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「すみません! 大丈夫ですか!?」

金網の扉を開けて出てきたのは、ニット帽を目深に被った長身の男だ。
は、ボールの勢いに負けて転んでしまった静香を介抱している。いつもよりずっと視点が低いから、その男はまるで巨人みたいに大きく見えた。

「蹴り損ねちゃって。本当にすみません」

「いいえ。ちょっと驚いただけですよ」

静香はアスファルトに尻を着けたまま、にこりと笑って会釈する。は母親の横顔と男の笑んだ口元を交互に見やりながら、道端に転がったボールの行方を気に掛ける。歩道に沿うように植えられた植木に引っかかっていた。

「どうぞ」

「はい、ありがとうございます」

静香は男の手を借りて立ち上がって、もそれにならった。
男は落ちていた日傘を拾って、ボールがぶつかった衝撃で曲がってしまった骨を見た。

「これ、もう駄目ですね。弁償します」

「いいえ、そんな。構いませんよ」

「それでは申し訳ありませんから。こちらのブランドの物と同じ物でいいでしょうか?」

「まぁ、悪いわね。それじゃぁ、お願いしようかしら」

「では連絡先の方を伺っても? これは僕の家の電話番号です」

「それでしたら、武蔵森学園寮のへご連絡くださいます? こちら私の娘ですので」

「え?」

「はい、分かりました。では近日中に必ずご連絡します」

「えぇ、お待ちしています」

が何か言う前に、静かは上品に頭を下げて男と挨拶を交わしてしまった。男は戸惑うに笑いかけて、壊れた傘をを持ってフェンスの向こうに戻ってしまった。

「いい方ね」

と、静香は口元に手を当てて笑う。
は静かの勝手な行動に、むすりと唇を尖らせた。

「何勝手に約束してるの?」

「あらいいじゃない。せっかくのご好意ですもの」

「だからって……。この電話番号だって本当かどうか分かんないのに」

静香は、心底面倒くさそうなを眺めながら、何かとても面白いものを見つけたみたいに、楽しそうに笑って言った。

「その時はその時でしょう。別に傘一本弁償してもらえなくたって困らないわ。でももしそうしてもらえたら、嬉しいじゃない?」

「何が?」

「素直じゃないのね、相変わらず」

くすくすと笑いながら、静香はそれ以上何も言わなかった。

日差しの強い夏の午後だ。フットサルコートの中から、声が響いていた。





「で、電話きたの? それ」

「きたの。すごいと思わない?」

いつもより、の目が生き生きしている。藤代はそれが妙に嬉しくて、にこにこしながらの話を聞いていた。

昼休みの中庭である。武蔵森学園の男子棟と女子棟を隔てる渡り廊下に面したそこは、生徒達の憩いの場だ。藤代はそのスター性故に注目を集めているけれど、その隣で親しげに会話するは、それ以上の視線を集めている。知らぬが仏とはこのことだ。二人とも、自分達以外の生徒には全く無関心だった。

「なんだって? その人」

「同じ傘見つけたから、受け取りに来て欲しいんだって」

「どこ?」

「駅近くのフットサル場」

「俺も一緒に行っていい?」

「藤代くんは部活あるでしょ」

「だって面白そうじゃーん」

少しだけ困ったように、じっと見上げてくるを見下ろした。くるりとした黒目の上目遣いがとてもかわいらしい。どうして三上先輩はこんな子を嫌いだなんていうんだろうか。藤代には分からない。

「部活サボって怒られるの藤代くんだよ?」

「大丈夫だって! 前にも腹痛で病院行くって言って桜上水まで陣中見舞いに行ったことあるもん」

「何も言われなかったの?」

「ばっちり! タクにも協力してもらったけどね」

「タクって、誰?」

「あ、サッカー部のダチ。今度紹介するよ」

「別にいいよ、そんなの」

は軽く首を振って、前髪を揺らす。上から見ていると表情が見えなくなる。もったいなくて、覗き込みたくなった。だから迷わずにそうしてみた。

「そんな、遠慮しなくていいのにー」

は大きく瞬きをして、少しだけ驚いた。こんな小さな仕草がとてもかわいい。
どうしてだろう、他の女子と違って、藤代を見かけただけで黄色い悲鳴を上げたりしないからだろうか。は藤代が知っている女子とは、違った女の子だ。

「遠慮とかじゃないよ」

「じゃぁいいじゃん。ていうか今度サッカー部遊びにきなよ。歓迎するよ」

「……そろそろ授業始まるから戻るね」

「あ、もうそんな時間?」

そういえば、そろそろ辺りの生徒の数が減ってきたようだ。ぐるりと首をめぐらせたら、タイミングよく予鈴が鳴った。とたんに体が億劫になる。満腹中枢が満足して、脳が睡魔を訴え始める。

ちゃん次何?」

「数学」

「俺国語ー。一番眠いんだよね、鈴木センセ」

二人で渡り廊下に戻りながら、藤代はふと廊下の先にひらめいた人影を見た。教室に戻る生徒だろうか。数人で連れ立った女子生徒のようだったけれど、急いで教室に戻ろうとしているというよりは、何かから隠れるような秘密めいた仕草に見えた。恐れている事態の根っこでなければいいと、藤代は言葉にせず思う。

「じゃぁちゃん、気をつけてねー」

「何を?」

「今日フットサル場行くんでしょ?」

「あぁ、うん。ありがとう」

は踵を返すと決して振り返らない。選抜練習の後だって、挨拶をした後はもうまったく別の事を考えているみたいな顔をする。

だから、藤代は曲がり角にの姿が消えるまでずっと見送った。何も起こらなければいいと思う。女子棟の世界にだけある、妙な感情のこじれとかその渦とか、藤代は知識だけで知っているのである。



20080515