ジンジャークッキー 2



グラウンドに到着するなり、

「涼音――!!」

と、加奈先輩は大手を振って叫んだ。

野球部は練習が終わってトンボを引っ張って歩いたり備品を担いだりして、グラウンドの向こうに散っている。その内のほとんどが大声に振り向いて、なんだなんだとざわついた。

「あれ、加奈? どした?」

グラウンドの隅から駆け寄ってきた宮下涼音先輩は(そういう名前らしい)、ショートヘアが似合う可愛らしい人で、Tシャツに短パンで汗だくだった。まさに運動部のマネージャーといった感じ。

「お疲れー。今大丈夫?」

「うん、ちょうど終わったとこ。」

宮下先輩は加奈先輩の後ろに並んで立っていた私達を一瞥すると、はっと目を見張った。もいい加減敏感になっているので、宮下先輩が何を言いたいのかはすぐ分かった。

「1年の落合君と、榛名君っている?」

「いるよ。呼んでこよっか?」

「うん、お願い。」

宮下先輩と加奈先輩の笑い顔が、それはもうわざとらしくて、噂は潔白だと何度も何度も、言ったつもりだったのだけれど、それをちっとも理解してくれないことがありありと分かった。そもそも、調理部3人の会話の中に榛名という名前は1度も出ていない。

少ししてやってきた落合君とやらは、顔いっぱいで笑いながら走りよってきて、彼女は鏡に映したみたいにそっくりな顔で笑った。2人があんまりきらきらしているから、そばにいるのも気が引けてしまうくらいだった。

加奈先輩はいつの間にか宮下先輩と遠くへ行ってしまっていて、に聞こえないようにこそこそしゃべっている。

――元希に用なんか、ないんですけど。

残されたは、さて、どうしたものかと悩んだ。

その手には綺麗にラッピングされた綺麗な形のカップケーキがある。このカップケーキを元希に贈るとなると、きっとまた格好の噂の的になってしまうだろう。けれどもう元希は呼び出されてしまったし、呼び出しておいてカップケーキはあげないなんて、そんなおかしな話はない。

元希には手作りのバレンタインチョコレートをプレゼントしたことがあるし、家族ぐるみで食事をご馳走し合った思い出もある。(その時、はデザートのレアチーズケーキを作って絶賛された。)料理は唯一の趣味で、腕に自信もあった。このカップケーキだってそうだ。そんなだから、元希に手作りのお菓子をプレゼントすることに照れも戸惑いも抵抗もなかったけれど、それとはまた別に複雑な気持ちがある。

あの夏の夜から、ずっとこの重苦しい荷物を引きずったままだ。

元希はしばらくして、部員達の冷かしを背負いながらやってきた。制服に着替えて時間を引き延ばそうとしていたようで、ネクタイまでしっかり締めていた。

「……何だよ?」

複雑な顔つきだった。元希が考えていることも、と同じなのかもしれない。その顔を見たら居たたまれなくなって、はカップケーキの包みを背中に隠した。

「ごめん、先輩にそそのかされただけなの。本当の目的はあっち。」

言って、落合君と彼女を指差す。元希はそれを一瞥して、納得したように「あぁ」と唸った。

は黙り込む。目線がちょうど元希の胸の高さにあって、手持ち無沙汰にネクタイの皺をじっと眺めた。何を言っても墓穴を掘ってしまいそうで、うまく言葉が出ない。

元希は頭を掻いて、首の後を掻いて、忙しなく視線を動かし、長々とため息を吐く。その長いような短いような沈黙の後、零れた言葉は存外優しく、の耳に届いた。

「……もう帰れんの?」

「……何が?」

「お前が、もう、家に帰れんのかって聞いてんだよ。」

「あぁ、うん。荷物持ってきてる。」

「じゃぁちょっと待ってろ。」

元希はそう言うと、足早に踵を返した。部室から引き返してくると、大きな鞄を肩にかけていた。

後からまた冷かしの声がついてきて、元希はそれを振りきるように大きな声で怒鳴った。

「何?」

「何じゃねぇよ、行くぞ。」

「どこに?」

「帰るんだろ? 送ってくってつってんだよ。」

しびれを切らした元希は、声を荒げて先に行ってしまう。その道すがら、宮下先輩がにやにや笑いながら何か言って、元希はぼっと燃えるように顔を赤くした。

また、あの夏の夜のように置いていかれてしまうかもしれないと思ったけれど、今日は何度も立ち止まって、が隣に並ぶのを待っていてくれた。けれどやっぱり会話は弾まず、あの夏の夜と同じように静かな帰り道だった。

