その夜、いつもならばとっくに眠りについているはずの時間を過ぎても、遠子はなかなか寝付けずにいた。
暗い部屋の中でひとり布団にくるまり、目を開けたままじっと天井を見つめている。月明かりが雨戸の隙間から差し込んで、天井に青っぽい光が差していた。まるで池の底に沈んでそこから水面を見上げているようだった。
あの事件以来ずっと神経が張り詰めている。緊張が取れず、少しうとうとしても頭のどこかが常に冴えている。明日も早いのだから少しでも体を休めたいのに、不安や心配が胸を圧迫するように膨れ上がってきて、苦しくてどうしようもない。
ふと、ため息を吐きながらごろりと寝返りを打った瞬間、枕元に置いていた携帯電話が点滅してメロディを奏ではじめた。
慌てて液晶を確認する。番号は非通知だ。
「……もしもし?」
どきどきしながら電話を耳に押し当ててると、ほんの少し離れていただけなのにもう恋しくて仕方がない人の声がした。
「……遅くなって悪い。まだ起きてたか?」
遠子は無意識に口元をほころばせ、電話の向こうにいる土方に向かってうんとうなずいた。
「はい、起きてました」
「こんな時間まで働いてたのか? 明日に響くぞ」
「寝付けなくてお布団でごろごろしてたんです。土方さんは?」
「宿にいる。あっちこっち回って少しくたびれたけど、まぁそれに見合う収穫はあった。数日中には戻れる」
「そうですか、よかった」
遠子がほっと胸を撫で下ろすと、電話の向こうで土方が笑う気配がした。
「そっちの様子はどうだ? まさかお前、逮捕されたりしてねぇだろうな」
「もしそうだったら電話に出られませんよ」
「それもそうか」
「今日もいろいろと聞かれました。居酒屋から宿に着くまで時間がかかりすぎているけれど、本当は何をしていたのかって」
「で?」
「草履とかんざしを探していたって答えましたよ、ちゃんと」
「よし、それでいい」
「それから、この電話に鉄くんから着信があったので出ちゃいました。今、土方さんの後を追ってるそうですよ」
「まさか。あいつに俺の行き先が分かるかよ」
「それはどうか知りませんけど、土方さんから連絡があったら知らせて欲しいって言われました。どうしますか?」
「そんなもんほっとけ。どうせすぐ戻るんだからな」
「分かりました」
「他にはなんかあったか?」
「これといっては……。あ、明日なんですけれど、亡くなった彼女のお通夜に行ってこようかと思って」
「はぁ? なんでわざわざ?」
「なんとなくなんですけど、気がおさまらなくて。相談したら、山崎くんが一緒に行ってくれることになりました」
「山崎か。体のいい見張りだな。大丈夫なんだろうな」
「そんな風に言わないでください、山崎くんもお仕事なんですよ。ご焼香させてもらうだけにして、長居はしませんから平気です」
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫ですってば。そんなに心配しないで」
「……いや、今のは俺の聞き方が悪いな」
少し考え込むような間を置いてから、土方は改めて言った。心なしかその声が近くなったように感じたのは、土方が受話器に唇を押し当てるようにしたからだろう。それだけのことにぎゅっと胸を締め付けられる。
「お前が本当は大丈夫じゃないってことくらい、俺には分かってるからな」
「え?」
「こんな時間まで眠れねぇとかお前らしくねぇし」
「……土方さんの電話を待ってたんですよ、何時にかけてくるか教えてくれないから」
「仕方ねぇだろ、こっちにだって事情があるんだからよ。っていうか話そらすな」
「本当に、私は大丈夫です」
「お前は、大丈夫じゃねぇときほど強がって大丈夫って言うんだよ。俺が気づいてないとでも思ってんのか?」
「……土方さん」
「俺がそばにいなくて不安なんだろ? そう思ってるならちゃんとそう言え」
遠子は喉が焼けるように痛むのを感じて、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。ここで泣いては無用に心配をかけるだけだ、土方はふたりのために大切な仕事をしている。それに水を差してはいけない。口元に手を当てて、涙よ引っ込めと念じてみる。
「……遠子?」
けれど、あんまり優しい声で土方が名前を呼ぶからもう耐えられなかった。大粒の涙と一緒に嗚咽まじりのため息が零れてしまう。遠子は上を向いてぱちぱちと瞬きをして涙を逃がしながら、なんとか声を取り繕った。
「……土方さん、今どこにいるんですか?」
「詳しくは言えねぇけど、江戸を出てる」
「ずいぶん遠くなんでしょうね」
「そうだな」
「……今すぐそっちに飛んでいきたい」
「遠子」
「私、不安で仕方ありません。みんなに嘘を吐き続けるのは辛いし、どんな恥をかいてもいいから全部話して楽になりたいって思う瞬間もあります」
「そんなのは俺が許さねぇぞ、絶対だめだ」
「えぇ、だから我慢します。土方さんのことを信じてます。本当に、心の底からです。だから、今は大丈夫って言わせてください。強がらせてください。土方さんが戻って何もかも丸く収まったら、その時はたくさん甘えさせてもらいますから」
土方がじっと耳を傾けている気配を感じる。電話口の土方の息づかいや、衣擦れの音をかすかに感じる。髪をかき上げるときのさらさらというかすかな音、そしてため息。
「すぐに戻る。すぐだ、待ってろよ」
遠子は声を出さずに頷いた。その気配を土方もきっと感じてくれているだろう。そう思った。
20191020