ジンジャークッキー 1



ひどく蒸し暑い、夏の夜だった。

共働きの両親はいつも通り帰りが遅くて、いつも通り1人きりの時間をもてあます夜。冷房の効いた部屋を飛び出して、まるで蒸し風呂のような屋外に出てしまったのはなぜなのか、はほんの数分前の自分を恨んでいた。何となくアイスが食べたくなって、たまたま冷凍庫のスーパーカップのストックが切れていたからって、何も無理をしてコンビニまで足を向ける必要がどこにあるのだろう。

夜だというのに、昼間に熱せられたアスファルトがまだ冷えず、風のない淀んだ空気はじっとりと体にまとわりつくようだ。ノースリーブの簡単なワンピースと裸足のつま先にサンダルを引っ掛けただけの格好でも、この不快な暑さをごまかすには役不足だ。

とにかく、一刻も早くコンビニへ行って、自動ドアのすぐ側にあるアイスボックスの中から、一番に目に付いたものを買って、歩きながら食べて帰ろう。家に帰ったら、シャワーを浴びて扇風機の風に当たろう。

ひんやり冷たいアイスと、扇風機の爽やかな風を想像しながら、は住宅街の隅で煌々と照明を光らせているコンビニに足早に駆け込んだ。冷蔵庫の中に飛び込んだみたいに冷たい風がの肌を撫でた。

がほっと一息吐こうとしたその時、

「あ。」

思いがけず、気の抜けた声を出してしまった。

目が合う。

「あ。」

アイスボックスの隣、窓際の本棚で立ち読みをしていた青年の声が重なった。

――元希。

は驚きのあまり声が出ず、心の中で呟いた。

榛名元希。子どもの頃は毎日のように一緒に遊んでいた幼馴染。親同士も仲が良くて、一緒にキャンプに行ったり、海に行ったり、ことある毎に一緒にいた男友達。元希が野球を始めてからは、試合のたびに応援に行ったし、がお弁当を作ってあげたこともあった。

けれどいつからだったか、何の理由もなく疎遠になって、話をするどころか顔を合わせることもなくなった。学校は小中とも一緒だったけれどクラスが同じになることは一度もなかったし、わざわざ顔を合わせて話さなければならない用事も、成長するごとに少なくなった。

こんな風に偶然に鉢合わせることすら、今まで一度もなかったのに。けれどもは、奇跡的な再会を素直には喜べない。

目が合ってしまったけれど、これからどうしよう。

「……よぉ。」

搾り出すように言ったのは元希だ。

「……ども。」

はどうにか、苦し紛れに答えた。

目に付いたアイスを一番に選んぼうと思っていたのに、元希を妙に意識してしまって頭が上手く働かない。元希は野球雑誌を立ち読みしていたようで、大きな手のひらに重そうな雑誌が乗っていた。

もう悩むのも面倒になってしまったので、山積みになっているガリガリ君を1本取る。100円玉で会計を済ませて悩んだ挙句、無視する気にもなれなかったので、もう一度元希を見るとばちりと目が合った。立ち止まりかけて、迷って、思い切って自動ドアのベルを鳴らした。自動ドアのベルは一度で鳴り止まず、振り返ると、を追うように元希が後から着いてきた。きっとコンビニの店員は二人が待ち合わせをしていたように見えただろう。

「1人? おばさんは?」

元希はちらりと左右を見た。見た、というよりも、逸らしたような感じかもしれない。はその言葉の意味を図りかねて、首を傾げた。

「まだ帰ってないよ。なんで?」

予想外に自然な声が出たことに、自分で驚く。こんな風に元希と話をするのは久しぶりすぎて、何もかもが不自然に思えていた。ちゃんと、会話ができていることすら不思議だった。

野球部のロゴが入った大きな鞄を肩から提げている元希。記憶にあるよりもずっと大きな体と低い声、シャツの袖から覗く筋肉質な腕。元希は元希で、見間違えるはずもない。けれど、昔と全然違う元希。

はじめて会う人と話すみたいな緊張感と、胸苦しくなるような懐かしさとが一緒くたになって、訳が分からなかった。どうしたらいいのか分からなくて、元希から逃れるような気持ちでガリガリ君のパックを乱暴に開けた。

ばりりっと、耳障りな音。

「……家まで送る。」

元希はぶっきらぼうに、けれど当たり前のように言って、返事も待たずに足早に歩き出してしまった。

元希と並んで歩くなんて、一体何年ぶりだろう。いや、並ぶというには、元希は相当足が速くて、は小走りにならないと追いつけないくらいだった。元希はを振り返るでもないし、歩調を合わせてくれるでもない。文句の一つでも言えれば良いのに、にはそんな余裕もなかった。

