ふたりが睦まじくいるためには






山崎退 監察レポート

六月五日 晴
 江戸城の警備を担う武官、畠山元方が何者かに暗殺される事件が発生。
 この時、畠山は休暇中であり、友人とかぶき町歓楽街で飲み歩いていた際、小用に行くといって離席したきり戻らなかったため方々を探したところ、店の裏路地で太刀傷を負い倒れているところを発見された。
 死因は背中を斬りつけられたことによる出血死。その太刀筋は鮮やかで、たった一太刀で絶命したと思われる。
 近くの連れ込み宿の下働きに変装していた監察方の隊士の証言により、下手人は攘夷浪士、三浦次郎兵衞と断定。
 逮捕状を請求。
 捜査を開始する。


六月六日 曇り
 三浦次郎兵衞の居所が判明。
 かぶき町一丁目〇―△、旅館「籠屋」に停泊している模様。
 客になりすまし動向を探る。
 ほとんど部屋から出ず動きはないが、夜になると路地に出て女の袖を引いている。だが、追われている自覚はあるようで、手拭いでしっかり顔を隠している。結局、女は捕まらず宿に戻る。宿を出入りする際には、女将に何かをことづけていて、仲間の連絡を待っている様子である。
 酒を煽って真夜中二時ごろ、床に就く。



六月七日 曇り
 三浦、午前十時起床。
 仲間からの連絡はない。
 念のため、宿周辺を捜査するも、仲間が潜んでいる気配はなし。
 午前十時半、宿周辺への七番隊隊士五名の配置完了の連絡あり。突入の合図を待つ。
 仲間からの連絡がないことにしびれを切らしたか、三浦はいらいらした様子で、朝から酒を煽っている。日本酒を二合。もう十分酔っぱらっている様子である。
 手拭いで顔を覆い、おぼつかない足取りで宿を出る。
 ……。
 …………。
 トラブル発生。
 三浦、逃亡。後を追うも、見失う。





さん。ちょいとお時間いいですか?」

 屯所に戻ってくるなり沖田総悟に捕まったは、有無を言わさず会議室に通され、当惑した。

 沖田はまるで番をするように屯所の門の下に立っていて、が帰ってくるやいなや、険しい顔をしてを睨んだ。どうしてそんな苦いものを飲み込んだような顔をしているのか。にはさっぱり分からない。

 会議室には、真選組局長・近藤勲を中心に、副長・土方十四郎、監察方・山崎退がすでに着席していて、沖田はの斜め後ろに腰を落ち着けた。

 真選組幹部を目の前にして、けれどは物怖じすることもなく背筋を伸ばす。

「あの、ご用はなんでしょうか?」

 近藤は横目でちらりと土方を見やってから、咳ばらいをひとつして重い口を開いた。

「忙しいところすまないな、ちゃん、今日はどこまで行ってたんだ?」
「かぶき町です。すいません、私的な用で、今日は一日お休みを頂戴していたんですが……」
「あぁ、そうだったのか! それは突然呼び出したりして、悪いことをしたな」
「いいえ、そんなことは……」

 近藤の隣に座っていた土方が長く煙を吐く。近藤と山崎が顔色を悪くしたのが分かって、は身構えた。土方の眉間の皺が深い。

「今日、とある攘夷浪士を逮捕する手筈だったんだがな、予想外の事態が起こって計画が狂った。残念ながら犯人は逃走中だ」
「まぁ、そうだったんですか」

 土方は畳の目に視線を落としたまま、押し殺すように静かに淡々と話す。
 は思わず、土方に見惚れた。節くれだった指が煙草をリズミカルに揺らしている。何か考え事をしながら慎重に言葉を選んでいるようで、その真剣な表情は異様な色気を発していた。黙っていれば文句のつけようのない色男だ、黙っていれば、だが。

「お前、昼頃にはかぶき町にいたな?」
「えぇ」
「道中、泥酔した男に絡まれなかったか?」
「私がですか? いいえ」
「お前がそういう男と話をしているのを見た奴がいるんだ。嘘を言うな」
「嘘なんか吐いていません。確かに、場所が場所ですから、酔っ払いなんてそこら中にいたと思いますけれど……。あ、もしかしてあのことですか?」
「あのこと?」
「若い娘さんが酔っ払いに絡まれていたので、ちょっと手助けしてあげたんですが……」
「あの、それは、青い着物のお下げ髪の娘ではありませんでしたか?」

 山崎が口を挟んで、は頷いた。

「えぇ、そうよ。見てたの?」
「はい、まぁ、あの……」

 山崎は土方の顔色を窺って、ヒッと小さな悲鳴を上げた。近藤も顎髭をさすりながら不安そうに土方を見ている。土方はほとんど無表情ではあったが、視線を上げたその眼が恐ろしい赤色を帯びて光っている。

 の心臓が大きく跳ねた。土方の強い眼光に射抜かれて、体が動かなくなってしまう。膝の上で握りしめた両手が勝手にぶるりと震えた。

「てめぇ、その娘になんて言った?」
「……いえ、特別なことは何も……」
「なんて、言ったんだ?」
「……あの、こんなところをひとりで歩いていちゃ駄目よ、と……」
「それから?」
「……それから、家に送ってあげると言って、何かあれば、知り合いに警察官がいるからすぐに呼んであげるわよって……。そう言えば少しは牽制になるかと思って……。いけませんでしたか?」