には、元希がこんなに居心地の悪い時間に堪えてまで、帰り道を一緒にしてくれる意味が分からない。家に帰り着いてからも元希のことを考えて考えて、夜も眠れず、考えすぎてお腹がすいて、結局、カップケーキはの胃に収まったのだった。



***



元希の朝は早い。朝の6時半から野球部の朝練があるので、6時には家を出る。日が暮れるまで練習をしてへとへとになって、家に帰れば食事をしてさっさと寝てしまう。そんな生活が中学生の頃からずっと続いていたから、そこにが介入してくる隙がないのは、仕方のないことだと思っていた。はほとんど野球に興味がない。

中学に上がれば、子どもの頃のように一緒にはいられないし、大人になればなるほどその溝は開いて、遠ざかっていくしか道はないのだと漠然と思っていた。そしてそれは予想通りになって、とは中学に上がってからほとんど顔を合わせなくなった。

そう思ってその通りになってきたから、今になって、なぜこんなことになってしまったのか、全く分からず、不思議で不思議でしょうがなかった。



「あれ、彼女?」

と、無遠慮に言ったのは秋丸だった。朝練が終わって狭い部室で着替えをしていた時、それなりに油断していたタイミングでもあったので、元希は派手に咳き込んだ。

「何? 風邪?」

「ちげーよ。ほっとけ。」

「大会近いんだから気をつけろよー。で、彼女なの?」

「うるせぇよ。」

野太く沈んだ声で訴える元希に、秋丸は心底嬉しそうに笑った。

「さっき登校してくるの見たよ。昨日一緒に帰ってた子だろ? 確かD組だっけ?」

可愛い子じゃん、教えろよな、水臭い。秋丸は好き勝手言いたいことを並べ立てて、元希の嫌そうな顔は見て見ぬふりだ。口を挟む余地もない。

仕方がないので、元希は脱いだばかりの練習着を秋丸に向かって投げつけた。秋丸は土と汗に汚れたそれの下でもがいて、ベルトのバックルが顔に激突した痛みに、声音を強くした。

「何にすんだよ! 別に変なこと聞いてないだろ?」

「聞いてるだろーが!?」

「彼女いるんなら教えてくれたってよかったじゃんか。」

「だから、彼女じゃねぇって!」

「じゃぁ何なんだよ?」

秋丸が予想以上に食いついてくるので、元希はもう面倒臭くてしかたがなかった。なぜ秋丸にわざわざの話をしてやらなくてはならないのか。そもそも、子どもの頃からの腐れ縁というだけで、何か特別なことがあるわけでもないのに。

けれど同時に、特別なことがないならば、なぜのことをひた隠しにしようとしているのかと、自問自答してしまう自分もいた。わざわざ説明するのは面倒だ。けれど、話さないまま誤解され続けるのも面倒だ。

どちらの面倒を選ぶか悩んだ末、元希はゆっくりと重い口を開いた。

「……家が近所で、昔から知ってんだよ。」

「あぁ、なんだ。幼馴染みって奴?」

そういう秋丸は、あからさまに残念そうに肩を落とす。がっかりされる謂れはないので、元希は腹が立って乱暴に練習着を取り返した。ベルトが暴れて、今度は秋丸の二の腕をぱちんと打った。

「わっ! 痛ぇな、何すんだよ!」

「お前が余計な口きいてっからだろ。」

着替えを済ませて部室を出ると、まだまだ勢いを落とさない9月の太陽が照りつける中、遅刻寸前の生徒が何人か校門を駆け込んでくるのが見えた。

2人も駆け足になりながら昇降口をくぐる。

「幼馴染かぁ、いいなぁ。南ちゃんじゃん。」

「みなみ? 誰?」

「ほら、タッチの。」

あんまり秋丸がしつこいので、元希は振り向きざまに鞄を振り回して秋丸の背中を強打した。秋丸は「ぎゃっ!」っと叫んで、うずくまって動かなくなった。



なぜ今更、こんなことになってしまったのだろう。と2人、夜道を歩いていたところを誰かに見られたらしいけれど、何年かぶりに会って話をしたほんの小さな偶然が、こんな事態を引き起こしてしまうなんて想像もしなかった。

