ジンジャークッキー 4



焼いたクッキーを2袋に分けて、プレゼント用に綺麗にラッピングする。1つはおばさん用のチェリー。もう1つは元希用のジンジャークッキー。

は綺麗に結んだリボンを見下ろしながら、本当にこんなプレゼントでよかったのか、今更悩んで落ち込んだ。こんなに悩む必要なんて、ないじゃない。元希にいらないと言われてしまったら、きっとおばさんが食べてくれるだろうし、元希よりもずっと優しく、美味しいって言ってくれるだろうし……。

そこまで考えてしまってから、は頭を振る。何事も、やってみなければ分からないじゃない、そう自分を奮い立たせて、榛名家のインターフォンを押した。

「あら、ちゃん! いらっしゃい!」

おばさんはいつも通りの快活な笑顔で、をぎゅっと抱きしめるように迎えてくれた。

「こんにちは。」

「今帰ったの? ずいぶん遅かったのねぇ。」

「帰ってきたのはちょっと前で、これ準備してたら遅くなっちゃったんです。」

背中に隠していたクッキーを差し出すと、おばさんはぱっと顔を輝かせて、まるで少女のように笑った。

「まぁ! 今日は何作ってくれたの?」

「クッキーです。チェリーが乗ったやつ。おばさん好きでしょ?」

ちゃんが作ったお菓子大好き! ありがとうね!」

上がってってと、リビングに通されて、おばさんはキッチンでお茶の準備をし始めた。オレンジジュースでいい? と聞かれて、はい、と答える。

榛名家は深い色の木彫の家具が揃ったしっとりと落ち着いた家で、おばさんの人柄が滲み出ているような暖かい空気が漂っている。ここで元希が育ったのだと思うと感慨深いけれど、よく考えれば、だって子どもの頃はよくこの家で過ごしていた。両親が仕事に夢中だったのはその頃からで、よくおばさんに面倒を見てもらっていた。

懐かしい雰囲気にぼんやり浸っていたら、ふいに玄関の扉が開く音がした。その後に、乱暴な声。

「あ、帰ってきた。」

おばさんはさっきまでとは打って変わって人の悪そうににやりと笑うと、「おかえりー!」と大声で叫んだ。

元希はそれに答えたのか答えなかったのか、顔も見せずに階段を上がって自分の部屋へ行ってしまった。

おばさんの話では、すぐにシャワーを浴びに降りてきて、そのまま部屋にUターンして夕食までリビングには降りてこないのが元希の日課らしい。健全な高校生男子ならこんなものだろうか、ただいまの挨拶すらしないのはちょっとどうかと、は思う。

「愛想ないでしょ? あの子。」

の心を読んだように、おばさんが言う。が振り向くと、おばさんは何か素敵なことを思いついたといわんばかりに、ウィンクをして見せた。

――おもしろがってるなぁ、おばさん。

は他人事のように思って、苦笑いを返した。





元希がシャワーを浴びて部屋に戻ったのを物音で確認してから、は足音を忍ばせて階段を上がる。ジンジャークッキーとコーラのボトル、タンブラーを2つ、盆に乗せて、おばさんに背中を押されるようにして。

両手がふさがっていたので、

「元希ー。」

と呼ぶと、しばらくの沈黙の後、返答もないままドアが開いた。

元希はが想像していた通り、宇宙人見るような顔をして青ざめた。

「ども。」

「……何してんの?」

「この間のお礼をしにきたの。おばさんがこれ持ってけって。」

元希は盆の上のクッキーを見下ろして、低い声で「あのババァ」と呟いた。

だんだん腕が疲れてきたのに、このままでは部屋に入れてもらえなさそうだったので、「入ってもいい?」と聞く。元希はすこし逡巡した後、体を引いて迎え入れてくれた。

ベッドの上に脱ぎっぱなしの制服が散らかっていて、部屋の隅にある鞄からはグローブが飛び出している。漫画や野球雑誌が山積みになった机、あまり掃除はしていないのか、少し埃っぽい匂いがした。

「床に置いていい?」

「おぉ。」

どうにか開いたスペースを見つけて、盆を置いて床に腰を下ろす。元希は「なんで急に来んだよ」とかなんとか、小声でぼやきながら、山積みの洗濯物を蹴飛ばして片付けた(つもりだろう、たぶん)。

「なんの用?」

元希は言って、ベッドの縁に座った。

「この間のお礼。」

「礼?」

「戸締りとガス、見にきてくれたじゃん。」

「あぁ、あれ。」

がコーラのボトルを開けて、しゅわしゅわとグラスに注ぎ分けている間に、元希はいくつかクッキーをつまむ。片目でその様子を窺うけれど、機嫌悪そうな表情はぴくりとも動かない。