 土方はを睨み付けたまま、長く煙草の煙を吐き出した。

 には、どうして土方がそこまで激しく怒るのか、全く意味が分からない。
 たちの悪い酔っ払いに絡まれた少女を手助けすることは、そんなに悪いことだったろうか。愛らしく若くてか弱い娘を、下品で粗野で理性を失った酔っ払いから守ってやれなくてどうするのだという使命感がにはあった。がまだ若くか弱い娘であったころには、力をひけらかすしか能のない無礼で乱暴で自分勝手な乱暴者に酷い目に遭わされたことがいくどもある。自分と同じような思いを、若い娘に味わってほしくはなかった。

「やっぱりてめぇのせいだったか……」

 土方がため息とともに呟いた言葉に、はかちんとして眉をつり上げた。自分はひとりの娘を危機から救ったのだ。褒められこそすれ、まるで余計なことでもしたかのように言われるのは心外だ。

「どういうことですか? きちんと説明してください」
「いや、それがな。その酔っ払いが、俺達が追っていた攘夷浪士だったんだよ」

 近藤が苦い顔をしながら答えた。

「潜伏先の宿屋は掴んでいたんだがな。いざ逮捕というタイミングでちゃんが現れちまったてわけさ」
「警察と聞いて逃げ出したのはそういうわけだったんですね」
「酔っぱらってるくせに逃げ足の速ぇ野郎で、まんまと逃げられちまったよ」
「お前さえ余計なことしなけりゃ一件落着したはずだったんだ」

 できるだけ穏やかに話を進めようとする近藤とは対照的に、土方はどこまでもいらいらとをなじる。

 は黙っていられなくなって、目を細めて土方を睨み返した。

「何も知らなかったんですもの。しょうがないじゃありませんか」
「知らなくったってなんだっててめぇのせいには変わりねぇだろ」
「じゃぁどうしろって言うんですか? 土方さんの代わりに私がその浪士を追って見事逮捕してくれば満足ですか?」
「そんなこと言ってねぇだろ。だいたいてめぇがそんなことできるわけねぇだろうが」

 は真選組の隊士ではない。あくまでも一介の家政婦だ。真選組の任務には一切関わらないと取り決めがされていて、それは他でもない、土方が指導したことだった。

「それじゃぁ、私にどう責任を取れって言うんですか?」
「責任を取れだなんて、誰もそんなこと言ってねぇだろうが!」
「言ってるじゃありませんか!」
「まぁまぁ落ち着けよ! ふたりとも!」

 睨み合って声を大きくした土方との間に、両腕を広げて近藤が言う。まだ言い足りないふたりは、出かかった言葉を喉の奥に飲み込んで肩で大きく息をした。ふたりとも、瞬きするのももどかしそうにお互いを睨み合っている。その不穏な空気を、さすがの近藤も収めきれずに途方に暮れて、横目で山崎に助けを求めたものの、山崎もふたりを止める自信はないらしく、額に嫌な汗をかきながら激しく首を真横に振った。

 近藤は藁をも掴む思いで、さっきからずっと黙りこくって部屋の隅に座っている沖田に視線を投げる。沖田は少し考え込むような顔をしてから、呑気な声で吐き捨てた。

「酔っ払いの人斬り浪人なんかに、愛しいさんが近づくなんて土方さんは我慢がならねぇんですって」
「誰もそんなこと言ってねぇだろーが総悟てめええ!!」
「じゃぁ酔っぱらった浪人ひとりとっ捕まえることもできねぇで取り逃がしちまった自分の無能さに蓋して、さんに罪を擦り付けようって腹ですかィ?」
「総悟ぉぉぉぉおおお!!」
「きっとそうね。そういう風にしか聞こえなかったわ」
「おい、てめぇ。それ本気で言ってんのか?」

 土方の眼差しは憤怒に満ちていて、少し気の弱い人間ならひと睨みされただけで腰を抜かしてしまいそうな力があったが、は一身にそれを受け止めた。
 土方が、自分を睨んでいる。底知れない恐ろしい力を宿した瞳が、じっと自分を射抜いている。それに立ち向かえるだけの力が自分にあるのかどうか試されている気がした。

「私はひとつも、間違ったことはしていません。土方さんの言うことはお門違いもいいところです」
「相手は腕の立つ武官を一太刀で殺せるほど腕の立つ男だ。お前なんか襲われたら確実に命はねぇ」
「だから、私が襲われたわけじゃないって言ってるでしょ」
「そうなってもおかしくなかったと言ってるんだ! そもそも、知らなかったとはいえ、あいつは人斬り浪人だぞ!? そんな男にふらふら近づくんじゃねぇよ!」
「か弱い女の子が怪しい浪人に絡まれていたら助けるのは当たり前でしょう!? むしろ、人斬り浪人だと分かっていたんなら真選組が彼女を助けてあげればよかったじゃない! それは職務怠慢とは言わないの!?」
「俺達の苦労も知らねぇで勝手なことを言うな!」
「えぇ、知りません! 私は真選組の任務には一切関わりませんからね!」
「それを分かってるなら首突っ込んでくるんじゃねぇよ!」
「だから、そもそも知らないことに首を突っ込むもないでしょう!?」
「ふたりともいい加減にしろ!!」

