ここから動かない
『ごめん。今日の約束、また今度にしてもらえないかな?』
電話の向こうから申し訳なさそうな声で言う水野くんに、私は心底腹を立てている。
「……また?」
久しぶりに話せたのにイライラしたくないし、水野くんは私と違って忙しいんだからきっと何か大事な用ができてしょうがなくそんなことを言ってるんだと想像もつくんだけど、ふつふつとわきあがってくる怒りが収まらない。私がどれだけ今日を楽しみにしてきたか分かってる!? って怒鳴り散らしたい。それをぐっとこらえて、私は水野くんには見えない場所で、ぎゅっと拳を握り締める。
『本当にごめん。この埋め合わせは必ずするから』
「……前も同じこと言ってなかった?」
『……本当にごめんって』
バカの一つ覚えみたいにごめんごめんって、ごめんって100回言えば許してもらえると思ってるの。
そんなこと言ったって無駄だってことは私にだってよく分かってる。水野くんは頑固な性格をしているから、こうと決めたことは絶対に覆さないし、今日は私と会わないと決めてそれをこうして連絡してくるということはつまりそういうことなんだろうけど、でもそもそも私との約束を破るわけだから、都合のいい頑固よね。1ヶ月ぶりのデートより優先させなきゃならない用事って一体どんなことなの。
「そんなに大事な用なの?」
『大事っていうか、不可抗力なんだよ。ちょっと有無を言わせず頼まれちゃって……』
「頼まれたって、何を?」
『いや、それは……』
電話の向こうから何かが倒れるような大きな音がしたと思ったら水野くんの大声がそこにかぶさってくる。思わず携帯電話から耳を離した私は、それで一気に冷静になった。
あの冷静沈着な水野くんが、こんな大声を出すなんて。何が起きているのかは分からないけれど、何かの弾みで通話が切れてしまった。
私は携帯電話を見下ろしながら、いつの間にかぎゅっと握り締めていた手のひらを解いていた。むくむくと勇気が湧いてきて、背筋を伸ばして立ち上がる。
今日は水野くんに会う日と決めていたのだもの。一度決めたことは覆さない頑固さなら、私だって持っている。とりあえず水野くんの家まで行ってみよう。家にはいないかもしれないけれど、もしかしたらいるかもしれない。いなかったらまた別の心当たりを当たればいい。
水野くんは最近ひとり暮らしをはじめたばかりで、クラブハウスに近いマンションの一室を借りている。何度遊びに行きたいと言っても、忙しくて片付けができていないからとかわされてばかりいたけれど、どうにか住所だけは聞き出しておいたので、迷わずインターフォンを押したら水野くんはちゃんと家にいた。
「……何で来るんだよ」
水野くんは大きなため息をついて嘆いて見せた。
ロゴ入りのティーシャツにコットンパンツという出で立ちで、薄茶色の髪がほんの少し乱れている。大事な用があるというわりに、ずいぶんリラックスした格好をしている。
「電話じゃ埒があかないんだもん。上がっていい?」
「いや、本当に悪いけど今日は帰ってくれないかな」
「どうして?」
「大事な用があるって言ってるだろ」
「とてもそんな風には見えないんだけど」
「だから、……」
と、突然水野くんの体が前方につんのめった。何かにつまづいたみたいだ。でも、ただ立ち話をしていただけで?
おそるおそる水野くんの足元を見る。大きな目をした小さな体の、水野くんに瓜二つな子どもが、水野くんの片足にしがみついていた。
「チイパパだっこー」
「……あぁ、そういうこと」
「だから、ごめんって」
結局、上げてもらった水野くんの部屋は、片付いていないというよりはまだモノがそろっていないと言った方が良さそうなほど広々としていた。引越しのダンボールがまだリビングの隅に積みがっていて、最低限の家具家電しかなく殺風景だ。観葉植物もカーペットもない。台所はまだ一度も使われたことのないような綺麗なよそよそしい顔をしていて、思わず開けてしまった冷蔵庫の中には水とスポーツドリンクしか入っていなかった。
「虎、お姉さんにあいさつは?」
水野くんに抱き上げられた子どもは、物怖じすることもなく大きな声を出す。
「こんにちわ!」
「こんにちは。お名前は?」
「きりはらとらはるです!」
「私は、
です。よろしくね」
「うん!」
こんな小さな子どもと話をするのは初めて、何が正解なのか分からなくて不安になる。水野くんを見上げると、ついさっきまではあんなに狼狽えていたくせに、優しく目を細めて笑っていた。どうやら私は間違っていなかったみたいだ。
「両親が急に親戚の法事に出ることになっちゃって、1日面倒みることになったんだよ」
