約束の日、待ち合わせ場所は駅の改札口前だったが、約束の時間の直前になって由梨からメッセージが届いた。
―――ごめんなさい、30分くらい遅れます
そこで降谷は近くの喫茶店に入って待つことにした。はめ殺し窓に面したカウンター席を選んで、由梨の姿が見えたらすぐに店を出るつもりだった。
暇つぶしに、ポケットに忍ばせておいた文庫本を開く。由梨の真似をして買ったあの本だ。近頃はタブレットでなんでも読めてしまうから、わざわざ紙の本を読むのは久々だ。子どもの頃、シャーロック・ホームズに傾倒して推理小説はもちろん、犯罪心理学や人体の仕組みに関する本を読み漁っていたことが思い出されて懐かしくなる。
自分ではちゃんと注意を払っていたつもりだったけれど、思うよりも物語に没頭していたらしい。コンコンッと、ガラスを叩く音がしてはっと顔を上げると、ガラス越しに由梨が笑顔で手を振っていた。降谷が軽く手を上げながら微笑み返すと、由梨は入り口の方に回って店に入ってきた。
切り替えが入ったワンピースにカーディガン、髪は流れるまま肩に落ちていて、歩くリズムに合わせてふわふわと揺れた。
「遅れてごめんなさい」
由梨は髪をかきあげながら肩で息をする。どうやら駆け足でここまできたらしい。
降谷は由梨のために隣の椅子を引いてやった。
「そんなに慌てなくても良かったのに。よく俺がここにいるって分かったね、探さなかった?」
「ううん、すぐに分かった。降谷くん目立つから」
由梨は降谷の手元をのぞき込んで言う。
「何を読んでたの?」
降谷が表紙を見えるようにしてテーブルを滑らせると、由梨は前のめりになって瞳を輝かせた。
「これ、私もつい最近読んだばっかり!」
「へぇ、そうだったんだ。すごい偶然だね」
降谷は笑顔でそらっとぼける。
由梨は降谷の方の身を乗り出して言った。
「どこまで読んだ?」
「コーデリアがカレンダー卿に、息子の死の原因を調べて欲しいって依頼されたところ」
「ここからがおもしろいところなんだよ、できれば一気に読んでね。勢いがあるから」
「もしかしてもう読み終わった?」
「うん。読み始めたら止まらなくて夜更かししちゃった。それにしても、降谷くんもこういうの読むんだね、なんかちょっと意外」
「読書は好きだよ」
「私達、気が合うね」
心底嬉しそうに由梨が笑うので、同意を示すために降谷も笑った。
「私、お肉が食べたい気分なんだけどどう?」
と、由梨が意気揚々と言うので、スマートフォンで検索して見つかった近くのステーキ専門店に行くことにする。降谷は200g、由梨は150gのステーキを注文する。150gでも食べきれない女性は世の中には多いが、由梨はけろっとしていた。付け合わせにはサラダとフライドポテトとピクルス、炭水化物は断って、代わりに赤ワインで乾杯した。
「警察の人って、もっと忙しいんだと思ってた」
と、ナイフを使いながら由梨は言う。フレンチスリーブのシンプルなワンピース姿だ。カーディガンを脱いだだけでぐっとカジュアルな雰囲気になり、店の空気によく似合う。ただ、胸元に光る貴石をあしらったハート形のペンダントが少し野暮ったくて、ちぐはぐな印象がした。
降谷はフォークに刺したステーキにソースを絡めながら答えた。
「別に、普通の人と同じように休みはあるよ」
「休日にカフェでお茶したり、本を読んだり?」
「そう。普通だろ?」
「確かに、イメージで決めつけるのは良くなかったね」
「小泉さんこそ忙しそうだね」
「私は要領が悪いだけだよ」
「通訳なんだっけ?」
「もう一ヵ国語、勉強中なの。資格を取りたくてさ、休みの日も家にこもりっきり」
なるほど、そういうわけだったかと降谷は納得する。
「それじゃ、彼氏が寂しがるんじゃないの?」
思わせぶりなことを言うと、由梨は照れくさそうに笑いながら首を振った。
「そんなのいないよ」
「え、本当に?」
「こんなことで嘘ついてどうするの」
「美人なのにもったいない」
「お世辞はやめて。そんな話より、あの事件の話を聞きたいな。どうなった?」
由梨は身を乗り出して降谷に話をせがむ。
降谷はワインで喉を潤しながら思案した。どう切り出せば、彼女はぼろを出すだろう。見たところまだ大して酔ってもいない。けれど、目の前に転がってきたチャンスはしっかりつかみとらなければ。
意を決して、降谷は口火を切った。
「実は、あまり思わしくないんだ。現場の状況からは自殺だと推測できるけれど、毒物の出所が分からないし、動機もさっぱり。なくなった所持品も見つからないしね。食事中にする話じゃないかな?」
「平気。続けて」
「小泉さんは、被害者とは親しかったんだよね? 彼が最近悩んでいたとか聞いてない? 最近様子がおかしかったとか」
