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はどうしてる?」

勝の脱いだ上着を受け取って、静香は「また始まった」と内心溜め息を吐いた。仕事から帰ってくるたびにこれだから質が悪い。というか面倒くさい。

「今日は選抜の練習ですって」

「選抜って、あの玲が監督してるっていう東京選抜か?」

「そうよ。何度も話したでしょう」

「あぁそうだったな。頑張ってるな、も」

「そうね」

「ところでの姿を見ないが、どうかしたのか?」

は武蔵森学園の寮に入ったでしょう。その前は榊さんのところにお世話になってたし、近頃は帰ってきてませんよ」

「あれ? 昨日帰ってきたとか言ってなかったか?」

「それは玲です。それに荷物を取りに来ただけですぐ戻ったって言ったでしょう」

「あぁ、そうか。そういえばそうだったな」

勝は別に物忘れが激しいわけではないし、ボケが始まっているわけでもない。サッカー協会の上層部で仕事をしていて、ついでに衆議院議員だ。頭はしっかりしているし、頼りがいのある人柄を静香は尊敬してもいる。

欠点といえば、稀に見る子煩悩ということが問題といえば問題だ。娘二人の溺愛ぶりは昔から近所の噂の種にされてきたけれど、娘のひとりは成人して就職もして、もうひとりの娘は有名な私立の中学校に入学して。そういう順調な道を歩んできているにも関わらず、鬱陶しいくらいに娘達を溺愛して自立させようとしない。

玲はサッカーの世界で生きているからまだましではあるけれど、は父親の元にいながら、あえてサッカーという言葉にすら触れずに生きている。思春期の娘にとって父親なんか大した存在感はないのだし、こういう詮索ばかりしていては嫌われるのも無理はない。

言っても聞かないと分かっているから、言わないのだけれど。

は元気にしてるかな? 連絡は取れないのか? いくら寮に入ってると言っても電話くらいできるだろ?」

「夜8時以降は電話もできない決まりなんだって前に言ったでしょう。いい加減に諦めなさい」

勝は未練たらたらな顔をして静香を睨んだけれど、静香はそれを無視して勝に部屋着のジャージを押しつけた。

がリストカットに依存してしまったり、入院してしまったり、いまだに病院通いを続けていることの原因の一つは確実にこの父親の子育て方針だ。静香はそれを分かっていながら、勝のあの性格を正せない。諭すこともできない。を慰めることもできないし、ましてや救うこともできない。母親だというのに。

「静香、今日の夕飯はなんだい?」

「里芋の煮物とか焼き魚とかですけど」

「今日は玲も帰ってこないのか? 二人きりで食事は寂しいな」

「……それもそうね」

せめて家族4人そろって食事できるくらいには家族関係修復しなければならないとは思うのだけれど、解決の切り口が家族離れて暮らすことくらいしか見つからない今、できることは他にないのだった。



「あれ、ちゃん。今日も出掛けるの?」

8月半ばの早朝である。武蔵森学生寮は部活に勤しむ学生のために盆と正月以外の休日も解放されている。

の部屋は二人部屋で、ルームメイトは笹原夏名という生徒だ。まだ夏休み中にもかかわらず寮に入っているのは、宿題が終わらないかららしい。それ以外にも理由がありそうだったけれど、は面倒だったので聞かなかった。

「うん。選抜の練習」

「あぁ、サッカーの? 毎週大変だね」

「うん。行ってくるね」

夏名に軽く手を振って挨拶をして、扉を閉める。廊下は冷房が効いていて涼しいけれど、外へ出てしまえば真夏の光の雨だ。は考えただけで憂鬱になった。

東京選抜のマネージャーをし始めてまだ一月経ったばかりだけれど、はまだ慣れていない。慣れるなど、無茶な話ではあるのだ。は今までこんなにアクティブな生活を送ったことなどないのだし、基礎体力もなければ気力もない。加えて、は夏が嫌いだ。じっとしているだけで汗をかくじとりとした感覚が不快だった。

けれど、選抜の監督であり実の姉である玲の手前さぼるわけにもいかない。不可抗力とはまさにこのことなのだろうだ、とはいつも思う。

「あ、ちゃんだ。おはよう!」

寮の門を出たところで、そうに挨拶をしたのは気持ちいいくらいの笑顔の藤代だった。隣には渋沢が立っていて、さらにその向こうには間宮がいる。

「おはよう」

「今出るところ? 一緒に行かない?」

きっと最初からそのつもりだったのだろう。武蔵森学園寮は一定地域に隣接していて、サッカー部員である藤代らが住む寮とが生活する寮は徒歩5分ほどの距離にある。そしてこの4人の行き先は同じで、4人ともそれを以前から承知していた。

「待ち伏せしてたみたいで、悪いな。さん」

と、詫びた様子もなく渋沢が笑顔で言った。

「いえ、別に」

「ちょっとキャプテン人聞き悪いっすよ? 通り道なんだからいいじゃないですか別に」

「……してたんだ?」

「いいじゃん? 通り道なんだし」

藤代は同じ事を二度言って、その奔放な言い回しには誰も口出しをしない。

夏の暑さに慣れないことには仕方がないけれど、藤代のこの気安さには慣れると言うよりももっと簡単な技術があればよかった。言うことを聞いていればいいのだ。藤代は間違わない。間違った道を行こうものなら、止めてくれる人が必ず側にいる。だから、藤代の側にいることは間違いではない。はそう思っている。



20080228