九 く は らく の かれ それから、しばらく経ってのことである。 「報告します」 妙に神妙な顔で山崎が言うので、近藤と土方は眉根に皺を寄せながら待った。もう待つことしか出来ないことが、既に後悔の種だった。 「沖田隊長がかぶき町で、万事屋のとこのチャイナと鉢合わせまして、スナックが一軒営業停止状態になりました」 「……怪我人は?」 「吹っ飛んだ瓦礫で頭を打ったグラサンが一人いましたが、軽症です。絆創膏代負担するだけで示談にしてくれるそうです」 「本人達は無傷なのか?」 「えぇ、そりゃもう。信じられないくらいに」 「そうか。そのあたりは学習してるらしいな」 「学習って言うのかこれ」 「学習だろ」 「学習か」 「……学習だ」 理由付けにしては苦しかった。 *** その夜である。 足の包帯もそろそろ取れる頃になってきた土方は、ニコチン摂取に勤しんでいた。今夜は少し冷える。いつも通り隣にいるは、今夜は着物の上にショールを羽織っていて、指先が冷えているのか、頻りに膝の上で擦り合わせていた。 「それで、お咎め無しという事なんですか?」 「あぁ。前の時も怪我のせいで何も無かったからな。ったく、つまんねぇ」 「何言ってるんですか。ただの子どもの喧嘩でしょう? 大人がどうこう言う事じゃないですよ」 冷えた空気に、煙草の煙が滲む。遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。それから湧き上がるような笑い声。今夜は沖田の快気祝いと銘打った宴会が開かれているのだ。空気から微かに酒の匂いがしていた。 「土方さんはあっちに参加しなくて良かったんですか?」 「気分じゃねぇんだよ。あいつだって、俺に祝われたって嬉しくねぇだろ」 「そうでもないと思いますけど」 「お前こそ、あっちで酌してくれとか言われてたじゃねぇか。いいのか?」 「えぇ、まぁ。こっちもこっちで仕事ですから。屯所が火事になってしまったら困りますもの」 「信用ねぇな」 「そういう意味じゃないですけど」 土方は出来るだけ気付かれないようにに視線をやってみた。目線は合わない。はどこを見ているのか、ぼんやりとしたまま冷えた指先を暖めていた。明らかに疲労していた。宴会の席に出ないのは、きっとそれが本当の理由だろうと土方は思った。 「寒いのか?」 「……えぇ、少し。今夜は冷えますね」 が疲れた笑顔で言うから、土方はなんだか居たたまれなくなった。その冷えた指に触れたいと思った。土方は煙草を指で挟んだ右手はそのまま、手を伸ばしての手を取る。まるで氷のように冷たいそれ、手を伸ばせば掴める距離にあったそれを、ぎゅっと力を込めて握った。 「なんだこれ。ちゃんと血ぃ通ってんのか? 冷えきってんぞ」 すぐに答えが返ってこない。は酷く驚いた様子で、瞬きもせず土方を見ていた。 「どうした、大丈夫か?」 「……あ、はい。驚きました」 「何が?」 「え、いやだって……。何ですか? 急に」 「寒ぃんだろ。それとも吸うか?」 「いやそれはちょっと」 煙草の灰を灰皿に落として、咥える。ゆっくりと吸って味わって、飲み込んで、吐き出す。 の手が動いて、土方の手を受け取るような形で土方の手を握った。そうされると自分から手を離すことができなくなってしまったので、土方は仕方なく、のするがままにさせる事にした。 「ありがとうございます」 「別に……」 「いえ、手じゃなくて」 「あぁ?」 手を繋いでいるだけでこんなにも距離が近い。片手に火の着いた煙草があるから逃げ道はあったけれど、土方はそれを利用したいとは思わなかった。疲労したの笑顔は、いつものただ綺麗なだけの笑顔ではない。弱々しかった。自然、言葉が穏やかになった。 「何がだ?」 「……いえ、何でもありません」 「訳分かんねぇぞ」 「いいですよ、別に」 「いいのかよ」 「はい。いいです」 このの笑顔を、万事屋の坂田銀時は知っているのだろうか。土方はそう思って、苦笑した。こんな時にあんな奴の事を思い出すからには、に手を出す気など、無意識の中にすら存在しないことは明白で、土方はその事に多少なりと落ち込んだ。なぜあんな野郎に惑わされているのだろう。「終わっている」。そんな言葉一つで、どうしてこんなにの事を考えてしまうのだろう。土方は不思議な気持ちで、じっとを見ていた。 「土方さん? どうかしました?」 「……何がだ?」 「ちょっと様子が……。手も熱いし……」 「お前の手が冷えてんだろ」 「そうじゃなくて。自分で分からないんですか?」 「だから何なんだって……」 と、ふいに指先が震えて煙草が床の上に落ちた。