ちょうどその頃。
「これ、美味しい!」
はつやつやと油膜が光る煮汁に浸かった豚の角煮を口に含んで目を輝かせていた。
「あら、そうですか。ありがとうございます」
女将がにこやかに微笑みながら言った。
は角煮が盛られた皿を見下ろしながら興味深々と尋ねた。
「独特なコクがありますね。味付けはお醤油とお砂糖としょうがと、あとは……」
「お砂糖に黒糖を使っているんですよ」
「へぇ、なるほど! それでこんな味になるんですね! でも、上白糖より高くつきますよね?」
「えぇ、少しは。でも、黒糖の合うお料理とそうでないお料理がありますからね、使い分けていればね」
「参考になります。私も今度試してみよう」
女将が蕪の汁物を置いて出ていくと、部屋には
とひとりの男が残された。
「
さんさ、自分が人質になってるって自覚ある?」
「あら、それどういう意味ですか?」
とぼけて首を傾げた
を睨んで、男はぐびりとみそ汁を飲み干した。
ふたりが出会ったのは、爆破テロが起きた商店街のど真ん中だった。
爆発の瞬間、
は商店街の中央に位置する金物屋にいた。食堂で長年使っていた鍋がいい加減古くなってしまったので、新しい鍋を調達しに来たのだった。さすがに業務用の巨大な鍋を持ち帰るわけにはいかなかったので、配送の手続きを取っているときにあの爆発が起きた。
初めは轟音と地響きだった。一体何が起きたのだろうと店先に顔を出したとき、灰色の土煙が信じられない速度で目の前に迫ってくるのが見えた。これはもう逃げられないと、
には瞬間的に理解できた。
は足も遅いし、そもそも着物は走るのには向いていない。とっさに店の中に身を隠して袖で口元を抑えたけれど、そんなことでは防ぎきれそうもない。店の中まで土煙が侵入してきて、同時に火のように熱い熱風が襲ってくる。ぎゅっと目を閉じて息を殺したものの、けれどそろそろ限界かと思った時、
の腕を引いたのがこの男だった。
「お嬢さん! 大丈夫ですか!? 立てますか!?」
男は
の体を抱えて店の奥に入ると、その裏口を通って路地裏に出る。そこからは、もうどこをどう通って火の手から逃げたのか、
にはもはや分からなかった。
野良猫がごみ箱をあさる路地裏まで逃げ切って、息も絶え絶えに男は言った。
「大丈夫ですか?」
「……えぇ、あの、危ない、ところを、助けて、いただいて、本当に、あり、がとう……」
「本当に大丈夫?」
ほとんど呼吸困難になりながら、
は地面に膝をついて崩れ落ちた。男はふところから取り出した手拭いを地面に敷くと、そこに
を座らせた。
「巻き込んじまってすいませんでした。本当に」
は胸を押さえて呼吸を整える。どくどくと脈打つ心臓の音がうるさくて、男の言葉はほとんど
の耳には届かなかった。
「お嬢さん、このあたりに住んでるの? よかったら家まで送るよ」
「いいえ、そんな、そこまでご迷惑をかけるわけには……。むしろ、こちらがお礼をさせていただきたいくらいです」
「いいんですよ、お礼なんて」
「そんな、それじゃせめてお名前だけでも教えていただけませんか?」
「名乗るほどの者じゃないですよ」
「そう言わずに。私は、
と申します」
「え?
