最後の夜は満月だった。月灯りが煌々として、灯りを点けなくとも手元まで十分に明るい。

夜中まで細々した部分の片付けをしていたは、鉄之助を通じて土方に呼び出された。

明日には、真選組は仮の屯所となっていたこの寺を出ることになった。隊士達は各々、江戸での最後の夜を思いおもいの場所で過ごしていて、土方は私室として割り当てられた部屋でひとりでいるという。

は急須と湯呑を持って、土方の部屋を訪ねた。

「失礼します」
「おう」

土方は縁側に座り、屯所でいつもそうしていたように煙草を吹かしていた。が懐かしい気持ちで微笑むと、土方は眉をしかめて言った。

「何がおかしいんだよ?」
「何でもありませんよ」

は土方のそばに腰を下ろすと、手早くお茶を淹れて土方の前に差し出した。けれど土方はそれには手を付けず、灰皿で煙草の火を潰し、その手でを手招きする。

自然とその腕の中に収まったは、土方の胸にしなだれかかって月を見上げた。土方に背中から抱きしめられながら満月を見上げた夜を思い出していた。江戸を離れてどこへも行きたくないと、子どものようにわがままを言った土方が可愛くて、薄い浴衣しか身につけていない体にぴったりと寄り添ってくれた土方の体温が心地良かった。

あの時には、まさかこんな未来が訪れるとは思ってもみなかった。

「何かあったか?」

 土方が気づかわしげに言った。

「え?」
「泣いただろ?」
「どうして分かるの?」
「目が赤いし、少し腫れてる」
「あんまり見ないで、恥ずかしい」
「茶化すなよ」

は土方の胸に頬を寄せて目を閉じた。この話をするのはとても難しかった。うまく説明できるか分からないし、誤解を生むかもしれない。けれど、こんな風に寄り添って話ができるのはきっとこれが最後だ。後悔はしたくなかった。

「銀さんに会ったの。お登勢さんのお店で。ちゃんとさよならを言いたかったんだけれど、うやむやになっちゃった」
「何で?」
「銀さんが……」

ふいに、は口ごもり、言葉を探しあぐねて黙り込んだ。その手が土方の着物の袖を、しわになる程の力でぎゅっと握りしめる。土方はを抱く腕に力を込めた。

「あいつの話なら俺も聞いた」
「そうなの? いつ?」
「黒縄島に向かう前にな。俺を焚き付けたかったんだと思う」
「そう。私は今日初めて聞いたの」
「初めて?」

は喉に力を入れて、ぐっと涙をこらえた。

「謝られたわ。今まで言えなくてごめんって」
「そうか」
「私、涙が止まらなくて、何にも言えなかったの。銀さんのこと、許してあげられなかった」
「ショックだったんだろ、しょうがねぇよ。あいつもきっと分かってるさ」
「だといいんだけど。銀さんってあぁ見えて繊細なところあるから。落ち込んでないといいな」
「お前はどうなんだよ?」
「私?」
「先生がどんなふうに死んだか知って、どう思った?」
「……意地悪なこと聞くわね」
「嫌なら答えなくてもいいけどよ」

は空にぽっかりとあいた穴のような満月を見上げた。松陽が役人に連れ去られたあの夜も、こんな風に大きな満月が出ていた。月光に照らされた松陽が、いつもと変わらない笑顔を浮かべて去っていったことを昨日のことのように覚えている。

懐かしくて、会いたくて、仕方がなかった。

「死んでほしくなかったし、殺してほしくなかった」

土方は黙っての言葉に耳を傾けた。

「いつまでも、あの寺子屋で先生と銀さん達と、暮らしていたかった。あの場所が大好きだった。なくなってほしくなかった。今でも先生に会いたいわ」
「……」
「でも、もし本当にそんな未来があったとしたら、土方さんには出会えてなかった」

自分に言い聞かせるようにそう言って、はそっと体を起こすと、土方の目を見た。月灯りを映す瞳に、お互いの瞳だけが映る。土方がの頬を撫でて、その優しい手付きが涙が出るほど気持ち良かった。

「ありがとう、土方さん。そばにいてくれて」
「どの口が言うんだか」

 と、土方は唐突に、ごつんと額を突き合わせて目を細めた。ただでさえいつも瞳孔の開いた鋭い双眸が、月の光を宿して怪しく光る。並の浪士ならひと睨みされただけで震えあがる鬼の目に、はぎくりと体を強張らせた。

