とあるホテルのロビーラウンジである。

 フロアをぐるりと見回すラウンジの入り口にその人が現れた瞬間、壁一面のはめ殺し窓から光が差した。雲が切れたのか、それとも由梨の目にだけ映った幻だったのかは定かではない。どちらにせよその瞬間、静かに流れていたBGMや、客が談笑する声、あらゆる雑音が由梨の中から消え、その人のことしか見えなくなってしまった。

 まるでトップスターがスポットライトを浴びて舞台上に現れた瞬間を見るようだった。
 
 その人は両隣が空いているふたり掛けの席に腰を下ろすと、ウェイターに注文をして、組んだ足の上にタブレットを乗せた。仕立てのいいグレーのスーツに、濃茶のウィングチップの革靴、やり手のビジネスマンのような出で立ちだ。右耳にはヘッドセットを着けていて、ときどきそこに触れては誰かと通話しているようだった。

 由梨は同じテーブルについた仕事仲間と談笑しながら、ひそかに、そして慎重にその人を観察し、記憶と現実のその人の姿を重ね合わせた。10年という月日がわずかに輪郭を変えてはいたけれど、日本人離れした金色の髪と蒼い瞳、そして否応なく周囲の目を引くたたずまいは見間違いようがない。

 由梨は意を決した。ここで出会えたことの奇跡、このチャンスは決して逃してはならないと本能が叫んでいた。

「あの、すいません」

 その人はタブレットから視線を上げると、大きな目をぱちくりと瞬いて由梨を見た。まばたきひとつ、その些細な仕草にすら懐かしい気持ちが湧いて、由梨はその気持ちのまま微笑んだ。

「もしかして、フルヤゼロさんじゃありませんか?」

 その人はいぶかしげに眉根を寄せて由梨を睨む。怪しいものではないと示すため、由梨は耳に髪を引っ掛けて顔がよく見えるようにした。
 その人は落ち着いた声で言った。

「失礼ですが、そちらは?」
「あ、すいません、名乗りもしないで。隣、いいですか?」

 その人は仕方がなさそうな顔をしながらも、片手を差し出して椅子をすすめてくれた。由梨は斜め前の椅子の背を掴んで引き、そこに浅く腰掛けて足をそろえる。
 その人はタブレットをテーブルに伏せて置くと、両手を組んで顎の下に添えた。

「私、小泉由梨といいます」
「小泉さん?」
「はい、小泉です」

 名前を名乗っても、その人はちっともぴんとこないらしい。小首をかしげて、申し訳なさそうに眉を下げる。

「どこかで会ったことがありますか?」
「はい。ずいぶん前に、一度だけ。覚えていませんか?」
「申し訳ありませんが」
「そうですか。でも、私のことは忘れても、諸伏景光の名前はご存知ですよね?」

 イエス、という答えがその人の顔に出たのを、由梨は見逃さなかった。

「……彼を知っているんですか?」

 さも意外そうに、その人は言う。由梨はこらえ切れずに吹き出した。その人の驚きようときたら、まるで虎が逆立ちをしてバイオリンをかき鳴らしているのを目撃したようなありさまで、ぽかんと開いた口にマシュマロを放り込んだらいかにも上手に受け止めてくれそうだった。

「思い出してもらえましたか?」

 由梨が笑いながら言うと、その人は照れくさそうに目を伏せる。

「えぇ、やっと。すいません、大変失礼な態度を取りました」
「いいえ、お会いしたのは一度きりでしたから」
「まさかこんなところでお会いするとは」

 その時、その人は今日初めて笑顔を見せてくれ、由梨はほっと胸を撫でおろした。

「よかった。思い出してもらえなかったらどうしようかと」
「あなたのことは、あいつからよく聞かされてました。それなのにすぐに思い出せなくて申し訳ない」
「いいえ、私は見た目がずいぶん変わりましたから。けど、フルヤさんはちっとも変わっていませんね」
「いつまでも成長していない証拠です」
「あ、そんな意味で言ったつもりじゃないんです」

 ふたりは見つめ合い、そして同時に吹き出した。

 諸伏景光。その名前がふたりを瞬時に10年前の記憶の中に呼び戻し、完全に途切れていた糸を再び結び付ける。その奇跡に感動して涙が出そうだった。話したいこと、聞きたいことが山のようにあるはずなのに、何から話せばいいのか分からない。結局照れたように微笑みあうことしかできず、それがなんとも言えずくすぐったい。

