校舎の軒下に燕が巣を作った。
親鳥が卵を産み、卵が孵って生まれたひなは、毎日飽きもせずえさを求めてぴぃぴぃと鳴いている。
毎朝登校するたびその鳴き声に耳を傾けていたら、それはいつの間にか私の大切なルーティンのひとつになった。
生まれたばかりの命の叫び。
いつか悠々と大空を羽ばたくために、せっせとえさを食べてすくすくと育っていく小さな命のきらきら。
覚えた足音
ごつごつと耳障りな音を立てて、通路の向こうからサッカー部がやってきた。サッカー用のスパイクの靴底にはスタッドという突起が付いていて、その靴でコンクリート補装の通路を歩くとそういう音が鳴るらしい。
「
」
音に混ざって声を掛けてきたのは水野くんだ。
「あ、水野くん。これから部活?」
「あぁ。
は? もう帰るのか?」
「うん。これから塾なの」
「そっか。忙しいんだな」
「そうでもないけど。あ、今度の日曜日、試合なんでしょ? 見に行くね」
「ありがとう。じゃ、またな」
「うん。ばいばい」
水野くんは武蔵森サッカー部の10番で、中学時代からの友達だ。同級生の男の子と比べてとても大人っぽくて、落ち着いた佇まいをしていて、とてもかっこいい。学園内にファンも多くて、誕生日やバレンタインにはプレゼントとチョコレートの山に囲まれている。みんなに大人気の武蔵森の王子様。中学からの付き合いだというだけでそんな人と友達でいられるというのは私にはもったいないことだと思う。
水野くんは眩しい。私と同い年の高校生で、同じ学校で同じように授業を受けて部活をして、そんな普通の高校生同士だと思っていたのに、それは私だけがそう思っていただけのことだったみたいだ。
水野くんはもうすぐプロのサッカー選手になる。高校を卒業する前に、プロのチームに入団することが決まったのだそうだ。その準備のためなのか、登校する日数も減っているし、今日顔を見れたのだって一体何日ぶりだろう。
プロチームへの入団は水野くんにとっては大きなチャンスに違いなく、もちろんそれを応援したい気持ちはあるけれど、同時に私の心は梅雨空のようにどんよりと曇る。
本当に、水野くんは遠い人になってしまった。そしてこの距離は二度と縮まることはなく、広がって、広がって、やがてその姿も見えなくなるくらい広がって、いつかお互いの顔すら思い出せなくなってしまうんだろう。
そんなことを考えていたら、スパイクがコンクリートをこする音が戻ってくる。振り向くと、水野くんが駆け足で戻ってくるのが見えた。
「
!」
「どうしたの?」
「あのさ、日曜の試合の後、時間もらえないかな?」
「うん、いいけど……」
「良かった。あ、」
水野くんは軒先を見上げると、ふんわりと柔らかく微笑んだ。水野くんが燕の巣を見上げる瞳は、不思議なほど温かく、薄茶色の瞳に光がきらりと反射した。
「燕の巣、見てたんだ」
「あぁ、うん」
私は間抜けな相槌を返し、練習に戻る水野くんの後姿をぼんやりと見送った。
* * * *
日曜日の試合は大盛況だった。もうすぐプロになるという高校生が出場する試合だったし、水野くんのファンはこぞって応援に駆け付けた。大きな大会の決勝戦みたいな盛り上がりだ。
観客の多さに尻込みしてしまった私は、できるだけ目立たない会場のすみっこでひっそりと試合を見ていた。本当はできるだけ近くから水野くんを応援したかったけれど、少し距離を置いてみるとグラウンドを一望できるし、サッカー観戦をするにはこの方が好都合だと自分に言い聞かせた。
90分の試合中、私はずっと、水野くんだけを見ていた。サッカーをしている水野くんはどんな時よりも輝いていて、水野くんほどかっこいい人はこの世の中にいないんじゃないかと本気で思えてしまうほどだ。
中学生の時から、他愛もない話をして笑い合った友達だったのに、水野くんは今、こんなにたくさんの人に囲まれて、愛されて、求められて、輝いている。
燕は春に生まれて、寒い冬が来る前に温かい南へ旅立つ。私の大切な毎日のルーティンは、燕が巣立ったら空っぽの巣を眺めるだけの空しいものになった。水野くんがいなくなったら、私はきっと空っぽの燕の巣のようになるだろう。
