ジンジャークッキー 3



「俺、思い出したんだけどさぁ。」

意気揚々とそう言ったのは秋丸だ。

弁当と購買で買ってきた惣菜パンを机の上に並べた昼休み、朝も放課後も顔を突き合わせているというのに、なぜ昼休みまで一緒にいなければならないのか。

昨日のことがあったので、元希は秋丸の話を真剣に聞く気なんか毛頭なかった。けれど秋丸の顔つきは思いがけず真剣で、何か重大な発見でもしたいみたいにきりりとしている。

「何を?」

それが気になったので問い返したら、

さんのことだよ!」

と、半分予想通りの答えが返ってきた。の話、が半分。秋丸がの何を思い出すのか、が半分だ。

「だから、あいつが何?」

「同中だったクラスの女子から聞いて思い出したんだけどさ、あの時の子だろ? さんって。」

秋丸の言わんとすることが全く理解できなくて、元希は複雑に眉根を寄せる。

「ほら、中学の時、お前クラスの奴と大喧嘩して、生徒指導室行きになったこと、あっただろ?」

野球部の監督にオーバーユースさせられたせいで半月板を損傷して、それきり見向きもされなくなった、苦い記憶。もう野球なんかやめてしまおうと思って、けれどそれができなくて悩んで、苛立ちのやりどころを見失って腐っていた、本当なら思い出したくもない記憶。

秋丸は明るい調子で話してくれるけれど、元希に影を落としてぐっと息を詰まらせた。

「……まぁ、あの頃はよくやったな。」

「覚えてないのかよ!?」

秋丸は驚愕して、口からご飯の粒を飛ばす。元希は「きったねぇな!」と罵って、がたんと椅子を鳴らして後ずさった。けれど秋丸は勢いを落とさず前のめりになる。

「あん時、お前教室中暴れまわってさ、机とか椅子とかひっくり返しまくっただろ? その時クラスの奴が何人か巻き添え食ったじゃん?」

そこまで言われて、やっと元希も思い出した。

「そん時、倒れた机にぶつかって怪我した女子がいたのは、覚えてるだろ?」

「……まぁ、な。」

さんだったんだよ、それ。」

秋丸は淡々と続ける。

は元希と同じクラスではなかったけれど、その時はたまたま友人に会いに来ていた。次の授業で使う教科書を借りに来ていたらしい。たまたま元希が殴りつけようとした相手の近くにいて、たまたま倒れた机にぶつかって転んで、足に大きな痣を作った。は周囲からひどく同情されて、元希は女子に怪我をさせた不良と認識されて、クラスの中からも孤立した。

事件の全容はそんなところだ。けれど問題は、その事実を元希がすっかり忘れ去っていたことにある。

「榛名? 聞いてるか?」

秋丸が不安そうに言う。

元希は箸を咥えたまま、瞬きもせずに固まった。



***



「この間、元希君が来てくれたんだって?」

焼きたてのクッキーを口に放り込みながら言う母を見て、は「つまみ食いするな」という言葉を飲み込んだ。実の母親に対して、母親のような口を利く気にはとてもじゃないけれど、なれない。

「誰に聞いたの?」

「榛名さんよー。今朝がたお礼に行ったら教えてくれたの。」

何で教えてくれないのよー、と、母は子どものようにぼやいた。

オーブンの中できつね色に焼き上がるクッキーの様子を見ながら、はその背中で母の話を聞いていた。

元希が家に来てくれたことを伝えなかったのは、の中に後ろめたい気持ちがあったからだ。何か特別なことがあったわけではない。ただ、戸締りとガスの元栓を確かめてくれただけ。けれど、2人で過ごしたほんの少しの時間は、にとって特別な時間だった。例え元希のことをよく知る母にも、とてももったいなくて伝えられない時間だった。

「これは、榛名さんへお礼?」

クッキーを噛み砕きながら母が言う。

「そうだよ。」

「榛名さんはもっと甘いのが好きだと思うよ?」

「今チェリーが乗ってるミルククッキー焼いているの。お礼はこっち。」

「あらー、じゃぁこっちのナッツのクッキーは私が貰っていいの?」

「それはお父さんの。お母さんのはチョコチップでしょ?」

「じゃぁ元希君のは?」

聞かれて、言葉に詰まってしまう。それはにとって今一番の悩みどころだった。

「……いま、かんがえちゅう。」

「あら、元希君の好み知らないんだ?」

「お母さんこそ知ってんの?」

「知ってるわけないじゃない、お母さんに聞かないで。」

「あんまり甘いもの好きそうじゃないよね、やっぱクッキーは止めとこうかな。」

「ま、野球少年なんだし、それが無難なんじゃない。」

無責任なことをだらだらしゃべりながら、無責任な母はぱくぱくとクッキーを消費している。父のために焼いたクッキーはほとんど残らなさそうだ。まぁ、もともと甘いものは得意ではない父だから許してくれるだろうけれど、そろそろ止めなければならない。後で体重が増えたと責められるのは、結局なのだ。