 獣のような声を上げた近藤は、いつになく厳しい顔をして腕組みをし、土方とを睨んだ。ふたりはまだ睨み合っていたが、近藤が呼び寄せた沈黙にはそう長くは耐えられない。

 土方は引きちぎるように絡み合った視線をはがすと、煙草に火を点けて悪態をついた。

「トシ、過ぎたことをもうとやかく言うな。ちゃん、忙しいところ悪いが調書を取らせてくれ。山崎、頼んだぞ」
「は、はいっ」

と、答えた山崎の声は、喉に張り付いてかすれていた。

 それを聞いてやっと我に返ったは、心配そうな顔をしてこちらを見ている山崎に申し訳ない気持ちになった。なんてみっともない姿を見せてしまったのだろう。それもこれも土方のせいだ。自分の失敗の原因をあろうことか家政婦に押し付けて、理不尽に怒鳴りつけて、こんなにも部下を心配させるなんて、とんだ横暴だ。

「分かりました。よろしくお願いします」

 は近藤に体を向けて丁寧に答えたものの、その視線はまだ土方を捕まえたままだ。

 土方はそれに気づいているのかいないのか、もう二度との姿など目に入れないとでも言いたげな顔をして明後日の方を向いている。

 煙草の煙を吐き出しながら、土方は言った。

「これだけは言っておく。二度と、怪しい浪人に近づくな。今のご時世、どこに人斬りが潜んでいるか分かりゃしねぇんだ。俺達の仕事の邪魔をするな」

 目も合わせずに言われた言葉に、ははらわたが煮えくり返るのを感じて、土方を睨み付けたまま目を細めた。

「あいにくですが、人斬りには慣れています。なにせ私は、武装警察真選組の家政婦ですからね」

 全員が息を飲むのが分かったが、はつんとすまして一礼すると、立ち上がって挨拶もそこそこに部屋を出た。これ以上、土方と同じ部屋の空気を吸うのも嫌だった。

 頭ががんがんする。あんなに大声を出したのはいつぶりだろう。怒りが収まらなくて、壁や柱を手あたり次第叩きつけたい気分だったけれど、どこで誰が見ているか分からない。やり場のない怒りが腹の中でとぐろを巻いている。大声で叫んで、遮二無二そこらじゅうを走り回りたいような気がする。

さん」

 声をかけられて振り向くと、沖田が立っていた。手に風呂敷包みを持っている。の荷物だ。

「忘れものですよ」
「あぁ、ありがとう」

 は受け取って、それをぎゅっと胸に押し当てた。ふうと、大きく息を吐く。そうすると、ようやく理性が手の届くところに戻ってきた。柔らかな風呂敷包みは、腹の中で暴れまわっている怒りのとぐろをふんわりと受け止めてくれる。

「ごめんなさいね、みっともないところを見せて」

 風呂敷に口元を押し付け、は恥ずかしそうに言った。沖田の顔を見ることができず、その視線は足元に落ちている。

「いいえ。いいもん見せてもらいましたよ」

 沖田はいつもと変わらぬ声で答えた。

さんも、言う時は言うんですね」
「そりゃそうよ。あんなの横暴よ、ひどい話だわ」
「まぁ、土方さんの言い分も分からなくはありませんけどねィ」

 そういう沖田を見上げて、はぽかんと目を丸くした。

「……どうして笑ってるの?」

 沖田は人が悪そうに目を細めてを見ていた。まるで、はしゃぎすぎて風船を手放してしまい、大空を見上げて泣き叫ぶ子どもを見下ろすような目をして。
 暴力的とも言っていいその笑みに、は頬を殴られたような衝撃を受けてまばたきを忘れた。

「人を斬ったことのある人間にしか、分からねえこともあるもんです。土方さんには分かって、さんには、分からないことが」

 沖田はそれだけ言うと、踵を返して会議室に戻っていった。
 残されたは、迷子の子どものような顔をしてその背中を見送った。





山崎退 監察レポート

六月八日 雨
 三浦の足取りは掴めず。
 真選組監察方の情報網を駆使しても思うように情報が集まらないところを見ると、すでに仲間と合流し、江戸を出奔している可能性もあり。
 捜査は継続。
 土方副長は不機嫌。あまり喋らない。
 昨日からさんとは顔を合わせても口をきいていない様子。
 屯所の空気が悪いことこの上ないので早いところ、仲直りしてほしい。


六月九日 雨
 今日も捜査に進展はない。
 やはりすでに江戸を出ているのか。その手がかりになりそうなものも見つからないので捜査を打ち切るわけにもいかない。
 上からの真選組の評判はガタ落ちである。
 近藤局長が松平片栗虎警察庁長官に頭を下げに行く。
 土方副長は相変わらず不機嫌。ほとんど喋らない。この悪天候で煙草が湿気っていらいらしている。
 やはりさんとは口をきいていない様子。
 屯所じゅうがいやな雰囲気。本当、いい加減に仲直りしてほしい。