?」
男は素っ頓狂な声を上げて目を丸くした。何をそんなに驚くことがあるのか、
にはさっぱり分からない。
男は金魚のように口をパクパクさせた後、頭を抱え、
を指差し大声で叫んだ。
「ああああんた、あの
か!?」
「……え? どの?」
そんな流れで、男が泊まっている宿に
はほとんど無理やり連れてこられたのだった。
はしきりに家に帰らなければならないと訴えたのだが、男は「お礼をしてくれるって言っただろ?」と自分に都合のいいことを言って
の手を離さなかった。その強引さに
は辟易したものの、そもそもは土煙と熱風に巻き込まれそうになった
の命を救ってくれた人であったので、まさか自分を人質に取ろうとしているとは想像すらできなかった。
「俺は、吉田利麿ってんだ。よろしく」
宿の一室で、
と対面に座った吉田は、膝の上に黒い犬を抱えてそう名乗った。
「はぁ」
「で、助けてやったお礼なんだけど、ちょっと人質になってくれないかなと思ってさ」
「人質?」
は数秒間黙り込んだ後、恐る恐る聞き返した。
「身代金でも要求するつもりですか? 言っておきますけれど、私、家族もいないですし、貯金もそんなにないですよ?」
「いやいや、僕がほしいのはお金じゃないんだ」
吉田は品定めをするような目をして
を見る。その視線に嫌なものを感じて、
は膝の上に置いた両手を握りしめた。
「高杉晋助を知ってるかい?」
昔馴染みの名前を聞いて、
はつい黙り込んでしまったが、それをすぐに後悔した。吉田はそれを見逃さず、してやったりとほくそ笑む。
「その様子じゃ当たりだな」
「……まだ何も言ってません」
「知らないんなら知らないって言えばいいでしょ。何をそんなに考え込んでるの?」
「考え込んでなんかいません」
「その昔、攘夷戦争の時代、狂乱の貴公子・桂小太郎、白夜叉・坂田銀時が幼少期を過ごした寺子屋、そこで共に過ごしていた昔馴染み・
。高杉にその話を聞いたことがある。白夜叉と高杉、ふたりから慕われてそれをどちらも袖にしたそうだな?」
「……それ、本当に高杉君が言ったんですか?」
「高杉君だなんて呼んでるんだ! へぇ、あの高杉がねぇ!」
吉田はしみじみと言うと、くつくつと声を殺して笑った。どうやらツボに入ってしまったらしく、腹を抱えていつまでも体を震わせているので、
はだんだんイライラしてきてしまった。なんだか、高杉との関係そのものを馬鹿にされているような気がして気分が悪かった。
「……吉田さんは、攘夷志士なんですね?」
「あぁ。徒勇隊という組織を率いている。改めてよろしく」
吉田はあくのない笑顔を浮かべて見せたが、
は背筋を凍らせた。偶然とはいえ、攘夷志士の人質に取られるだなんて。これからどんな目に合わされるのかと考えると恐ろしくて仕方がない。けれど、その動揺を気取られまいと、
は努めて強気を装った。
「私に人質になって欲しいと言いましたね。それは何のため? 何が目的?」
吉田は笑みを浮かべたまま、質問には答えなかった。
「一先ずは、ここに泊まってもらうね。ちなみに女将とその娘も俺の馴染みだから、逃げようだなんて考えないように」
そうして、ふたりは宿の一室で、顔を付き合わせて夕食をとることになったのだった。
夕餉は小さな宿らしく素朴なおかずが並んでいて、豪華な首輪をつけた場違いな犬が、吉田の足元に寝そべっている。
「僕が言うのもなんだけどさ、もう少し人質らしくしていた方がいいんじゃないの?」
緊張した様子も見せず、女将と料理の味気について話をする
に、吉田は嫌味ったらしく言う。
はつんとすまして答えた。
「だって私、誰かの人質になるなんて初めてなんですもの。どういう態度を取るのが正解かなんて分かりません」
「ついさっきまで小便ちびりそうな顔してたくせにさぁ」
「だって、吉田さんはそんなに悪い人には見えないんですもの」
「おや、そう?」
「人質なら普通、縄で縛り上げて物置にでも放っておくものなんじゃありませんか?」
「むさ苦しい男が相手だったらそうするかもね。
さんにはこれからよく働いてもらわなきゃならないからさ。うまい飯を食って体力をつけておいて欲しいんだよ」
「私が素直に従うと思いますか?」
吉田は膝を叩いて大声で笑った。
「確かに! あの高杉や桂のことを考えれば、
さんも一筋縄ではいかなさそうだ!」
腹を抱えて笑う吉田を冷たい目で見下ろしながら、
は汁物をすする。
吉田が
を助け出した時、「巻き込んじまって本当にすまない」と言った。あの混乱の最中ではそこまで
の考えは至らなかったけれど、この言葉はあの爆発事故を起こした犯人はこの吉田利麿だという確かな証拠だろう。
吉田は自分が爆発を起こしておきながら、それに巻き込まれた
に謝罪したのだ。
はそれが気にかかっていた。
市中で爆破テロを起こすような過激派攘夷志士が、一介の市民に簡単に頭を下げるだろうか。人質にとると言いながら縛り上げるでもないし、
には吉田が、そこまでの極悪人であるとは思えなかった。
「一体私を、何に利用するつもりなの?」
「じきに分かるよ」
吉田は捉えどころのない笑みを浮かべて、ゆっくりとお吸い物を飲み干した。
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