「何で黙ってた?」
「え? 何の話?」
「とぼけるな。ネタは上がってんだよ、薄情しろ」
「だから、何?」

 土方はため息をひとつ吐き、心底呆れた顔をして呟いた。

「お前、江戸に残るって、本気か?」
「え? 今更その話?」
「聞いてなかった」
「うそ」
「嘘じゃねぇ。今日、近藤さんに聞いて初めて知った」
「どうして? 話したじゃない」
「いつの話だよ?」
「松平様がいらした折に、ほら」
「そんな話した覚えはねぇ」
「言ったってば。今後は、私にも真選組の一員になったつもりで、共に戦ってほしいって松平様が……」
「だから、なんでそれが、お前ひとりで江戸に残るなんて話になるんだ?」
「松平様がそうしてほしいって、土方さんにも話はしてあるって聞いたと思ってたんですけれど……」
「聞いてねぇよ、ったくあの親父、勝手に話進めちまいやがって……!」

 頭を抱えてうなだれた土方を見やって、はようやく理解した。

 松平はきっと、土方とに対して別々の計画を伝えていたのだ。には、江戸城で下働きをしながら、そよ姫の身辺を見守ることを。土方にはを伴って江戸を離れ、革命軍を組織することを。

松平は分かっていたのだ。土方は決してを手放そうとはしない。けれど、江戸城から茂々に仕えた者がひとりまたひとりと消えていく現状には少しでも歯止めをかけなければならなかった。だから、ひそかにを江戸城に送る算段を付けたのだ。はなんの力もない一市民だ、だからこそ、江戸城に入るにはうってつけの人材だったに違いない。土方に猛反対されることは分かっていたから、こんな嘘をついて。

「つまり、松平様の手の上で踊らされていたってことね」
「あのじじい、次に会ったらぶん殴ってやる」
「暴力は駄目よ」
「……」
「仕方ないわ。もう、決まったことだもの。受け入れましょうよ」

 は土方の胸に手をついて体を起こすと、子どものように拗ねた顔をする土方の頬を撫でた。土方は心配そうに言った。

「お前はそれで平気なのか?」
「松平様が言うには、一応、仕事場は城内だから、万が一ばれてもすぐに斬って捨てられるようなことはないと思うって。それに、私は政治の難しいことは何も分からないし、分からないということが身を守ることもなるんじゃないかしら」
「そうじゃなくて」

 ふと、土方は頬を撫でるの手を取って、優しく指を絡める。指の一本一本の形をなぞるように、丁寧に。

「ひとりで、辛くないか? 怖くないか? 寂しくないか?」
「土方さん」
「俺は、寂しい」

 は思わず腕を伸ばして、土方の頭を胸に押し抱いた。土方はの細い腕に縋るように手を伸ばし、袖の中に手を入れる。

「俺のいねぇところでお前に何かあったら、どうすりゃいいんだよ。手の届くところにいてくれねぇと守ってやることもできねぇじゃねぇか」

 は腕の中で弱々しく呟く土方を抱きすくめる。

「私だって寂しいし、できるなら土方さんと一緒に行きたいけれど、きっと足手まといになるわ」
「そんなことねぇ」
「私は戦えないのよ」
「刀握れなくなってできることはある。何かあっても必ず守ってやる」
「無理よ。土方さんだって本当は分かってるでしょ」
「無理じゃねぇ」

 土方に力いっぱい抱きしめられて、は気がどうにかなりそうだった。

寂しくないわけはないし、辛くないわけでも怖くないわけもない。下働きとは言え、敵の巣のど真ん中にひとりで乗り込んでいかなければならないのだ。自分の身は自分で守らなければならない、それを考えるだけで心細くて仕方がない。
 
土方とこうして会えなくなる。顔を見れなくなる、声を聞けなくなる、この腕に抱いてもらえなくなる。土方と離れ離れになる。考えるだけで腹の底が冷えて不安に押しつぶされそうになる。

「今からでも遅くない。俺と来るって言えよ。頼むから」

 土方の言葉は、どんなものにも勝る甘い蜜だった。

は土方の頬を両手で挟んで、顔を覗き込みながら、無理に笑った。

「土方さんのそういうところ、かわいくて大好きよ、私」
「かわいくねぇ。ごまかすな、馬鹿野郎」
「ふふっ」

 土方は笑みの形をしたままのの唇をふさぐ。土方のくちづけを静かに受けた。

「……ありがとう、土方さん」

 土方の手が、の濡れた頬を拭う。は泣きながら笑っていた。

「土方さんが私を大切に思ってくれてるって分かってる。守ろうとしてくれてるって分かってる。その気持ちだけで、私はもう十分、守られてるわ」
「……
「私に土方さんを守る力はないけど、ずっと、この町で待ってるから。だから、早く帰ってきてね」

 土方は苦いものを噛むような顔をして、の瞳を覗き込んだ。

「お前は本当に頑固だな」
「土方さんほどじゃないわ」
「うるせぇ」
「きっと大丈夫よ」
「本当かよ」
「絶対に。約束する」
「俺のいねぇところで死んだりしたら許さねぇからな」
「土方さんもね」
「必ず帰ってくるから」
「待ってる」

 土方はもう一度に口付けた。お互いの呼吸を絡めて、結んで、もう二度と離れないようにするための口づけだった。
 
 大きな満月だけが、ふたりを見ていた。







20171218