とは長い間話もしていないし、顔を合わせてもいなかった。けれど母親や姉は元希が知らないところでとやり取りをしていたようで、家族の間で、それくらいのことは話題になった。の家は両親が共働きで、いつも帰りが遅くて、それを心配した元希の母親や姉が頻繁に様子を見に行っていたらしい。それを聞いて、あいつも苦労してるんだなと、遠い世界のことのように考えていた。

けれどあの夜、が1人っきりで夜道を歩いている姿を見た。

ワンピースにサンダルを突っかけた姿はなんだか危なっかしく頼りなくて見えて、こんな夜中に女1人で何をしているんだと、叫びだしたいような気持ちになった。コンビニにアイスを買いに来ただけだったようだけれど、そんなことはを心配しない理由にはならない。

の隣を歩いたら(実際に隣と言えるほど近くを歩けなかったけれど)、遠い思い出の場所へ消えてしまったが、自分のそばに戻ってきてくれたような、そんな気がした。子どもの頃みたいに、なんの気兼ねもなく隣に立つことを許されるような気がして、舞い上がっていた。

元希はあの日、元希自身思いがけないほど、嬉しくて仕方がなかったのだった。

けれどそれはそれとして、との仲を誤解されているこの状況と、元希の気持ちはまた別の問題だ。この面倒な事態はいつになったらフェードアウトしてくれるのか、元希は憂鬱な気持ちでため息をついた。



元気が家に帰ったのは夜の9時を回った頃だった。秋大会が近いので通常より練習時間を延長しているのだ。くたくたになりながらどうにか自転車をこいで家に帰りつくと、母親の理不尽な言葉が元希をさらに打ちのめした。

「帰ってきて早々悪いんだけどさ、後でちょっとちゃんの様子見てきてくれる?」

「……なんで?」

練習の疲れでぐったりしている元希は、そのままの気持ちでぐったり言った。家でも学校でも、だ。このタイミングを計ったような猛攻はいったいなんなのだろう。

さんに頼まれたのよ。今日急に出張決まっちゃっていないんだって。」

「お袋が行けばいいじゃん。」

「お母さん、これから父母会なのよー。」

「姉貴は?」

「バイト。」

「……面倒臭ぇな。」

聞こえないように呟いたつもりだったのに、母親にはしっかり聞こえていたらしい。

「何よその態度ー。ちゃん、今日はお家で1人なのよ? 心配じゃないの?」

母親はほとんど叱りつけるような調子で言う。

それは心配に決まっているけれど、それをそうだとはっきり告げるのは気恥ずかしくて、元希は麦茶を口に押し込んで黙り込んだ。

「何ならうちに泊まればって言ったんだけどねぇ。きっと元希に遠慮したのよ? 本当、奥ゆかしい子よねぇ。」

そんなことを言われてどう相槌を打てというのだろう。慌しく身支度をする母親は元希を一瞥もしないので、元希はこっそり視線をずらして、今度こそ母親に聞こえない音量で悪態をついた。

「一応お母さんも行きがてら覗いてくるけどさ、ご飯食べてからいいから、戸締りとか見てきてあげて。」

「だから何で俺が……。」

その呟きは完全に無視される。母親は無神経にも言い放ってけらけら笑った。

「あ、でも元希、最近ちゃんに会ってなかったっけ? 不審者扱いされないようにお母さんから言っておくからねー。」

洒落にならない冗談に、元希はさらにぐったりして嫌なため息を吐いた。





ピンポーン、と、ベルの後にしばらくの沈黙。ドアベルの横にカメラが付いているから、からこちらの姿は見えているだろう。怪しまれることはないはずだ、たぶん。母親からの言付けもあるだろうし。そう思っても不安が拭えないのが情けない。