 と、テーブルに伏せたタブレットが点滅した。

 その人は「失礼」と断ってから、ヘッドセットに手を当ててそこに向かって言う。

「どうした? ……分かった。すぐに向かう。すいません、仕事で急用が入ってしまいました。すぐに行かなくては」
「そうですか。あ、それじゃ……」

 由梨は鞄の中から名刺ケースを取り出すと、そこから1枚抜き取った。

「よければ連絡をください。今度ゆっくりお話ししましょう」
「そうですね、ぜひ」

 その人が立ち上がるのに合わせて、由梨も立ち上がる。受け取った名刺を見やってから、その人はもう一度まじまじと由梨を見た。ミドルヒールのパンプスを履いた由梨がわずかに見上げる位置にある瞳が、愉快そうに細くなる。いっそ挑発的とも言えるそのまなざしを、由梨は笑顔で受け止めた。

「これだけ言わせてください。僕の名前はフルヤゼロではなく、降谷零。ゼロではなく、レイです」
「あ、ごめんなさい。私ってばてっきり」
「いいえ、きっとあいつが適当なことを言ったんでしょう、だいたい想像はつきます。あなたと会えてよかった」
「えぇ、私も」
「それでは」

 由梨は、足取り軽くラウンジを出て行く降谷の姿がエレベーターの中に消えるまで見送った。降谷は一度も振り返らなかった。



 エレベーターの扉が閉まった瞬間、降谷は壁一面にはめ込まれた鏡にもたれかかり、細く長いため息を吐いた。背中が鏡をすべり、後頭部の髪がわずかに乱れる。心臓が今まで経験したことのない脈を打っていて、深呼吸をくり返してなんとか平静を取り戻す。

 諸伏景光。

 その名前を聞いたのは、一体何年振りだろう。最近ではお互いのコードネームでしか呼び合っていなかった。それは組織に対する潜入捜査を開始してからの最も大切な習慣て、うっかり本名を口にして正体を明かすような馬鹿な真似はふたりとも決してしなかった。学生時代からあだ名で呼び合っていたし、もしかするとフルネームを耳にしたのは子ども時代以来かもしれない。

 埃をかぶった記憶が引き出しの奥から無理矢理引っ張り出されて、光の中でもがいている。懐かしさが目に染みて涙まで浮かんできそうになるのを、降谷は強い精神力をもってこらえた。

 胸ポケットから受け取ったばかりの名刺を取り出し、降谷はそこに記された文字を改めて確認した。

 小泉由梨。

 それは、諸伏景光の高校時代の彼女の名だった。どういういきさつだったのかは覚えていないが、近所の女子高の生徒と合コンのようなことをしたことがあって、景光はそこで由梨と知り合ったのだ。

 四対四のグループデートのような集まりで、ゲームセンターに行ってカラオケをした。その時、降谷はふたりの女子にしつこくつきまとわれていて、景光に誘われたからといってこんなところにのこのことやってくるのではなかったと後悔することに忙しかった。自分の容姿が人目を引くことはこの頃には十分自覚していたけれど、その長所を好きでもない相手にひけらかすことはしたくなかった。だから、不機嫌な態度を隠しもしなかった。あとでどんな悪口を言われようとかまわなかったし、どうせ今日を限りに二度と会うこともない相手だ。誰に嫌われようとどうでもよかった。

 カラオケボックスの一室で、降谷がふたりの女子に挟まれながら仏頂面でコーラを飲んでいた時、景光は由梨の隣で、降谷が見たこともない顔で笑っていた。小学生の頃、景光が降谷のクラスに転校してきて以来、10年の付き合いになるというのに、あんなにも油断しきった顔で笑う景光を見るのは初めてのことだった。

 あの時の衝撃を、降谷ははっきりと覚えている。

 8人もの高校生がすし詰めにされた部屋はとにかく狭かった。隣り合って座った景光と由梨の膝が驚くほど近い距離にあって、プリーツスカートの裾からのぞく由梨の尖った膝が、景光の足にぶつかるのを見るたび、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになってどぎまぎした。誰かがシャウト系の曲を熱唱しているとき、ふたりがお互いの耳に唇を寄せ合って会話して笑い合っているのは見るに堪えなかった。

 10年も一緒に過ごしてきた親友の全く知らない一面を受け止めきれなかった。その時は両隣でぴーちくぱーちく小鳥のようにさえずっている女子がただ鬱陶しかった。そして、当時の降谷はまだ女性経験がなかった。

 このちっともおもしろいことのない一日は、他のもっと刺激的な思い出に塗りつぶされて、記憶の引き出しの一番奥に長い間しまわれたままでいた。

 そこから10年の時を経て、彼女が目の前に現れることを誰が予測できただろう。

 降谷はエレベーターの液晶を見上げて背筋を伸ばした。彼女とは、きっともう二度と会うことはない。こちらから連絡さえしなければいいだけのことだ。昔の感傷に浸って思い出話に興じる暇などない。不要な人間関係は必ず支障を生む。組織への潜入捜査という任務を全うするためにもその方がいい。景光はそのために命を落としたのだ。彼の努力に報いるためにも、なおさらだ。

 エレベーターホールで待っていたのは、警視庁公安部に所属する風見裕也だ。降谷よりも長身で、黒縁の眼鏡の向こうの目が鋭い。見かけによらず熱血で、けれどそれが空回りすることもあるから手は焼けるが、信頼のおける優秀な部下だ。