「さぁ、親しかったと言っても仕事で何度かお世話になっただけだからな。私が知っている範囲では、特に変わったところはなかったと思うよ」
「そうか」
「動機とか、毒物のルートとかが分からないと解決できないものなの?」
「論理的に説明できるに越したことはないよ」
「警察の仕事って大変ね」
「その分、やりがいはあるよ」
「人の命に関わる仕事だもんね、尊敬するよ」
「そう言ってもらえると頑張れる」
「ねぇ、その見つからない所持品ってなんなの?」
「記録媒体なんだ」
「SDカードとか、USBメモリとかそういうもの?」
「そう。彼の仕事関係の文書が入っていたらしい」
「もしかして、その記録媒体を奪った誰かに殺されたかもしれないって考えてるの?」
由梨はテーブルに腕をついて目を輝かせながら身を乗り出してきた。待ち合わせた喫茶店で降谷が読んでいた本を見た時と同じ顔だ。餌に食いついただろうか、降谷は期待を込めた目をして由梨を見返した。
「可能性のひとつとしては、考えられるね」
「だとすればどうやって? あの日、部屋には彼しかいなかったんでしょう? ホテルの部屋はオートロックだし、防犯カメラにも妖しい人は映っていなかったって聞いたけれど」
「よく覚えてるね。今、小泉さんが言ったことは全部謎のままなんだ。全くやっかいな事件だよ」
「ふぅん」
由梨はいかにもこらえきれないといった顔でにやにや笑いながら、付け合わせのピクルスを齧った。その人を食ったような笑い方。人が死んだという話をしているのにどうしてそんな顔をするのか、降谷にはいまいち理解ができない。ピクルスを齧るぽりぽりという音がいかにも滑稽だ。
降谷はナイフとフォークを置いて、組んだ両手の上に顎を乗せてたずねる。
「この話、そんなにおもしろい?」
「ごめんなさい、不謹慎だよね。でも推理小説みたいで興奮するな、とは思ってる」
由梨は降谷の真似をするように手を組むと、少女のように笑った。酔っているのだろうか、それにしては顔色がいい。取り付くしまもない、笑顔だった。
「推理小説が好きなんだね」
降谷は諦めて話題を変えた。
「うん、よく読むよ。降谷くんは?」
「子どもの頃は、シャーロック・ホームズが好きだった」
「私も! 学級文庫にシリーズが並んでて夢中で読んだよ!」
「それはセンスがある学級文庫だ」
「今思えば、あれは担任の先生の趣味だね」
それから、事件の話は一切せず、ふたりは気持ちよく飲んで食べた。
今日は初めてのデートなのだ、焦らない、焦らない。
降谷はそう自分に言い聞かせ、由梨のおしゃべりに付き合った。それは降谷が驚くほど、楽しい時間になった。気がきいて機知に富んだ軽妙洒脱なやりとりは、降谷にひととき任務を忘れさせるほどだった。
ふたりはステーキ専門店を出てから、バーでもうひと飲みして家路に着いた。
降谷は、自分の家は由梨と同じ沿線にあると嘘を吐き、同じ電車に乗り込んだ。乗客は少なく、座席は半分ほどしか埋まっていない。ふたりは誰も座っていない列を選んで並んで腰を落ち着けた。ふたりの間にはこぶしひとつ分の隙間が自然と空いた。
夜の街を滑るように走る列車の車窓には、マンションの窓明かりや車のヘッドライトが映ってまぶしい。それを背景にふたりの姿がガラス窓に映っているのを見て、由梨は心の底から不思議な気持ちがした。ふたりが隣に並んで座って、笑顔を交わしながら仲良くおしゃべりをしている。こんなことが現実に起こるとは、高校生の頃には想像したこともなかった。
降谷の隣は驚くほど居心地が良く、何気ないことを話しているだけで楽しい。会話の合間の、ちょっとした沈黙を苦に感じない。多少酔っているとはいえ、こんなに心浮き立つ夜を過ごすのはどれくらいぶりだろう。電車がこのまま走り続けて、いつまでもいつまでも駅に着かなければいいのにと子どものようなことを考えてしまう。
そんな中にも、理性を保った自分もいた。降谷に近づいたのは、目的があったからだ。
由梨の家の最寄り駅で、降谷も一緒に電車を降りた。駅からマンションまでの道のりはそう長くはないが、由梨は足が疲れたふりをしてことさらゆっくり足を進めた。酔いをさましたいと言い訳をして、ほんの少し遠回りもした。降谷はそれに嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた。
「あのね、降谷くんに聞きたいことがあるの」
ある児童公園を通り抜けようとしたとき、由梨はようやく口火を切った。
公園は正方形で、その四隅に滑り台、ブランコ、砂場、花壇があるだけの本当に小さな空間だった。どの遊具も塗装がはげていて古びている。誰かが忘れて行ったのか、砂場にスコップがひとつ置き去りにされていて、それが余計に寂しい雰囲気を演出していた。
「何だい?」