『はい。』

「……あー、榛名、です。」

『はい、ちょっと待ってて。』

しばらく待っていると、部屋着にパーカーを羽織っただけのが玄関を開けてくれた。

「こんばんは。」

「平気?」

「うん、まぁ。」

は元希が驚くほど自然に家に招き入れてくれた。通されたリビングでは、テレビに賑やかなバラエティ番組が流れていて、それだけで何となく間が持つような気がした。

「テキトーに座ってて。」

言われるまま、ソファに腰を下ろす。記憶にある家のリビングとはどこか感じが違って、元希は少し戸惑った。カーテンやカーペットや、いくつかの家具は新調されたようだけれど、それだけでは説明のできない違和感がある。なんだろう、と少し考えて、思い至ったのは幾年かの月日だ。

最後にこの家を訪れてからどのくらいの時間が流れたんだろう。はっきりと思い出せなかった。

「はい。」

はグラス2つに麦茶を満たして持ってきた。

「あぁ、サンキュ。」

「なんか、わざわざ気使わせて悪いね。」

「いや、別にいいけど。」

は元希の隣に座って、控えめな音量で流れるテレビをぼんやりと眺めている。

隣に座るとその表情を窺うのは難しくて、元希はどうしたものかと悩んだ。悩んだわりには、言葉は無意識に、すんなりと口を付いて出たのが自分でも不思議だった。

「出張決まったのってそんな急だったの?」

「うん、まぁ。ないことじゃないんだけど、今日は夕方になって突然でね。前準備がなかったから慌しかった。」

「相変わらずおばさんもおじさんも忙しいなのな。」

「お仕事大好きだからね、仕方ないよ。」

「お袋が心配してたからさ、なんならうち来れば? お袋も姉貴も喜ぶし。」

「それはありがたいんだけど、ちょっとねぇ……。」

ふと、突然が言いよどんだ。

元希は母親の嫌味を思い出して内心どきりとした。

「きっと元希に遠慮したのよ。」もし本当にがそう思っているなら。そう考えると悪い気はしない。

「……何かあんの?」

「いや、別に。おばさんもお姉ちゃんも優しいし好きなんだけど、泊まりとなるとなかなか寝かせてくれないからさ。平日だと、ね。」

思いがけない答えに、元希はこっそり肩を落とした。ちょっと期待していた自分が馬鹿みたいだ。

の表情は淡々としている。きっと他意はないのだろう。

「……悪かったな、お袋も姉貴もあんなんで。」

「別に悪いなんて言ってないって。」

「てか、泊まりにきたこととかあんの?」

「最近はあんまり。中学まではたまにあったかな。」

「俺全然知らねぇんだけど、それいつの話だよ?」

「元希いっつも野球でいなかったじゃん。何、おばさんに聞いてなかった?」

「いや、聞いてねぇ。」

野球で離れてしまったはずのが、昔のように名前を呼んでくれたことが、思いがけず嬉しくて、元希は思わずにやりと笑ってしまう。それが恥ずかしくて口元に手を持っていったら、想像よりずっと頬が緩んでいて驚いた。

が隣に座っていてくれてよかった。こんな情けない顔は見られたくなくて、逆の方向に顔を逸らす。

「なんか、こういうの懐かしいね。」

そう言ったの声色があまりにしみじみと感慨深げで、元希はついにやにや笑いのまま振り返ってしまった。

はテレビ画面を眺めるともなしに眺めながら、口元に笑みを浮かべていた。

けれど元希の目に留まったのは、すぐ隣に座って見下ろすの薄く細くい肩だった。少し触ったら折れてしまいそうで、それは元希にとって思いがけない発見だった。

「……。」

「ん?」

呼ばれて、が振り返る。今日はじめてまともに視線が合ったと、元希はその時にやっと気付いた。の顔は、記憶にあるそれよりずっと大人っぽくて、元希は息を飲んだ。

「なんかお前、縮んだ?」

照れ隠しのように言った言葉で、は困ったような顔で笑った。

「元希がおっきくなったんでしょ?」

そんな当たり前を言葉にするのが無性に心地良くて、元希もつられて笑った。

昔のままというわけには行かないけれど、2人を隔てるものなんか何もなかった子どもの頃のような空気感が蘇ったようで、懐かしく嬉し時間が流れた。



20110327