感想なんか期待するだけ無駄とは思っていたけれど、自信があるだけに悔しかった。はコーラをぐびりと飲んで、クッキーを口に放り込む。

「随分早いんだね。」

悔しさが声に滲んで、無意識に低い声が出てしまったような気がした。

「何が?」

「帰り。部活は?」

「今日はミーティングだけだったんだよ。」

「そんな日あるんだ。」

「週1、な。」

「ふぅん。」

なぜか、妙な雰囲気だった。2人ともあまり機嫌がよくない。

元希がを訪ねてきてくれた時は、もっと穏やかに懐かしい空気感が満ちて、くすぐったくはあったけれど居心地の悪さなんて感じなかったのに。

急に部屋に押しかけられた元希が怒るのは無理のないことだし、予想していたことだ。それなのに、クッキーに対するコメントがないだけでへそを曲げてしまうなんて、まるで子どもみたいだ。

自分の気持ちが分からなくて、はむっと口を尖らせて黙り込む。元希がちらちらと視線を向けているようが気がしないでもなかったけれど、それを気に留めるほどの余裕はなかった。

どうして、元希に腹が立つんだろう。分からなくて、気持ちを持て余す。

「……あのさ、」

ふと、元希が口を開いた。躊躇う間があって、短いようで長いような時間が過ぎる。元希が何かを振り絞ろうとしているのが分かったので、は黙って待った。

「ねぇ、元希!」

と、突然ノックもなく部屋の扉が開いた。犯人は他の誰でもなくおばさんだ。驚いた元希はちょうど口に入れたコーラに咳き込んだ。

「ちょっと、お醤油切れちゃったから買ってくるわ。……って、やーだ、何やってんのよこの子ー。炭酸でそんなんなるなんて子どもじゃあるまいし!」

「……っ、いきなり入ってくんなよ!」

「別にいいじゃない減るもんじゃないいし。」

「人の部屋覗くなっつってんだよ!」

「騒がしくってごめんね、ちゃん。気にしないでゆっくりしてってねぇ。」

元希を完全に無視してに手を振ると、おばさんは楽しげに扉を閉めた。

元希は気管に入った炭酸が中々抜けないらしく、背中を丸めてしばらくげほげほ唸っていた。

「で、何?」

元希がとりあえずおちつくのを待って、は話を戻そうとする。けれど元希は話の腰を折られて気が萎えたらしい。

「いや、なんでもねぇ、やっぱいい。」

「何? 気になるじゃん。話してよ。」

「いや、いいって。」

「話してって。」

押し問答になってしまう。先に観念したのは、元希だった。

元希は面倒臭そうに、けれど同時に申し訳なさそうにため息を吐く。その口から出た言葉は、想像以上に重々しかった。

「……秋丸って覚えてる?」

「うん、野球部の人でしょ? A組だっけ?」

「そうじゃなくて、中学の時。」

「あぁ、そういえば同中だったね。」

元希の話は、昨日思い出したばかりのあの出来事のことだった。

母と昨日話したばかりのことを、どうして元希がこんなにタイミングよく思い出したんだろう。

元希と何年かぶりに出会ったあの夜から、何かがおかしい。何か見えない力が歯車を回して、と元希の周囲をぐるぐる回っているような気がする。

は混乱した。元希の口から最後に出た言葉は、が一番聞きたくない言葉だった。

「……悪かった。」

目も合わせずにそういう元希は頼りなくて、はどうしたらいいのか分からなくなった。元希を責めるつもりは毛頭ないし、謝ってほしいわけでもない。忘れてほしいだなんて傲慢なことは言いたくないし、気にしないで、なんて安っぽい言葉はきっと響かない。

黙り込んでしまった元希の横顔を見つめたまま、は何も考えられない頭を振り絞った。

「……昔の話じゃん。」

「けど、でっかい痣残ったって……。」

「全然ないよ。てか、それ噂に尾ひれが付いたんじゃない? 痕も残ってないよ。」

元希は深く眉根を寄せたまま、を見向きもしない。その視線の先には、罪悪感があった。にそれははっきりと見えていた。

「気にしてくれてたのはありがたいけどさ、急にどうしたの? 私だって忘れてたのに。」

「……別に。深い意味はねぇけどさ。」

きっと元希は、がここでいくら気にするなとか許すとか言っても、表情一つかえなのだろう。そんなことが簡単に想像できてしまって、は呆然とした。

元希と、また昔みたいに話ができたことが嬉しくて、昔みたいに名前を呼んでくれたことが嬉しくて嬉しくて、舞い上がっていた。噂の的になってしまったことは憂慮すべき事態ではあったけれど、そんなことよりずっと、元希と元に戻れるかもしれないという希望の方が大事で、そんなものに負けてなるものかと、心のどこかで思っていた。