水野くんにだっこされて、虎治くんはご満悦だ。子どもに嫉妬するなんてみっともないとは思うけれど、水野くんの首に回した小さな両手がちょっとだけ憎たらしい。
「そうならそうと言ってくれればよかったのに」
「ごめん。なんか言いにくくて」
「それはそうと、ちゃんと生活出来てるの?」
キッチンを指差して尋ねると、水野くんはなんとも言えない顔で苦笑いした。
「まぁ、なんとかやってるよ」
「本当に? まるで生活感ないんだけど、食事とかどうしてるの?」
「クラブハウスの食堂があるし、そんなに困ってないって」
困ってない、と言いながら、水野くんは困り顔を隠すことができずに明後日の方を向いている。
こういうことをいくら心配しても仕方がないのかもしれないけれど、私は呆れて言葉も出ない。
真理子さんはとてもしっかりした専業主婦だから、水野くんが家事を手伝う必要もなかったのだろうし、高校からはずっと寮生活だったから家事を覚える暇なんかなかっただろう。想像はできる。けれど、ここまで何もできないとは思わなかった。勉強もスポーツも人一倍上手にこなしてしまえる武蔵森学園の王子様だったのに。あ、王子様だからここまで何にもできないのか。なんだかすっかり納得がいった。
「チイパパ、お腹すいたー」
「えぇ、もう?」
水野くんは腕時計を見て眉をしかめる。(この部屋にはまだ壁掛け時計がなかった。)お昼にはまだ早い時間だ。子どもはお腹が空くのが早いと聞いたことがあるけれど、ここまでとは。
「どうしよう、うち今何もないんだよな」
「そうみたいだね」
「チイパパー」
虎治くんがぐずりだして、水野くんは焦って必死に虎治くんをあやす。その滑稽なことといったら、なかった。私の王子様はわがままいっぱいの3歳児に手を焼いて、その小さな手に掴まれた髪はぼさぼさ、ティーシャツはしわくちゃ。高校生の時、あんなにきらきら輝いて眩しいほどだった面影はもはやない。
けれど、自分がそれほどがっかりしていないことが意外だった。
「よかったらこれ、食べる?」
昨日の夜、水野くんのために夜更かしして作ってきたレアチーズケーキ。私は今日、どうしてもこれを渡したくて無断で水野くんの家を訪ねてきたのだ。
「え、いいの?」
「せっかく作ってきたんだもん。どうぞ」
本来の目的とはちょっと違っちゃったけど、まぁいいや。
それから、3人でレアチーズケーキを食べて、腹ごしらえに近くの河川敷まで散歩に行った。水野くんはサッカーボールを持って行って、3歳児に相手にボールをパスしようとする。虎治くんはまだサッカーがどんなスポーツなのか理解できていないようで、水野くんが蹴ったボールを両手で受け止めてはきゃっきゃと笑っていた。水野くんがつま先でボールを蹴り上げて魔法のようにボールを操って見せると、まるで奇跡を見たように目を輝かせて拍手をする。水野くんは虎治くんから拍手をもらって、まんざらでもなさそうだった。
「たまにご飯を作りに来てあげようか?」
コンビニで買ったサンドイッチを食べながら聞いてみたら、水野くんは想像していたよりずっと驚いた顔をした。
「いいのか?」
「いいも何も、あの家の様子見てたら心配になるよ。それとも、真理子さんが来てくれるの?」
「いや、母さんは虎の面倒見るので忙しいだろうし……。でも、
だって学校もあるのに大変だろ?」
「大丈夫だよ。私、基本的には自炊してるし、ひとり分がふたり分になるくらいは」
水野くんは照れたように頬をかき、ほっぺたにマヨネーズソースをぺったりつけている虎治の頬を指先で拭ってやる。
「本当、
は昔から変わんないな」
「そう?」
「うん。昔からずっと優しい」
水野くんの言葉が甘く耳に響いて、頬が熱くなったのが自分でも分かった。
王子様はずるい。そうやってかっこいいこと言って、いつも私の心をするりとほぐしてしまう。本当はちっとも生活力のないサッカー馬鹿のくせに。本当に、ずるい。
でも、そんな水野くんを好きでいて、水野くんのために料理の腕をふるってあげようと思える私はそんなに悪くはないような気がした。
「サンドイッチおいしーね!」
虎治がパンくずのついた顔でにっこり笑うと、つられて私も笑顔になってしまう。
「あぁ、おいしいな」
水野くんも優しい顔で笑っている。
ふたりの笑顔を見ているだけで、幸せが身体中から湧き出てくるようだ。
だから決めた。私はもう、水野くんの隣から動かない。これからどんなに大きな喧嘩をしても、必ず水野くんが好きになってくれた優しい私のままでいよう。
20170205
(水野くんは子どもや動物に親和性高いな、って思ってできたふたつのお話。企画「HEROs&FOOLs」参加作品)