一 ひとよすごせば つね うつつ が住まいにしている離れは屯所の東外れにある。 曇りガラスがはまった引き戸から外に出て、不規則に並んだ敷石を辿ると隊員達が暮らす母屋に続く。草履を脱いで直接縁側に上がって、中庭に面した縁側を左手に見て進む。もうほとんどの隊員が寝静まった大部屋の側を過ぎてさらに奥へ行くと、そこがの毎晩の目的地だ。 障子の前に膝をつくと、声を掛ける前に中から呼びかけがあった。 「か」 けだるげで、少しこもった声音だ。は返事をする代わりに、両手ですっと障子を引いた。部屋中は煙草の煙で満ちていて、まるで霞がたなびいているような状態になっている。は突然の空気の変化に少しむせて、思わず口元に着物の袖を押し当てた。 「うわ、煙い……。換気くらいしてくださいよ、土方さん」 「うるせぇな。俺の部屋なんだから好きにさせろ」 土方は煙に乗せてそう言って、着物の裾を割って立ち上がる。吸い殻が山のようになった灰皿を手に持つと、障子を全開にして縁側に出て、の目の前であぐらをかいた。くわえている煙草はまだ長い。 「少しは本数減らしたらどうなんですか? 体壊しちゃいますよ」 言いながら、は灰皿を自分の方へ引き寄せて持参した紙袋の中に吸い殻を捨てた。煤と灰でできた汚れを雑巾で拭き取って土方の方へ押し戻す。土方は遠慮なくそこに煙草の灰を落とした。 「今更だろ。逆に禁断症状で死んじまう」 「そういうのを屁理屈って言うの、知ってます?」 「屁理屈でも何でもいいだろ、別に」 土方はにやりと笑って煙草を口元から離す。喫煙に関してはほとんど自棄になっているようで、はそれにつられる様に、いたずらっぽくすまして笑った。 「つまるところ煙草のせいで病気なんかしなければ、情けなくはないと思いますけど」 「情けないとか言うなって」 「健康に気をつけてくださいって事ですよ」 夜は土方と、二人の時間だった。つらつらと言葉を並べるように、他愛もない話をして夜を過ごすのである。遠子はそのついでに土方の私室の灰皿の掃除をする。土方の一日の喫煙量が尋常ではなく、いつも山のようになる吸殻の処理を遠子がかって出た事がこの習慣の始まりだ。それがいつの事だったかは二人とももう覚えていない。けれど間違いなく数年前に遡る程前のことで、それだけの長い間、二人の関係は現状を維持したまま続いていた。 江戸の町は日が落ちても昼のように明るい。空には得体の知れない飛行船のような機械がびかびかと下品に光って浮いているし、ターミナルは七色に光を放って目を傷めそうなほどだ。古き良き江戸の面影を残した屯所の敷地内はまだ夜の闇を残しているけれど、それでも灯りを灯さなくても不自由ないほど明るい夜だ。その夜闇の中で、土方が吸う煙草の赤い火の色がときたま強く光る。 「……そろそろ寝るか」 「明日もいつも通りですか?」 「松平のおっさんに呼ばれてるから、午後から近藤さんと行ってくる。こっちは総悟に任せる」 「分かりました」 土方は腰を上げて敷居をまたぐ。は座ったままその背を見上げて言った。 「おやすみなさい。また明日」 「あぁ」 土方は紐を引いて自分で灯りを消すと、それに合わせては部屋の障子を閉じた。 が初めて真撰組の屯所にやってきたのは、新しい建築物特有の木と畳の匂いが新鮮な春の頃だった。調度品をようやく整えたばかりの局長の個室はまだ人が住み慣れていない余所余所しさがあって、近藤と土方ですら少し肩身が狭そうな雰囲気を醸し出している。 そんな二人と向かい合って座るは対照的に、ぴんと背筋を伸ばして爽やかに微笑んでいた。まるで、この部屋の主は自分だといわんばかりに。 「と申します。特技は家事全般と内職です。どうぞ、よろしくお願いします」 「さん、か。募集要項はちゃんと読んできました?」 近藤は苦笑しながら頬を掻く。「募集要項」とは、屯所内の雑務、家事一切を行う、いわば「家政夫」の募集を示したチラシの事だ。読んで字の如く、求められているのは男である。カセイフ、と言えば「家政婦」という字を当てるのが普通だけれど、仕事場が男所帯でしかも隊員は皆田舎上がりの荒くれ者とあって、あえて「うまいメシを作れる男募集!」という謳い文句での募集に踏み切ったのだ。近藤達にとって生活上最大の問題は、掃除洗濯を差し置いて日々の食事にある。腹が減っては戦はできないのだ。 「一応、男だけの募集って事になってんだが?」 ただでさえ目つきが悪くて強面の土方に凄まれても、は愛想良く笑って答えた。 「えぇ。承知しています」 「だったらなんでこんなとこ来てんだよ?」 「この程度の仕事なら私でもこなせると思うからです。あ、別に仕事を舐めてるわけじゃありませんよ?」 は確かな意志と冷静な自尊心を抱いてそう断言する。少なくとも近藤と土方には、彼女のあり余る自信が一体どこからもたらされているのか理解できなかった。いや、それはもたされるものではない。彼女の体の内部から滲み出ているものだ。彼女の細い体のどこにそんな力が宿っているのか、二人には全く分からない。 「女を雇う事が不安でしたら、お試し期間を設けてもらってもいいですよ。一週間ここにおいてください。その間もちろんお給料はいりません。仕事に満足していただけなかったら潔く諦めます」 が堂々と言い切ったその瞬間、突然庭で爆発が起きた。光と暴風が土方達の髪を乱す。屯所の屋根よりも高く火柱が上がり、もうもうと黒い煙が辺りに立ちこめる。風がそれを払って視界が晴れると、整えられた芝には大きな穴が開き、飛んできた火の粉が庇と縁を焦がしていた。 「すいません、土方さん。加減を間違いやした」 身の丈ほどはあろうかという大砲を軽々と担いでひょっこりと現れた沖田は、詫びれた様子もなくそう言う。土方は眉間にくっきりと血管が浮き出して勢いよく立ち上がると、肩を怒らせて大声を張り上げた。 「総悟ォ! お前何やってんだァァ!!」 「武器庫にしまう前に試し打ちしてみただけでさぁ」 「馬鹿かお前はァ! 引っ越してきて早々屯所壊してんじゃねぇよ!!」 「形あるものは全て壊れる運命なんですぜ、土方さん」 「お前が壊してんだよ!!」 「まぁ落ち着けトシ。さんもいるんだから」 近藤の声は二人には届かない。土方は携えていた刀を持って庭に下りてしまって、聞き取れないような罵詈雑言を喚き散らしながらの喧嘩になった。 近藤にとっては見慣れた風景だけれど、遠子にとっては驚くべき光景だろう。近藤はそう思って、なんとフォローすればいいかと、に目をやった。は口元を手のひらで押さえながら喉の奥で笑っていた。 土方と沖田は穴の開いた庭で口喧嘩を止めない。むしろ沖田がもう一度大砲の引き金を引いてしまって二度目の爆発が起きた。 その轟音と土煙の中で、近藤は辛うじて笑って誤魔化そうとする。 「いやぁ、すみません。こいつらいつも騒々しくってねぇ!」 「やりがいがありそうで楽しみです。よろしくお願いしますね、局長」 つまるところ、これに近藤が是と答えてしまったことで全てがまとまってしまったのだった。それが、真撰組が幕府直属の機関と認定されて一ヶ月後の話である。 20091003修正 |