六月十日 雨
 三浦は依然見つからず。
 これ以上どこを探せというのか、調べられるところは全て調べ尽くしたはずだ。これでまだ江戸に心服していると言うのなら、よほどうまい場所に隠れ家を用意したと見える。
 土方副長は依然、不機嫌。いらいらしすぎて、使い慣れたライターで親指の爪を焦がしていた。
 そんなことになるくらいならさっさと謝って仲直りしてくればいいものを!
 食堂の飯がまずくなった。
 これならまだ、北斗心軒の醤油ラーメンの方がましだ。
 本当に、いい加減に、仲直りしろよ。いい大人がふたりして意地を張ってみっともない。





「お茶、お持ちしました」

 は事務的な態度でそう言って、笑顔ひとつ見せずに障子を閉めた。
 膝をつき合わせて打ち合わせをしていた近藤と土方は、茶をすすって顔をゆがめる。異常に渋い味がした。

「トシ、お前まだちゃんと喧嘩してんのか?」
「喧嘩じゃねぇ。向こうが勝手にへそ曲げてるだけだ」

 土方は強情にそう言い、近藤は苦笑した。土方は嘘を吐くのが下手だ。子どものように意地を張って、こういうところは昔からちっとも変わらない。

「なんでもいいけどな、早いところ仲直りしねぇと、どんどん気まずくなる一方だぞ。さっさと謝っちまえよ」
「なんで俺が謝らなきゃならねぇんだよ。悪いのはあいつだろ?」
「俺に言わせりゃどっちもどっちだがな」
「近藤さん!」

 土方は膝をばしんと叩いて、真面目な顔をして近藤に詰め寄る。

「あいつが余計なことをしたせいで犯人を取り逃がしたんだぞ?」
「だが、ちゃんはそれを知らなかったわけだしなぁ」
「知らなかったとはいえ、昼間っから酔っぱらってるあんな人相の悪い男にほいほい近づくなんて、考えなしにもほどがある」
「まぁ、トシが心配する気持ちも分からなくはないが……」
「心配なんかしてねぇ。あいつの馬鹿さ加減に呆れてるだけだ」

 近藤は苦笑して、ぽりぽりと顎を掻いた。へそを曲げているのはお前も同じだろうに、言っても仕方がなさそうなので話題を変えた。

「で、三浦の行方は分かったのか?」
「いや、だがおそらくまだ江戸に潜伏していると思う。監察方に調べさせてるから、もうそろそろ何か情報が上がってくるとは思うが……」
「山崎がずいぶん参っていたぞ。本当に大丈夫か?」
「あいつはいちいち大袈裟なんだよ。俺も張り込みに参加することにするから、こっちは任せる」
「副長自ら動くようなことか?」
「こんな事件にいつまでもかかずらわってられるか。それに、ひとつ心当たりがある。任せてくれねぇか」
「分かった。ただ、ひとりで無茶をするなよ」
「分かってる。発見し次第すぐに連絡する」
「ところでトシ」
「なんだ?」
ちゃんとはいつ仲直りするんだ? 食堂の飯も茶もいつまでもこの調子じゃかなわんのだが」

 土方は眉間に深い皺を刻んで難しい顔をし、何も言えずに唇を噛みしめた。





山崎退 監察レポート

六月十一日 雨
 捜査の範囲を拡大。
 土方副長も張り込みに参加、監察方の士気も上がったようである。
 副長の手前、気合いを入れざるを得ない、という側面もあるが……。
 三浦は、未だ見つからず。





 コンビニエンスストアの店先で、雨空を見上げて途方に暮れている人がいた。

「あれ、さん?」

 右手に傘、左手に大量のあんぱんが詰め込まれた大江戸マートのビニール袋をぶら下げた山崎が声をかけると、はたった今目が覚めたような顔をして振り返った。

「あぁ、誰かと思ったら山崎くん」
「そうですよ。誰だと思ったんです?」
「いつもと格好が違うんだもの。分からなかったわ」

 今日の山崎は、髪を首の後ろで縛り、格子柄の着物に紺色の袴を着ていて、どこにでもいそうな町人のような出で立ちだ。これは張り込み捜査のための扮装なのだが、がこの格好を見るのは初めてらしい。

「こんなところで何してるんですか?」

 山崎は店の軒下に入って傘を閉じながら言う。
 は苦笑して、手に持った傘を持ち上げてみせた。

「ちょっとお店に入っている間に、こんなことになっちゃってね」

 その傘は、骨が折れ、ビニールが破れてひどいありさまだ。おそらく、が店に入っている間に、誰かが壊れた傘との傘を取り替えて行ってしまったのだろう。

「ひどいことする人がいるもんですねぇ」
「本当よね。ショックでちょっと動けないでいたの」
「大事な傘だったんですか?」
「ううん、ただのビニール傘。でも、なんだか近頃災難続きで、こういうことって続くのね」