なのに、一体何が2人の邪魔をするんだろう。

元希は口を尖らせたまま、怒ったような顔をして黙り込んでいる。その顔を見たら、元希に嫌われてしまったような気になって、は悲しくなった。

せっかく近づいた元希との距離が、ほんの小さな過去の傷でまた離れてしまうんだろうか。こんなに元希のことが好きなのに、どうしてそんなことで引き離されなければならないんだろう。

――元希が好きなのに。

はっきりした言葉でそう思ったら、悲しさと悔しさがぐっと込み上げてきて、鼻の奥がつんとした。こんなところで泣くわけには行かないと思ったけれど、我慢ができなかった。顔を伏せて、涙の気配を殺す。

けれど、すん、と鼻を啜った瞬間にばれた。

「……何泣いてんだよ?」

元希の乱暴な声が頭の上に振ってくる。それがほんの少し怖くて、は膝を抱え込んで顔を伏せた。泣き顔を見られたくなくて、涙を堪えるのに必死で、喉が張り付いて声が出なかった。

? おい? 大丈夫か?」

元希はベッドを降りてのそばに座り直す。子どもの頃していたように頭を撫でてやろうとして、悩んだ結果止めた。子どもの頃のように軽い気持ちでに触れることができなかった。

けれどの肩が小刻みに震えているのが分かって、やりきれなくなった。を泣かせたのは自分だ、自己嫌悪が胸の中を埋め尽くして、忘れていた過去の傷と一緒になって、まるで喉元を絞められているような気分になった。

「……ごめん。」

の肩を手のひらにくるむように触れて、元希は謝った。それしか言えなかった。

はしばらく嗚咽を飲み込むように泣いて、落ち着いてから、一言辛辣に言い放った。

「……謝んないでよ。」

元希は許されないことが苦しくて、息を呑む。

「……謝らせろよ。」

「元希、悪くないじゃん。」

「俺は悪かったって思ってんだよ。」

「怒ってないんだから謝られたって困る。」

「……んじゃ、俺どうすりゃいいの。」

「……そんなの自分で考えて。」

話すだけ話したらまた堪えられなくなって、は子どものように声を出して泣いた。

小さく体を丸めたは、本当に子どもみたいで、そこに幼いの姿が重なった。子どもの頃は2人でよく遊んだし、2人で泥だらけになって遊びまわって、転んで怪我をするのも日常茶飯事だった。

はあまり運動が得意ではなかったので、元希についてかけっこなんかしたら必ずと言っていいほど転んだ。手や膝を擦りむいて泣いて、そのどんくささを元希にからかわれて泣いて、元希が母親に叱られるのを見て泣いていた。

の泣き顔はあの頃と同じままで、懐かしく可愛くて、元希は思わずの肩に腕を回して抱きしめた。子どもの頃、そうしていたように。

「あんま泣くなって。」

「……うるさい、なんだよ、もう、元希のばか!」

は甘やかされるのが居心地悪くて、元希の腕を振り払おうとする。けれど元希の腕の力に敵わず、結局されるままじっとするしかなかった。

泣き顔見られるのが恥ずかしくて、もう高校生だというのに、子どもみたいに頭を撫でられるのが癪だった。元希のせいでこんなに腹が立っているのに、どうして元希に慰められているのか分からなくて、けれど同時に、不思議に心が落ち着いていくような気もした。腹が立って恥ずかしくて居心地悪くて、けれど温かく落ち着いて気持ちがいい。

はひとしきり泣いて、ゆっくりと泣き止んだ。

「ね、ちょっと。」

「ん?」

「放して。」

「……おぉ。」

は涙でくしゃくしゃの顔をあげて、鼻を啜って、涙を拭う。

顔を上げてはじめて見えた元希の顔が存外近いところにあって驚いて、視線を落とすと大人の男の人みたいな腕が自分の手を取っていた。骨ばった手、指先を握った手に力がこもる。

目の前が暗くなったような感じがしたら、唇に元希が落ちてきた。

ほんの少し触れただけのキスは、に冗談半分で元希の唇を奪った思い出を蘇らせた。物心付くか付かないか、お互いが男の子と女の子だということを認識するかしないか、そのくらい幼い頃の、淡い記憶。

あの頃からここまで、ずいぶん遠回りをしたような気がする。けれど間違いなく、元に戻ってきた。ぐるりと大きな円を描いて、あの頃と同じ場所へ。

目の前で見上げた元希の顔が、あの頃の小さな男の子に重なって、は笑った。

「……何がおかしいんだよ。」

と、元希は照れくさそうに唸る。

その声がまた子どもっぽくて可愛くて、堪えきれず、は声を出して笑った。さっきまであんなに悲しい気持ちで溢れかえりそうだったのに、胸の奥がほんのりと暖まるようだった。

元希は顔を真っ赤にして口元を押さえているけれど、の手はしっかり握ったままだった。

「おかし。」

が呟くと、

「うるせぇ。」

と、元希がぼやいた。



20110329