきていて、猟師に転向したあとも顔を合わせれば世間話をすることもありました。 「俺はあの野獣を狩るために猟師になったようなもんでね。さんには感謝してますよ。さんがこの城に来てくれたおかげで、森の魔法が弱まったみたいですね」 はぴくりと頬をこわばらせ、言いました。 「……それは、どういう意味?」 「意味もなにも、さんがここに来なければ、こんな大掛かりな捜索はできませんでしたからね。人望の厚いさんのために、これだけの人が動いたってことですよ。森の魔法が弱まった理由は分かりませんけど、さんがきっかけだということは間違いないですよ」 はこっそり、ポケットに入れたナイフの感触を確かめました。 「野獣を狩ると言ったわね。それはどうして?」 「5年前の大嵐で行方不明になった、近藤さんと土方さんを探してるんです」 「それが彼と、何か関係があるっていうの?」 銀時と桂は顔を見合わせました。はまるで、野獣がひとりの人間であるかのように話します。それが不思議でなりません。 「あの野獣が森に現れたのは、あの嵐の後なんですよ。このことには、森の魔法が絡んでいると俺は見ています。野獣はどこです? 案内をしてもらえはしやせんか?」 は城を返り見ながら、野獣の姿を探すふりをして歩き始めました。野獣が狩られると知って、みすみす案内をしてやるわけにはいきません。 「今日は、朝から姿が見えないのよ」 森の魔法が沖田の仲間を襲ったことと、野獣の存在が関わっているというのなら、きっと、野獣が隠しているこの城の秘密と関わりのあることでしょう。敵を討とうとする沖田の気持ちも分からなくはありませんでしたが、そのために野獣が殺されてしまうと思うと、はぞっとしました。野獣がそんな極悪人(獣)だとは、にはとても思えなかったのです。 「庭を見てくるわ。3人は城で待っていて」 はそういうなり、返事も待たずに駆け出しました。迷路のように入り組んだ庭の薔薇園は、きっと3人を迷わせ、足止めしてくれることでしょう。野獣はきっと、城の裏にあるあの不思議な湖にいると、は根拠のない確信を持って走りました。 その予想通り、野獣は湖のほとりに座り込み、じっとその水面を見下ろしていました。その表情はどこかぐったりとして頼りなく、威厳に満ちた瞳の光は見る影もありません。 が近づくと、野獣は一度顔を上げましたが、すぐに目をそらしてしまいました。 「狩人達が城に乗り込んできたわ。気づいていた?」 は野獣の耳元にしゃがみこんで聞きました。 「あなたを狩ると言っていたわ」 「そうだろうな」 「分かっているのならどうして逃げないの?」 野獣は耳をぴたりと寝かせ、けだるそうにひげを揺らし、何も答えません。は苛立って、口調を強めました。 「森の魔法と、この城と、あなたと、何か関係があるの?」 「……どういう意味だ?」 「狩人のひとりが言っていたわ。5年前の大嵐の日以来、あなたは森に住み着くようになったって。彼は、その時行方不明になった仲間を探してるの。何か知っていることがあるなら教えて。でないとあなた、殺されてしまうかもしれないのよ?」 野獣は自嘲気味にため息をつきました。 「あいつに殺されるんなら、それが俺の最期にはふさわしいかもな」 「何を言っているの? そんなのだめよ」 「いろいろ事情があるんだよ」 「だったらその事情とやらを教えてちょうだい」 「お前には関係ねぇだろ」 「関係あるわよ!」 野獣は首を巡らせて、やっとの言葉に耳を傾けました。は、言葉が喉に引っかかりそうになるのをこらえ、なんとか言いました。 「私もあの日、家族を亡くしてるのよ」 吉田が亡くなった5年前のあの日、はひとりで泣きました。桂も、銀時も、高杉も、家族はみんなひとりきりで泣きました。だれも、お互いの悲しみを分け合おうとはしませんでした。吉田は家族一人ひとりにとってそれぞれに特別で、それは家族全員で共感しあえるものとは限りませんでした。 「松陽先生が死んだ原因が、森の魔法やあなたに関係してるんなら、私にだって関係あるわよ」 沖田が仲間の敵を打とうとする気持ちは、には痛いほどわかります。それでも、は野獣にみすみす殺されてほしくはありませんでした。この城で野獣と過ごした日々は、ただただ楽しく喜びに満ち溢れていました。その日々は全て、この城で一緒に生活をし、食事をし、同じベッドで眠る野獣がいたからこそでした。