 疲れのにじんだの横顔を見やって、山崎は同情した。

 はまだ土方と喧嘩の真っ最中で、それでも仕事中は顔を合わせないわけにはいかないのだ。あれからもう五日。相当ストレスが溜まっていることだろう。

「よかったら、ひとつ食べませんか?」

 山崎はビニール袋からあんぱんをひとつ取り出して、に差し出した。

「ありがとう」

 そして、ふたり並んであんぱんを食べた。振り止まない雨は雨脚を強めるばかりで、軒先に立っていると足元が濡れた。

「そんなにあんぱんばっかり食べていたら、栄養が偏らない?」
「張り込み中はあんぱんと牛乳って決めてるんです。願掛けってやつですね」
「そうなの。早く終わるといいわね、張り込み」
「はい、頑張ります。さんは? そろそろ終わりにしないんですか?」
「何を?」
「副長とまだ喧嘩してるんでしょう?」

 はあんぱんを噛みしめるふりをして黙り込んだ。

 もしかして触れない方がよかったかと山崎は迷ったものの、土方とがいつまでもこの調子では屯所の空気が悪くて仕方がないのだ。このあたりでそろそろ手打ちにしてもらわないと山崎だって困る。

「土方さんのことはね、別にどうでもいいんだけど」

 山崎はぽかんとして、危うくあんぱんの欠片が口から飛び出しそうになった。

「え? どうでもいいんですか?」
「えぇ。もうね、土方さんのことだもの。私のこと心配していろいろ言ってくれてるのは分かるのよ。言い方が最悪なだけでね。いくら機嫌が悪かったからって、何にも知らなかった私にあそこまで言うことないと思わない?」
「えぇ、確かにそうですね」
「でも、それは本当にもういいの。私が飲み込めばいいだけの話よ。私が気にしてるのはそういうことじゃなくて……」
「なんですか? 話してくださいよ」

 はあんぱんを飲み込み、空になった袋をきれいに伸ばして、くるくると丸めて一本の棒のようにする。それをきゅっと結んで、手の中に握り込む。

「みんなに、悪いことを言ったわ」
「どんなことですか?」
「……人斬りには慣れてるって……」

 は握りしめた手のひらを見下ろして、静かに呟いた。雨音にかき消されてしまいそうな、小さな小さな声だった。

「ひどいことを言ったわ」
「そうですか? でもまぁ、それは事実ですしねぇ。誰も気にしちゃいませんよ」
「でも、太ってる人にあなた太ってるわね、って言ったらそれは悪口でしょ。それと同じで、事実を事実として口に出して言うことが相手を傷つけることだってあるじゃない……、そういう自分が嫌で嫌でもう……」
さんってすごく良い人ですよねぇ」

 山崎が感心して言った言葉に、はなんとも言えない複雑な顔をした。

「こんなときに褒められてもちっとも嬉しくないわ」
「別に褒めてはいませんけど」

 眉根を寄せて首を傾げるを見て、山崎はからりと笑った。

さん。俺達はそんな悪口なんて言われ慣れてますよ。幕府の犬だの、人斬りだのって。だからもうそんなのはただ事実として受け止めてるだけっていうか、それだけなんです。そんな言葉ひとつひとつにいちいち傷つくほど暇じゃないんです。俺達が人を斬るのには理由があります。それは相手が不逞浪士であるとか、犯罪者だからだとか、いろいろありますけれど、そういう悪人を斬っているのだとしても、俺達を受け入れられない人はいるでしょう。もしそういう人が俺達を人斬りと呼ぶのであれば、それは悪口でしょうけれど、さんは俺達をそんな風に思ってるんですか?」
「まさか、そんなわけない」
「それを俺達はちゃんと分かっています。だから、いいんです。喧嘩してかっとなってそういう言葉が出てくるのなんて、全然おかしなことじゃありませんよ。沖田隊長と土方さんがいつもなんて言い合ってるか知ってるでしょう。喧嘩なんてそういうもんです。大丈夫です。みんな怒ったりなんかしてませんよ」

 山崎がこぶしを握り締め、力づけるように言うと、はやっと笑みを見せた。その目に光るものがあって、は慌ててそれを指で拭う。

「……山崎くんって本当にいい人ね」
「いえいえ、そんなこと、もっと言ってください」

 が肩を震わせて笑うので、山崎も嬉しくなって笑った。近頃のはいつ見ても仏頂面をしていたから、こんな風に笑うのを見るのは久しぶりだ。嬉しかった。

「副長とも、早く仲直りしてくださいね」
「えぇ、そうするわ。心配かけてごめんなさいね」
「いいえ、いいんです」

 と、その時だ。

 急に後ろから肩を掴まれた山崎が振り向くと、間髪入れずに殴り飛ばされた。雨の中、アスファルトを滑るほど吹っ飛ばされた山崎は、それでも殴られ慣れているので痛みに起き上がれないということはなかったが、衝撃で頭がぐらぐらした。