「元希君と久しぶりにしゃべったんでしょ? 何しゃべったの?」

「別に、大したことは何も。」

「えー、教えてよー。減るもんじゃないんだし。」

「うーん、何だっけかなぁ。縮んだな、とか言われたかな?」

「で?」

「元希がおっきくなったんでしょーって言っといた。」

「それだけ?」

今日の母は妙にしつこくて、は居心地悪くて仕方がなかった。

元希も年頃の男の子だけれど、子どもの頃からよく知る元希をそんな風に疑ってほしくなかった。そもそも放任主義を貫いて育てた自分の娘をどうして信用できないんだろう。ほんの少しだけ腹が立つ。あくまでも、ほんの少しだけ。

「だから、大したこと話してないんだってば。」

が気にしてないんならいいんだけど。」

「気にするって、何を?」

「だから、中学の時にさ。」

「中学?」

「……あんた、もしかして覚えてないの?」

突然話の筋がずれたような気がして、は首を傾げた。母は何か言いにくいことでもあるのか、クッキーを口に詰めこんで間を持たせようとする。は母の喉にクッキーが落ちるのを確認してから、もう一度聞いた。

「何の話?」

さ、昔元希君のせいで怪我したでしょ?」

「そんなの子どもの頃に何度も……。」

「そういうんじゃなくってさ、中学の時だって。」

本当に覚えてないの? と、母は信じられないという顔でぽかんと口を開ける。そこまで言われてしまうとさすがに気になったので、目を閉じて記憶を手繰った。

中学の時は、元希と同じクラスになったことは一度もなくて、野球部や、その後移ったシニアのチームでもずっと忙しそうにしていた元希とまともに顔を合わせるような機会は一度もなかった。元希のせいで怪我をした? そんなことがあっただろうか?

記憶は、まるで零れ落ちるように蘇った。

「……あぁ、あれか。」

そういえば中学の時、隣のクラスの友人に教科書を借りに行って、男子の喧嘩に巻き込まれたことがあった。確か、その男子の1人が元希だったのだ。

「呆れた子。忘れてたの?」

母は大袈裟にため息を吐く。それがあまりに嫌味な仕草だったので、はむっとした。何もそんな風に言わなくったっていいじゃない。

別にすっかり忘れ去っていた訳じゃない。

怪我は倒れた机にぶつかってしまったせいでできたものだったけれど、その後の校内の騒ぎといったら尋常ではなかった。はすぐに保健室に連れて行かれてしまったので、それは後から人づてに聞いたことだったけれど、元希はクラス中、学校中から非難の視線を浴びて、停学は免れたものの、その後のクラスメイトからの扱いはそれは酷いものであったらしい。

けれどそれは、元希ももあずかり知らない場所で起きていたことで、少なくともにとってはどうでもいいことだったし、興味もなかった。

元希が野球部の監督のせいで膝を故障して、2ヶ月掛けて治してリハビリをして、そうやって努力していることは知っていたから、他人が何を言おうとどうでもよかった。

その時のは、まるで台風の目の中にいるようだった。

クラスメイトや先生やPTAが凄まじい風に巻かれて、周りが勝手に騒ぎ立てて、噂や疑いに踊らされて振り回される。はそれを、他人事のように感じながら、無風で安全な凪いだ青空の下で眺めていた。

きっと元希もそんな場所にいるんだろうなと、漠然と思っていた。元希だって、考えようによっては被害者なのだ。

「……だって、あれは元希のせいじゃないもの。」

当たり障りのない言葉を選ぼうとして、そんな風にしか言えなかった。

母は「なんて心の広い子なんだろうね、あんたは。」と、大して感心している風でもなく言って、またクッキーを1枚食べた。

――元希には何をプレゼントしたら、喜んでくれるかな。

焼きあがったばかりのチョコチップクッキーを味見しながら、は元希のことばかり思った。



20110328