にはどうしても、野獣が人に撃ち殺されてもいいような存在だとはとても思われませんでした。 「あなたが話をしたくないならそれでもいい。でも、あなたには死んで欲しくないの。だから、逃げて」 野獣はじっとを見つめ、口を開きかけましたが、鼻をぴくりと動かすと、騒々しく立ち上がりました。 「どうしたの?」 「……火の匂いがする」 には分かりませんでしたが、人の何倍もの嗅覚を持つ野獣の鼻にその焦げ付くような匂いが届いているようです。野獣の目線の先を追うと、確かに白い煙が上がっているのが見えます。野獣はたてがみを逆立て、喉を鳴らすように言いました。 「様子を見てくる。お前はここで待ってろ」 「私も一緒に行くわ」 「何があるか分からねぇ。いいから待ってろ」 は思わず、今にも駆け出して行きそうな野獣の首に腕を回して抱きつきました。 「何があるか分からないんならなおさら行くわ」 「……お前なぁ」 野獣は呆れた声でそう言い、の腕を振りほどこうとしました。 「聞き分けろよ」 「いや」 は野獣を抱きしめる腕に力を込めました。少しでも腕の力を弱めれば、それを振り切って野獣が駆け出してしまいそうでした。 野獣の耳元に唇を押し付けて、は泣きそうな声で言いました。 「大事な人が知らない場所で死んでしまうかもしれないなんて、私もう嫌なのよ」 5年前のあの日も、きっとこうすれば良かったのだと、は思いました。川のそばになんかいかないで、一緒に家にいてと、先生にいえば良かったのです。いくら後悔しても吉田は戻っては来ませんが、今目の前にいる野獣に同じことはしたくありませんでした。 野獣はの体に頬をすり寄せると、猫のように喉を鳴らしました。 「……お前に、謝らなきゃならないことがある」 「何?」 「戻ってきたら話す。絶対に死なねぇで戻ってくるから。今は行かせてくれ」 「嫌だって言ってるでしょ」 「あの火が森に広がったらここだって危ねぇんだ。なんとかしなきゃならねぇだろ」 「それはそうだけど……」 「絶対に、戻ってくる。お前の知らねぇ場所で死んだりしねぇよ。心配すんな」 がしぶしぶと腕の力を緩めると、野獣はざらざらする舌での頬を舐めました。は間近で覗き込んだ野獣の瞳が、穏やかに陰るのを見て、嫌な予感がさっと胸をかすめるのを感じました。やっぱり、この手を離してはいけないのではないか、そう思った瞬間でした。 銃声が響いたのと同時に、野獣が即頭部を打たれたようによろめき、そのまま湖の中に倒れ込みました。何が起こったのか理解する間もなく、は野獣を追って自ら湖の中に飛び込みました。 「こんなことをして、後でどうなっても知らんぞ?」 坂本は渋い顔をして、隣に立っている高杉の横顔を盗み見ました。森のあちこちで火の手が上がるのを眺めていた高杉は、楽しそうににやにやと笑っていました。 「これだけの火薬を売った張本人がよく言うぜ」 「わしは客は選ばんのじゃ」 坂本は遠くを見るように片手を額にあて、森に炎が広がっていく様子をまじまじと眺めました。 「それにしても、森の魔法を暴くために森そのものに火を放つなんて、よく考えついたもんじゃ」 「地道に森を嗅ぎ回るのにも飽きてきたところだったんだ。それに、の命がかかっている以上、もたもたしてられねぇだろ」 「そりゃそうかもしれんが、いささか乱暴な気もするがな」 「それが俺のやり方なんだよ」 そう言って、高杉は踵を返しました。今頃、仲間達が森のあちこちに散らばって火を放っているはずです。はきっと、城へ向かった銀時と桂が助け出すでしょう。高杉にとって、吉田の敵を打つということが最優先事項でした。森の魔法はほどなくして全て灰と化すでしょう。 その時、高杉の頬に水滴がぱたりと落ちました。空を見上げると、黒い雲が森の向こうから広がってきているのが見えました。ついさっきまで青空が見えていたというのに、どうしたことでしょう。 空はみるみる夜のように暗くなり、大粒の雨が降りだしました。 シャンパンのように泡立つ湖を見下ろして、銀時、桂、沖田は呆然と立ち尽くしていました。沖田が撃った弾は確かに野獣に命中しましたが、野獣の体は湖に沈み、それを追って飛び込んだの体も浮き上がってきません。森のあちこちで燃え盛っていた炎が、急な雨に鎮火されてぶすぶすと燻っている嫌な音と匂いがしました。 「……まで、俺たちは失うのか?」 桂がぼそりと呟いた言葉は、雨に流されて消えました。 20150413 |