そんな調子の、家までの道のり。本当なら10分もかからないはずなのに、町内をぐるりと遠回りをしたみたいに長い長い道のりだった。

得体の知れない緊張感と、懐かしさとが入り混じった、この夏の夜みたいな、重苦しい気持ち。

? どした?」

元希がやっと口を開いたのは、もうほとんど家の前まで着いてしまった時だった。

は何を聞かれたのか分からなかったので、何を答えるでもなく、どうにか元希に追い付く。無意識に口から零れたのは、嫌味だった。

「だって、歩くの早いんだもん。」

元希はを見下ろして、馬鹿みたいにぱちくりと瞬きをした。そんなこと、考えてもみなかったらしい。

「そっか、悪ぃ。」

きっと、元希もこんな風に話すのが久しぶりすぎて、2人の距離の取り方を忘れてしまったんだろう。だから足早に、目も合わせずにいるしかなかったのかもしれない。それはも同じだったので、「送ってくれてありがとう」と言うのが精一杯だった。元希もぶっきらぼうに「おぉ」と頷いた。

二人きりの気まずい時間が終わってほっとするのと同時に、は足元が軽くなるような感じがした。

嬉しかった。何年もの月日を隔ててこんなに距離ができてしまった今でも、元希が昔のように名前を呼んでくれたことが、まるでそれ自体が魔法の言葉のように、を嬉しくさせた。

それは何かの予感にも似て、この暑い夏の夜に溶けるように滲む。口元に笑みが上るのを堪えながら、はうきうきと家の中へ駆け込んだ。





の世界が様変わりしたのは、夏休みが明けた9月のことだった。

ってさ、榛名君と付き合ってんの?」

好奇心に輝いた目でそう言ったのは、と仲のいいクラスメートだ。仲がいいと言っても移動教室と昼食を一緒にする程度のものだったけれど、それでも「仲良し」と呼ばれるのが学校社会だ。男子と女子が二人で並んで歩いていたというだけで、そこに特別な意味を持たせてしまうのも、同じルールの内にある。

「ないよ。なんで?」

彼女の一言で大方の流れを想像できてしまったは、驚いたふりをして眼を丸くして見せた。

「2人が一緒に歩いてるとこ見たって人がいるんだって。確か同中だったんじゃなかったっけ?」

正しくは、生まれた時からの腐れ縁で、小学校からずっと一緒の幼馴染、だ。はそれを事細かに説明する気は毛頭なかったので、

「人違いじゃない?」

と、曖昧に笑ってごまかした。

彼女は、「なぁんだ、そう」と、いかにもつまらなさそうに言って、すぐさま別の噂話に話題を切り替えた。サッカー部主将の彼女がどうとか、そんな話。

真実を追求されなかったことはありがたいことではあった。は元希との関係を誰かに話したことはほとんどなかったし、小学校の同級生くらいまでさかのぼれば何人か事情を知っている人もいるだろうけれど、広い学区の隅々から生徒が集まる高校では、と榛名元希はただの他人だ。

別に、隠すほどのことではない。けれどの中にはどうしてもそれを隠し通したいと思う頑なな部分があって、自分の事ながら、それが不思議でしょうがなかった。夏休み、久しぶりに元希と話をしてから、ずっとそのことを考えていた。

「ねぇ、さん!」

と、大声で呼んだのは、ほとんど話をしたこともないクラスメイトの男子だった。

さんってさ、B組の榛名と仲いいの!?」

また元希の話だ。は立て続けにその名前を聞いただけで気分が悪くなって、つい眉をひそめてしまう。けれど彼は全身から好奇心をみなぎらせていて、ただそれだけの塊みたいだった。きっとデリカシーの欠片も持ち合わせていないのだろう。こういうタイプは苦手だ。