 腫れた頬を押さえて体を起こしてみたら、の腕を引いて雨の中を駆けていく土方の後姿が見えた。

 どこから見られていたんだろう、と山崎は考える。どこから見られていたにせよ、きっとを泣かせたと誤解されて殴られたのだろう。簡単に想像がついて、山崎はアスファルトに座り込んだまま雨空を仰いだ。

 自分が悪者になってふたりが仲直りしてくれるなら殴られたかいもあるものだが、なんだろう、この虚しさは。

 アスファルト一面にばらまかれたあんぱんが、雨に打たれて悲しく喚いている。





 三浦の仲間ではないかと思われる男が住む長屋を見張るために用意させた宿の一室から、土方はを見ていた。コンビニエンスストアに入るところから、山崎が通りがかってふたりであんぱんを食べるところまで、ずっとだ。

 別に、を見張るためにわざわざ部屋を借りたわけではない。
 長屋の男を頼って三浦がここへ逃げ込んでくるのではという可能性にかけて自ら監視の仕事などしていたのだ。

 そもそもがこんな寂れた界隈にまで足を延ばしているだなんて知らなかったし、そこにどうして別の場所で潜伏調査をしているはずの山崎があんぱんぶら下げて通りがかるのか、まさか仕事さぼってんじゃねぇだろうなあいつ、と内心ぶつくさと言い訳と文句を呟きながら、土方はずっとふたりを見ていた。
 
 ふたりがいる場所までは距離があったし、この激しい雨のせいで、何を話しているのかまでは聞き取れなかったが、が目元を拭うような仕草をしたのを見て、土方の中で何かが切れる音がした。の傘をチンピラがくすねてしまったのを見た時は、たかがビニール傘一本のことと思って必死で自分を抑えたのだが、今度は全く自制ができなかった。
 
 傘も持たずに宿を飛び出し、わき目も降らずにコンビニに走る。山崎の背後から近づいた土方を見て、がぽかんと目を丸くしたのが分かったが、そんなことはもうどうでもよかった。
 
 山崎が何を言ったか知らないが、は確かに泣いていた。
 力任せに山崎を殴り飛ばして、の腕を掴んで雨の中に連れ出してしまう。が何か言った気がしたが、雨音がうるさいせいだと自分に言い訳をして無視した。
 
 雨脚は強く、宿に戻ったときは土方ももびしょ濡れだった。

「あら、お連れ様ですか?」

 奥から顔をのぞかせて、宿の女将が言う。捜査のために部屋を借りている警察が女など連れ込んで、と疑わしい顔をしていたが、土方は無視した。

「あぁ、悪いがタオルか何かもらえねぇか?」
「はい。お部屋にお持ちします」

 土方は何が何だか分からずにいるの、額に張りついた前髪を払う。雨で頬が濡れていて、もう涙の痕は分からなかった。

「土方さん? 何なんですか? これ」
「落ち着け。とりあえず部屋行くぞ」

 ほんの数分のこととはいえ、目を離した隙に長屋に何か変化がなかったか気掛かりだった。

 部屋に戻ってすぐ、長屋に面した窓から外を覗いてみる。どうやら変化はないようで、土方はほっとした。濡れた隊服を脱いで、ハンガーにかける。

 部屋の入り口に立っていたが、女将からタオルを受け取っていた。

「あの、良ければ着替えなどもお持ちしましょうか?」
「あぁ、助かります。ありがとうございます」
「あの、お部屋はご一緒でよろしいので……?」
「えぇ、はい。結構です。本当に、お騒がせして申し訳ありません」

 そんなやり取りが聞こえてきて、土方は内心ほっとした。あの喧嘩をしてから、とはほとんど口をきいていない。もし同じ部屋の空気を吸うのも嫌だとか言われたらどうしようと不安にも思っていたのだ。

「土方さん。タオルどうぞ」
「俺はいいよ」

 けれど土方は、の目を見ることができなかった。どうしてここへ連れてきたのかとか、聞かれたらどう答えればいいだろう。山崎に泣かされているのを見て、居てもたってもいられなくなったと、正直に答えられる気がしなかった。

「お仕事中でしたか?」
「まぁな」
「どうして私、連れてこられたんですか?」
「まぁ、あれだ。傘、なくしちまったんだろ?」
「どうして知ってるんですか? もしかしてそこから見てたんですか?」
「捜査のためだ」
「見てたんなら、私の傘を盗った人、捕まえてくれたらよかったじゃないですか」
「今は窃盗犯を追ってる場合じゃねぇんだよ」
「だったらなんで私をここに?」
「だから、傘ねぇんだろ? びしょ濡れになって屯所まで歩くよりましじゃねぇか」
「コンビニで傘を買うお金くらいあります。かえってこっちに来た方が濡れちゃいました」
「そりゃぁ、悪かったな」
「土方さんっていつもこう……」

 の声に棘が混じる。それは土方の神経を逆なでて、その声を荒っぽくした。

「どうせ俺のやることなすこと、お前は全部気にいらねぇんだろ」
「誰もそんなこと言ってません」
「だったらなんだよ、かわいくねぇ口聞きやがって」
「かわいいとかかわいくないとか関係ないでしょ」
「少しは俺の苦労も考えろって言ってんだよ」
「そんなこと知りません。私は真選組のお仕事には首を突っ込めないことになってるんですから」
「そんな話してねぇだろうが」
「それじゃ何が言いたいんですか? 私にも分かるように話してください」
「あの、着替えをお持ちしましたけれど……」
「あぁ、ありがとうございます」