と、降谷は周囲をはばかるような静かな声で言った。
由梨は降谷を真正面から見つめようとして、ほんの少し怖気づいた。こんな気持ちになるなら、もっと飲んでおけば良かったとも思ったがもう後の祭りだ。なけなしの勇気を振り絞って、由梨は言った。
「ヒロのことを、聞きたいの」
「やっと言ってくれたね」
降谷は待っていたとばかりに言うので、由梨はどぎまぎしてしまう。
「え? なんでそんなこと言うの?」
「だって、初めて会った時に言ってたじゃないか。それなのに全然その話をしないから、どうしたのかと思ってたんだ」
「分かってたなら降谷くんから言ってくれたらよかったのに、いじわるだな」
「何か事情があるのかと思ってたんだけど、違うなの?」
由梨はひとつため息を吐いて、肩の力を抜いた。降谷は景光の親友なのだから、由梨が想像している以上にいろんなことを知っているはずだ。この件について、自分は全く無防備なのだということを改めて認識すると、もう何も取り繕える気がしなかった。
「事情というか、まぁ、私のプライドの問題なの。私達が付き合ってたのは知ってるよね?」
「うん」
「高校生の時から、大学生の時までだったんだけど、その、別れ方にちょっと問題があったと、私は思ってるのね」
降谷はうんうんと頷きながら、真っ直ぐに由梨の目を見て話を聞いてくれる。学生時代の恋愛について、10年もの時間が経った今でもうじうじと悩んでいるだなんて、はたから見れば滑稽に違いない。けれど、降谷は少しも馬鹿にしたり呆れたりしていないことが、その真っ直ぐなまなざしから感じ取れた。ただ、それだけだ。
それだけのことに心が癒されるのを感じて、由梨は涙が出そうになるのをこらえることに必死だった。
「『由梨は俺がいなくてもひとりでやっていけるよ』って言われて以来、ヒロとは連絡が取れなくなったの。喧嘩したとか、そんな前触れみたいなのも一切なくて、それっきり」
ふと、降谷の手が由梨の頬に向かって伸びてくる。由梨が反射的にびくりと肩を震わせると、その手はためらうように動きを止めたが、遠慮がちに由梨の鎖骨を指差した。そこには、小さなハート形のペンダントが街灯の光を反射して光っていた。
「これ、ヒロからもらったものだろう?」
「……なんで知ってるの?」
降谷の指先が、ネックレスのチェーンをなぞる。由梨は降谷の指先がかすかに肌に触れるのを感じながら、その手の甲をじっと見つめた。夜の闇の中でも浅黒いと分かる肌、指先は固く、ほんの少しささくれ立っている。形のいい爪は短く切りそろ
えられていて固そうに見えた。
その指が、由梨の顎の下に添えられる。
降谷は懐かしいような目をして、由梨を見つめたまま答えた。
「俺も、選ぶのを手伝ったんだ。よく覚えてるよ」
「え、そうなの?」
「女の子にプレゼントするのは初めてで、自信がなかったらしい。緊張してどうしたらいいか分からないって、直前まで大騒ぎしてた」
「そんな風には見えなかった。サプライズで渡してくれて、すごく嬉しかったんだよ」
「かっこつけたかったんだよ、あいつ」
「そう、そうだったの」
プレゼントボックスを抱えて右往左往する景光を想像して、由梨は思わず笑ってしまう。その頬を、降谷は労わるように撫でてから手を離した。
由梨は鎖骨を隠すように手を当ててペンダントの感触を確かめる。
今夜、このペンダントをしてきたのは、ヒロとの思い出の品を身に着けていればこの話をする勇気が湧くかもしれないと思ったからだ。このワンピースには似合わないと分かっていたし、ハート形のペンダントだなんて年甲斐もなくどうかしているとも思った。けれど、そうでもしないと話を切り出せる気がしないくらい、ヒロとの別れは由梨にとって大きな傷だった。
冷たいはずの金属のチェーンがほのかに熱いような気がした。ハートのチャームが脈を打っているように感じたのは、他でもない由梨の胸が高鳴っているからだ。
「降谷くんは、今でもヒロと連絡を取っているの?」
降谷は肩をすくめて苦笑いした。
「いいや、全然。小泉さんは、まだヒロのことが好きなの?」
由梨は慌てて首を振って否定した。
「ううん、そうじゃないの。ただ、理由も分からずに振られたことがちょっとしたトラウマになってて。実を言うと、彼氏ができても、似たようなシチュエーションで振られてばっかりなの。もう、そういう恋愛には飽き飽きしてるというか、そろそろ私も幸せになりたいなーと思ってて……、そのためには、過去の傷を掘り返してみるのもひとつの手なんじゃないかと思ったんだよね」
「それで俺に声かけたんだね」
「そう。なんか、だしに使ったみたいで、ごめんね」
「謝ることないよ。小泉さんが一歩踏み出すきっかけになるなら、協力する」
「ありがとう」
20191020