「何で?」

「噂で聞いた! 榛名ってさ足速ぇの? 今度の体育祭の対策練ってんだけどさ、あいつ1年の癖に部活対抗リレーのアンカーに入ってて!」

なるほど、そう言えば彼はバスケ部だったような気がする。部活対抗リレーは運動部にとって一大イベントらしいから、まぁ、そういうことだろう。

「新井! は榛名君とは付き合ってないって。」

「あ、そうなの? なんだ、あの噂デマ?」

「みたい。だから聞いたって無駄。」

「なぁんだ。悪かったな、さん。」

「いいえー。」

新井君(というらしい)は、あっさり謝って、くるりとバスケ部員の輪の中に戻っていった。をかばってくれた彼女は、

「結構広まってんね、噂。」

と言って、ため息を吐いた。ほんの少しは同情してくれているらしい。

「噂って、2人で歩いてたっていう、あれ?」

「そうそう。私もB組の子から聞いたんだけどさ、みんな本当こういう話好きだねぇ。」

それはあなただってそうでしょう、という言葉は飲み込む。

「榛名君ってそんなに人気あるの?」

噂が広まってしまったのは、榛名が有名人だからだ。はそんなふうに元希を見たことがなかったから口にしてもいまいちぴんと来なかったけれど、つまりそういうことだろう。

「あるんじゃない? 私は興味ないけど、顔かっこいいし、先輩差し置いてエースなんでしょ? まぁ、サッカー部には劣るんだろうけどねぇ。」

「なるほど。」

――元希って、人気あるんだ。

けれど、第三者の意見を聞いても、まだぴんと来なかった。あの元希がねぇ、と、まるで親のような気持ちでそう思ってしまう。

「あ、噂をすれば。」

彼女に言われて教室の外を見ると、移動教室なのか、教科書を抱えた集団がぞろぞろと波のように通り過ぎていくところだった。その中に噂の種、元希の顔が見えた。集団から頭一つ分飛び抜けていたので目立ってしょうがなく、その上、あからさまな態度で視線をそらしているから余計に目に付いた。

きっと、元希も同じような噂話に晒されて面倒な思いをしたのだろう。それは簡単に推測できることだったので、を驚かせたのはもっと別のことだった。あんなに分かりやすく避けられてしまっては、気付くなという方が無理だ。

――元希、私のクラス知ってるんだ。私は、新井君に言われるまで知らなかったのに。





開いた口に戸は立てられぬ、とはよく言ったのもので、クラスメイトはともかく、部活でも噂話が横行していたことには閉口してしまった。

ちゃんお願い! 野球部付き合ってくれない!?」

手のひらを打ち合わせて懇願する彼女は、器用にもその手に、綺麗にラッピングしたカップケーキを持っていた。はそれと同じ、けれど格段に見栄えがよくおいしそうなそれを、今まさに口にしようとしていたところだった。(は調理部に所属している。活動日は週に1回、木曜日。)

「私、野球部に知り合いいないんだけど……。」

「え、嘘!? 榛名君と付き合ってるんじゃないの!?」

「付き合ってないよ。」

はっきり告げると、彼女はあからさまにしゅんとなって肩を落としてしまう。そこまで落ち込ませてしまうようなことを言ったつもりはなかったので、は戸惑った。

「……野球部に用があるの?」

「落合君に今日カップケーキ作るから持って行くねって約束したんだけど、あ、落合君って、彼氏ね? でも野球部ってなんか怖いから1人じゃちょっと……!」

一息に事情を言ってのけて、彼女は顔を赤くする。言いたいこともそれに伴う複雑な胸のうちも理解できないことではない。だからといって、が指名されるいわれはないはずだ。元希との関係を説明していない以上、と元希は他人なのだ。

つまり、この子もあの噂を耳にしているということになる。謂れのない誤解はそもそも不快だけれど、それをこんな風に利用されるなんてそれこそまっぴらだった。

「ごめんね、役に立てなくて。」

は口ばかりで、そう嘯いたく。

「付き添いくらいしてあげなよ、。」

と唐突に、口を挟んできたのは、面倒なことに1つ上の先輩だった。

「え?」

「私、野球部のマネジ知ってるから一緒に行ってあげるし。」

「本当ですか!? 加奈先輩!?」

「いいよー、3人寄れば文殊の知恵って言うでしょー?」

なぜそこに自分がカウントされたのか、なぜ「文殊の知恵」が必要なのか、にはさっぱり分からなかった。

加奈先輩は、噂が本当なのか嘘なのか、自分の目で確かめようとしているのだろう。優しい言葉を並べる、その目元が笑っていない。

「決まりだね、?」

人の悪い笑みを浮かべて、加奈先輩は痛いくらいの力で肩を抱いた。

食べ損ねたカップケーキは有無を言わさずラッピングされてしまって、お預けを食った胃袋が空腹を訴えて鳴いた。



この強引さは、一体何なんだろう。

クラスメイトもそうだった。無理矢理にでも元希とくっつけようと、何か得体の知れない空気が蠢いているような感じがした。

その正体は他人の好奇心とか、尻尾のついた噂とか、火のないところに立った煙を煽る人とか、そんなさまざま嫌味な物達に、ほんの少しの偶然が混ざり合ったものだろうか。本当にそれだけ?



20110326