 女将には丁寧に礼を言って、は着替えの着物を受け取った。土方は努めて後ろを振り返らないようにしながら、無理矢理長屋に目線を縫い留めた。自分が今、全く冷静でないことは分かっていた。たがが外れたら何をしてしまうか分からない。

 激しい雨の音だけがしている。

 それでも、あれ?というの小さな声を、土方の耳は聞き逃さなかった。

「どうした?」
「いえ、あの、帯が……」
「帯?」
「濡れてうまくほどけなくて……」

 土方は散々迷ったあげく、と目を合わせないようにしてその背に立った。雨に濡れた帯は水を吸って重くなっていて、確かにこれをほどくのは女の力では骨がいりそうだ。

「ほら」

 土方が帯をほどいてやると、その反動での体が揺れた。見下ろしたうなじが雨に濡れていて、そこから甘く蠱惑的な香りが立ち上ってきて、頭を殴られたような気分になる。

「ありがとうございます。後はひとりでできます」

 けれどは不機嫌にそういうので、手を離すしかなかった。

 土方は窓辺に腰を下ろして、じっと長屋を睨んだ。
 が着物を脱ぐ衣擦れの音が、雨音に混じって聞こえてくる。土方は気が狂いそうに苦しくなって、今更気が付いたように煙草を取り出したが、雨の中に飛び出してしまったせいで水没してしまっていた。舌打ちをして、ライターをポケットにしまう。

 に謝らなくては、と思ってはいた。

 けれど、何をどう謝ればいいのか、土方には分からなかった。
 きついことを言ってしまったとは思うが、そもそもが浪士に絡むようなことをするのが悪いのだし、だいたい危機管理能力がなっていないのだ。これまでにも何度も危ない目に遭っているのだから少しは学習しているはずなのに、どうしては面倒なことに首を突っ込みたがるのだろう。

 本当に危ない目に遭ったらきっと助けてやろうという覚悟は、土方にもある。けれど土方は超人ではないし、その両手で守り切れるものの数などたかが知れている。だからこそには、土方の実力を過信してほしくなかった。いざというとき、土方がを守れる保証など、どこにもないのだから。

 雨に打たれて体が冷えたのか、土方は長屋を睨んだままくしゃみをした。

「大丈夫ですか?」

 静かな声で、が言う。
 土方は手の甲で鼻を拭って、やせ我慢を言った。

「平気だ。気にすんな」

 それに答えは返ってこず、けれど後ろを振り返るだけの勇気も持ち合わせのない土方はただ待った。

 ふわりと、土方の頭の上に柔らかなタオルの幕が下りきた。タオル越しにの手のひらを感じて、土方は息を詰めた。

「風邪、引きますよ」

 は土方の髪と肩、濡れた隊服をたんたんとタオルで拭ってくれる。乾いたタオルが頬を撫でるのが心地良くて、土方は目を閉じてしまいそうになるのを必死で耐えた。今はまだ監視の最中なのだ。隊服は血痕を残さないために撥水性があるので、そうするだけでずぶ濡れになってしまったの着物よりはましになった。

「……ありがとよ」
「いいえ」

 の手は、土方の肩に乗ったまま離れていかなかった。その軽い重み。

 振り返ろうか。土方は散々迷った。
 は今どんな顔をしているだろう。恨みがましく、自分の背中を睨んでいるだろうか。そう思うと体が動かない。

「なんで、泣いてたんだよ?」

 口をついて出た声は、子どものように拗ねた口調になった。なんだか照れ臭かったが、口から出てしまったものはもう取り戻せない。

「本当に、なんでも見てるんですね」

 ため息交じりには言った。その声は、土方の頭の後ろに柔らかくぶつかる。

「泣いたのはちょっとだけです。すぐ引っ込みました」
「ちょっとでも、泣いたもんは泣いたんだろうが」
「たまにはそういう気分になることもありますよ」
「だから、それがなんでだって」

 の手が、土方の肩をマッサージするように動く。あまり力は入っておらず、まるで、私はここにいるぞと静かに自己主張をするような手付きだった。

「土方さん。人を斬るって、どんな感じなんですか?」
「なんだよ、藪から棒に」
「それを考えていたら、なんだか、泣けてきたんです。どうしてでしょうね」

 その時、の苛烈に燃える鋭いまなざしが、土方の脳裏によみがえった。これはなんだろうと思い返して、大声を上げてと言い争った日のことだと思い出す。

 とあんなに激しく言い争ったのは初めてだった。いつも微笑みを絶やさない穏やかなが、あんなに激しい目を自分に向けるだなんて信じられなかった。それがかえって土方の怒りを煽ったのだ。