が慌ててそれを拾い上げて灰皿の上で潰したけれど、板張りの縁側に小さな焦げ跡が残った。 ぽかんとそれを眺めていた土方は、その時初めて妙な耳鳴りを聞いて、眉根を寄せた。言われてみれば目の奥が熱い。唐突に襲って来た異変に驚いて、何も考えられなくなる。 「土方さん? 大丈夫ですか?」 「……」 応と答えようとして、言葉が出なかった。勝手に瞼が降りる。の冷たい手のひらと、声だけが聞こえた。どうやら沖田の風邪をもらってしまったらしいと、土方はその時ようやく気付いた。 熱に浮かされた顔をして倒れこんでしまった土方を抱きとめて、は身動きが取れなくなった。 の肩に凭れた土方は重く、は正座したままその肩を抱き込む様にして支えることしか出来ない。布団に寝かせてやるなど言うまでも無く、この姿勢を維持する事でやっとだった。床に一度寝かせて人を呼んで来ても良いのだけれど、土方はの手を握ったまま離さない。 「……土方さん?」 耳元で呼んでも反応は無かった。荒い呼吸はそれでも安定しているから、命の危機という訳ではないだろうけれど、これからどうしたらいいものか。ここへ誰かがやってくるのは早くても明日の朝だろうし、それまで動けないというのはさすがに辛い。 「起きて下さいよ、土方さん」 体を少し乱暴に揺すっても起きない。もうどうしようもなくて、ため息も出なかった。 は仕方なく、出来るだけ楽な姿勢を保てるように土方の体を抱えなおして、このまま徹夜する覚悟を決めた。 「……これで私が風邪移されたら、元も子もないわね」 独り言にも土方は身動ぎもしなかった。どうやらすっかり熟睡してしまったらしい。 その寝顔を眺めながら、はここ数日の騒動の事を回帰した。 ミツバが病死して、土方が重傷を負って、沖田も大怪我をして風邪を引いて、土方も風邪を引いている。嫌な事は続くものらしい。 ふと、先日屯所を訪れてくれた銀時の顔が脳裏を過ぎった。昔家族だった、今ではただの友達。桂や、高杉。それから松陽。過日の人々。神楽にあんな話を聞かせてしまったから、こんなにも思い出してしまうのだ。彼等の元を離れた事を、後悔はしていない。けれど感傷的になるのはどうしようもない。病は人を弱らせる。それは当人より、むしろ側にいる人こそを。 は涙が出そうになるのを堪えながら、ぐっと唇を噛んで目を閉じた。思い出は戻らないから愛しい。後悔は消えない余韻だ。覚えているのは宝物で、それは揺らがない価値だった。 けれど、近頃土方はに歩み寄りを見せている。何がきっかけだったのかはにも分からない。繋いだ手も、この状況も、少し前の土方だったら考えられないような行為だ。熱に頭を犯されているせいでもあるようだけれど、それを加味してもこれは予想外のことだ。 それが嬉しく無い訳では決してない。以前はその冷淡さに苛立ったことすらあったくらいだ。進歩と言えばそうだし、喜ばしい変化として受け止めるべきだとも思う。 けれど、事情が少し変わってきてしまった。例えば、土方とより近づくために銀時たちと過ごした過去を打ち明ける。そうすると、攘夷戦争という過去のために銀時が被害を被るのだ。それは何としても避けなければならない。 おそらくきっかけと呼べるほど確かなものではないだろうけれど、土方にとって銀時の登場はよほどの意味を持ったのだろうとは思う。心当たりがそれ位しかないかった。けれど、おそらくそれで間違いはない。 無意識に土方と銀時を天秤に掛けている自分に気付いて、は目を開けてぼんやりと瞬いた。 はまだ、土方よりも銀時の方が大切だった。二人を比べる事など、基準として間違っているとは分かっていたけれど、それでも何かあったら、いくら迷ったとしても銀時を選んでしまいそうな、そんな不確かな予感がしていた。 思い出は戻らないから愛しい。後悔は消えない余韻だ。覚えているのは宝物で、それは揺らがない価値だ。 土方のすっかり油断した寝顔を見下ろして、は少しだけ泣いた。どうしてだろう。自分で選んだ道を後悔せずに歩んできたつもりだったのに、事実今になって一番初めに捨ててきた物に焦がれている。 「……ごめんなさい、土方さん……。貴方の事、とても好きな筈なのにね。一番じゃないみたい」 遠くで宴会の騒音が聞こえていた。空気が酒の甘ったるい匂いを孕んでいた。 は涙で濡れた頬を土方の前髪に押し付けて拭う。土方の体は熱い。そのおかげで夜の冷気には耐えられる。一晩の徹夜なんか、大した労働ではない。 「……でも、土方さんも私より真撰組の方が大事ですもんね。おあいこですよね」 朝は遠い。けれど夜は確かに更けていった。 20091016修正 |