それでも私は、心からおめでとうと言って、晴れやかな気持ちで送り出してあげなくちゃならない。遠く離れてしまうくらいなら、せめていい友達のまま、きれいな思い出になりたかった。
「ごめん! 待たせちゃって……」
燕の巣の下で待っていた私のところに、水野くんは息を切らせて走ってきてくれた。武蔵森サッカー部の指定ジャージにナイキのスニーカー。スパイクのごつごつした音じゃなくても、この足音は水野くんが走る足音だとなんとなく気づいてしまった自分が恥ずかしかった。
なんだかもう、ただただ、私は水野くんに夢中だ。
ユニフォームから着替えたばかりなのに、私のためにほんのり汗をかいてくれたことが、体が震えるほど嬉しかった。
「ううん、そんなに待ってないよ。ファンの子、いっぱい来てたね」
「本当、困ったよ。写真とかサインしてほしいとか……」
「すごい。もうすっかり有名人だね」
「そんなんじゃないって」
水野くんは乱れた息を整えると、くいと顎を上げて校舎を見上げた。空っぽになった燕の巣が、秋の空気にしんと静かに冷えている。
「今日はいないんだ」
「うん。最近見ないんだよね。もう巣立っちゃったのかも」
「夏頃あんなことがあったのに、他のひなはちゃんと巣立ったんだな」
突然そんなことを言われて、私は面食らってしまった。
初夏の頃、ひなが一匹、巣から落ちて死んだことは、もう私しか覚えていないような些末な出来事だと思っていた。
ひなの亡骸を、みんな気持ち悪がって遠巻きに見ていた。まだ羽の生えそろっていないひなは赤っぽい肌が黒い産毛の間から透けていて、クリスマスにテーブルに並ぶチキンが生き物の気配をまとったようにグロテスクだった。女子生徒はそんな必要もないのに通路の端を通ってできるだけ近寄らないようにしていたし、男子生徒は「キモイ!」と大声で叫びながらげらげら笑っていた。そんなことが、夏にあった。水野くんがそれを覚えていただなんて。
「
さ、あの時死んだひな、中庭に埋めてくれたんだろ?」
「……なんで知ってるの!?」
私は驚きのあまり大声を上げて両手を前に突っ張った。
誰にも話していないことだった。みんなが汚いものには触らないようにひなの亡骸を避けて歩くから、あんまりかわいそうになって授業をさぼってひとりでお墓を作ってあげたのだ。
いや、ひとり、というと語弊がある。授業をさぼっていることを学園の業務員さんに見つかって怒られて、事情を話したら、たまたまその日は造園屋さんが中庭の植木の剪定に来ていて、これから植える木の根元にひなの亡骸を埋めてあげると言ってくれて、私はただ、土の中に横たえられるひなを見ていた。ひなの上に育った植木を、私は勝手にひなのお墓だということにして、他に人がいないのを見計らって、時々手を合わせていた。授業中のことだったから、他の誰も知らないと思ってたのに。
水野くんはぷっと噴き出して笑った。
「そんなにびっくりすることないだろ」
「びっくりするよ。誰にも言ってなかったのに……」
どうしようもなく恥ずかしくて両手で顔を隠してしまう。別に悪いことをしたわけじゃない。秘密にする必要すらなかったことだ。
誰も知らないと思っていたことを、大好きな人に知っていてもらえた。顔から火が出るほど恥ずかしい。けれどそれは、嬉しい気持ちにとてもよく似ていた。
「
って本当、優しいやつだよな」
水野くんの声が柔らかくて、顔を覆った指の隙間から見上げてみる。水野くんは大人っぽく微笑んで、薄茶色の目で私を見ていた。
じっと、私を見ていた。
「俺、もうすぐクラブチームの寮に入るんだ。だから、もうあんまり学校来れなくなるんだよ」
「……そうなんだ」
「だから、
に頼みがあって」
「頼み? 何?」
水野くんが私の手を取った。耳に火が着いたように熱くて、ものすごくみっともない顔をしていることが分かる。けれど、水野くんの両手が私の手を握っている。試合の後だからか、ほかほかと温かい手。指先から力が抜けた。
「これからは、学校の外で会えないかな?」
「学校の外?」
「うん」
遠く離れていくと思っていた水野くんが、今、私の手を取って目の前にいる。
「
のことが好きなんだ」
奇跡みたいだった。
この4年後....
20170205
(企画「HEROs&FOOLs」参加作品。)