 あの日の、の目。
 真っ向から土方に歯向かった目。
 それに似ているものを土方は知っている。

 あれは生身の刃を抜き合って、互いの命を奪い合おうとする者の目だ。日々、幕府にあだなす攘夷浪士と刀を交えている土方にはなじみの目だった。

 人を斬るということはどういうことか。

 それは、生身の体を、命を、白刃のもとに晒し、命そのものを露にすることだ。たとえ相手がどれほど憎んだ敵であっても、刀を交える以上、そこに嘘や誤魔化しは通用しない。殺されないための小細工ならいくらでも使えるが、本気で命を取りに行こうとする刀の前で、ひとは丸裸になる。

 人を斬ることは、女を抱くことに似ている。小細工はいくらでも使えるが、嘘や誤魔化しは、女の前では通用しない。のように聡い女にはなおさら。

「土方さん?」

 がしびれを切らしそうになった時、土方が睨んでいた長屋の前に、傘を差した男が現れた。そわそわと周囲を気にしていて、手拭いを頭に巻いて顔を隠しているが、間違いない。

 土方はの手を振り払って、携帯電話を鳴らす。

『副長?』

 山崎はワンコールで出た。

「三浦が来たぞ。例の長屋だ。雨に紛れてきやがった」
『分かりました。五番隊、すぐに出動させます。副長も応援お願いします』
「俺は行かねぇから」
『はぁ!? 何言ってるんですか!? 犯人目の前にいるんでしょう!?』
「お前に任せる。手柄はくれてやるから、間違いなくやれよ。それでさっきの件はチャラにしてやらぁ」
『さっきのことは誤解なんですってばふくちょ』

 山崎はまだ何か叫んでいたが、土方は無常に電話を切って、電源も切ってしまう。

「大丈夫なんですか?」

 が心配そうに言ったが、土方は平然と答えた。

「気にすんな。二度同じヘマやるほどあいつらも馬鹿じゃねぇよ」
「そういうの、仕事放棄っていうんじゃありません?」
「今この瞬間から俺は休暇だ」

 土方は携帯電話を部屋の隅の届かないところまで滑らせると、ぐるりと体を反転させて目を丸くした。

 土方の真後ろに膝をついていたは、雨上がりの青空のような水色の着物を着て、居心地悪そうに土方を見ていた。袖には紫と黄緑色の小花が散っていて、まるで若い娘のようだ。鮮やかな水色のせいか、やけに肌が白く見える。

「……そんなにじろじろ見ないで……」

 は、土方の髪を拭っていたタオルで顔を隠そうとしたが、土方はそれを取り上げてこれも部屋の隅に放り投げた。

「ちょっと!」
「なんだよ!」
「似合わないの分かってるんですから! 笑いたいなら笑えばいいでしょ!?」
「誰もそんなこと言ってねぇだろうが!」
「もう本当やだ、死にたい……」

 は両手で顔を覆って、へにゃりと座り込んでしまった。隠しきれていない耳の先が真っ赤だった。

 宿の女将がに貸した着物は、おそらく女将の娘の持ち物なのだろう。確かに、の年齢の女が着るような柄の着物ではないのかもしれないが、着慣れない柄の着物に照れて小さくなっているは、新鮮にかわいらしかった。
 
 タオルで拭ったとはいえ、雨に濡れたの髪はまだ乾ききらずに湿っていて、束になって肩に落ちかかっている。土方は指先でそれをすくい上げて、の首筋に手を入れて長い髪を梳いた。びくりと、の肩が震える。

 土方はの耳元に唇を寄せて囁いた。

「人を斬るってのがどういうことか、教えてやろうか?」
「なんですか?」

 は指の間から土方を上目遣いに見上げる。
 土方は空いた手での顔を覆っている手を引きはがして、押し付けるように口づけた。

「なに?」

 は不満そうだった。土方が言っていることとやっていることがばらばらで戸惑っているようだったが、土方はかまわずにの体を抱き寄せる。

「ねぇ、なんなの?」

 至近距離からに睨まれて、土方は思わず笑ってしまった。

 はいつも、土方に気を遣っているのか、顔色を窺っているのか、はたまた猫をかぶっているのか、人のいい笑みを浮かべてにこにこしてばかりいる。もっとの生々しい感情に触れてみたいと、土方はずっと思っていた。それが怒りや憎しみのような暗くねばついた感情でも、それが自分に向けられていると思うと嬉しくて仕方がなかった。

「なにがおかしいの!?」

 しびれを切らしたが土方の胸を叩く。土方は平然とそれを受け止めて、また笑った。

「いやだって。お前のそんな顔、初めて見た」
「ばかにしてるでしょ」
「してねぇよ。なんだよかわいくねぇな」
「さっきからそればっかり……」
「機嫌直せよ。いい加減に仲直りしようぜ」

 ついに言葉が尽きたのか、は黙って土方を睨み返すだけになってしまったので、土方はもう答えを待たずにを押し倒した。



 薄く開いたままの窓から、激しい雨音が響いてくる。
 その向こう側で、真選組が長屋に乗り込む威勢のいい声と、剣劇の鋭い音、浪士の悲鳴が上がった。
 雨の向こうから、真っ赤な血の気配が漂ってくるようだった。





十八歳以下立入禁止




20170620