その日は、澱んだ灰色の空から今にも雨粒が落ちてきそうな、不穏な空の日だった。
どことなく気だるく、空気が重く、銀時はいつにも増してだるそうに縁側に寝そべり、高杉はいつもに増してかりかりして、普段は温厚な桂でさえ落ち着きなくそわそわしていて、ただ吉田松陽ひとりだけが、いつものように穏やかな微笑みを絶やさず静かに本を読んでいた。
は、烏がやかましいほどの鳴き声を上げて屋根の上を飛び交っているのを軒の下から見上げて肩をすくめた。まだ日暮れには早い時間だというのに空は一足早く夜を連れて来ようとでもしているようにほの暗く、烏は闇からの使者で何か良からぬものをここへ呼び寄せようとでもしているようだった。
「嫌な空。ねぇ、先生も見て」
松陽は書見台から顔を上げてちらりと空を見上げると、面映ゆく瞬きをした。
「確かに、ひと雨来そうだね」
は自分を抱きしめるように二の腕をさすりながら呟いた。
「あの烏達も、一体どうしたのかしら。屋根の上に光り物でも落ちているのかしら」
「そうかもしれないね。まぁ、放っておけばそのうちいなくなるでしょう。気にしないでおきなさい」
松陽はすぐに本に視線を戻し、ページをめくって黙りこくった。
けれど
は烏の不気味な鳴き声に鳥肌がおさまらず、いてもたってもいられなくなってしまった。悪寒が背中の下の方から這い上がってきて、肩がぶるりと震えるのを抑えきれない。松陽の勉強の邪魔をしたくはなかったが、もう耐えられなくなって松陽の背中にしがみついた。
「おやおや、どうしたんですか。そんなに震えて」
松陽は苦笑した。
「本当に気持ちが悪いの。ただの烏だって、分かってるんだけど……」
松陽は
の頭をぽんぽんと優しく撫でる。温かく大きな、包み込むように広い手のひらだ。
「大丈夫ですよ。何かあったら、銀時が烏を蹴散らして君を守ってくれますから」
「先生は守ってくれないの?」
「銀時は強いから、私の出る幕はありませんよ」
「でも、銀さんってばこの間の肝試しで、桂くんのシーツのおばけを見ただけで気絶したわ。そんな人、ちょっと頼りない」
「おや、そうですか。では、晋助や小太郎はどうです?」
「高杉くんは何かといえば意地悪なこと言うから嫌い。桂くんはいい人だし落ち着きもあって好きだけど、ちょっと抜けているところがあるからいざとなったら頼りたくはないかも」
「あっはっは!
は手厳しいですねぇ」
松陽がからからと笑うと、その胸が小刻みに震え、心臓が手に取れそうにすぐそばで脈打っていることが感じ取れた。松陽の胸元に耳をくっつけてとくとくと脈打つその震えを感じ、
の体はそれだけでほんのりと温かくなった。鳥肌も悪寒もいつの間にか収まっていた。
松陽の腕の中ほど、温かく安心していられる場所を、
は他にひとつも知らなかった。
ひとしきり笑って呼吸を落ち着けた松陽は、
の体を離すとその大きな手で
の頬を挟み込むようにした。心地良い吉田の腕の中を名残惜しそうに見下ろしていた
は、松陽がいつになく真剣な顔をしていることに気づいて、何度も瞬きをした。
「
に甘えてもらえるのは私も嬉しいのだけれどね、でも近いうちに、私にばかり頼ってもいられなくなる」
「……それは、どういう意味?」
「時が来れば分かるよ」
松陽は
の頬を撫で、生まれたての赤ん坊を慈しむような、深い愛情に満ちた瞳で
を見た。
は戸惑った。どうして松陽がそんな顔をするのか、この時の
にはちっとも分からなかった。
「女の子のすごいところは、生まれた時から男よりもずっとしっかりした大人であるところだと思うんだけれど、
は本当に誰よりもそうだね。時には私よりもよっぽどしっかりしている。大したものです」
「そうかしら?」
「えぇ。君はきっといつか、銀時にも晋助にも小太郎にも頼らず、ひとりでしっかりと生きていく道を見つけることができるでしょう。そんな
に私からお願いがあるんです」
「なに?」
松陽は
の肩に両手を置き、その手を両の掌まで滑らせ指先を握りしめた。
「男というものは、どれだけ腕っぷしが強くても、ときどきどうしようもなく弱い生き物なんです。だから、銀時や晋助や小太郎がどうしようもなく弱ってしまった時は、
、君がみんなを励ましてやってください」
松陽が本当に伝えようとしていたことを、この時の
は半分も理解できていなかったけれど、松陽の頼みを無下にすることなどできるはずもなく、
はただ素直にうなずいた。
松陽は満足げに笑って、もう一度
の頭を撫でてくれた。
今はもう遠い昔のこと。
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