「降谷さん、こちらです」

 降谷は風見の後を着いて歩きながら言った。

「何があった?」
「まずは、現場をご覧ください」

 風見に案内されたのは、フロアの一番奥に位置する客室だった。

 今回のターゲットが宿泊している部屋である。

 ターゲットがこのホテルに宿泊予約をしたと分かったのはつい一昨日のことで、それは公安が協力者として運営しているホテルの従業員によってもたらされた情報だった。男が部屋から出たことは確認されておらず、部屋に仕掛けた盗聴器からも、生活音以外の音声は確認できていない。外部と接触している形跡もない。男はまだひとりで客室にいるはずだ。

 今回の計画は、非常階段とエレベータを封鎖し、男を客室に追い詰めるというものだった。このフロアの客室は、全てホテル側に押さえてもらったので一般客はいない。客室は25階で、窓からの逃走手段もない。

 風見は降谷に目配せをすると、慎重にドアを押し開いたく。数名の公安職員が部屋中を捜索しているその真ん中で倒れていたのは、ターゲットの男だ。

「突入した時には、このありさまでした」

 風見が言う。
 降谷は部屋に入り、男の顔をのぞき込んだ。口元からかすかにアーモンド臭がし、青酸系の毒物が原因だと思われた。

「記録媒体は?」
「まだ見つかっていません。パソコンとスマートフォンは署で詳しく調べることになりますが、この状況ではあまり期待はできませんね」
「大事にはするな、マスコミに情報が漏れないよう細心の注意を払え」
「分かっています」

 降谷は誰よりも丹念に遺体を調べた。デスクの上に置かれたパソコンとスマートフォンを調べ、ベッドの足元に置かれていたスーツケースの中身も調べた。絨毯の上、ベッドの下、枕やシーツの下、マットレスの中、部屋中のありとあらゆる場所を調べた。今回の任務の目的は男ではなく、男が所持していた記録媒体にある。何があっても見つけ出さなければならなかった。
 捜査員総出で部屋中をひっくり返していたその時だった。
 デスクの上に置かれていたターゲットのスマートフォンが、メロディを奏でながら震え出した。捜査員の目が一斉にそこに集まる。スマートフォンの一番近くに立っていた風見がそれを手に取り、降谷の合図で通話ボタンを押した。

「もしもし」
『……あの、こちらは伊上さんのスマホでは……?』
「そうですが、諸事情があって彼は今、電話に出られません」

 風見はそう答えながら、視線で降谷の指示を仰いでいる。
 ところが、降谷はとっさに言葉が出なかった。スピーカーから響く声に聞き覚えがある。まさか、偶然にしてはできすぎている。降谷は空中で手を回して会話を続けろと合図した。

「失礼ですが、そちらは?」
『私は、今日伊上さんと会う約束をしていたものですが……。今、彼のクライアントとロビーラウンジで待っています。約束の時間をもうずいぶん過ぎているので心配してかけてみたんですが、あの、何かあったんでしょうか? そちらは彼のお知り合いですか?』

 降谷の疑問は確信に変わった。間違いない。何しろ、たった今面と向かって話をしたばかりなのだ。
 降谷は風見に向かってきっぱりと言った。

「ここに呼べ」
「え、よろしいんですか?」
「かまわない。すぐに事情聴取を」

 何か言いたそうな風見を尻目に、降谷はひとり客室を出た。速足でエレベーターホールに戻り、胸ポケットからついさっきもらったばかりの名刺を取り出す。社名は降谷もその名前を知っている有名な人材派遣会社で、肩書は通訳とあった。階数のランプが徐々に上がってくるのを見上げながら、降谷は背筋を伸ばし、上着の襟を持ってしわを伸ばした。ベッドの下やマットレスを動かしてかぶった埃を払い、前髪をかき上げて整える。

 やがて、チンッ、と軽快な音を立てて、エレベーターの扉が開いた。

 由梨は、降谷の顔を見るなり目を丸くして足を止めた。階を間違えたのかと思ったのかエレベーターの中に戻りかけたが、降谷はボタンを押してそれを止めた。

「ご足労いただいてすいません。こんなに早く再会できるとは思いませんでした」
「降谷さん? どうしてここに?」

 降谷はさっと視線を走らせて彼女を観察する。クリーム色のスーツにブラウンのエナメルパンプス。手首にはブルガリの腕時計をしていて、白いフレンチネイルには控えめにラメが光っている。肩より少し下がるダークブラウンの髪はシンプルに巻いていて、フローラル系の香水の匂いがした。肩にかけているフォールドトートバッグの縁から、角2封筒の頭が飛び出ていた。

「説明します、どうぞこちらに。少々不快なものを見ていただかなくてはなりませんが、捜査にご協力ください」
「捜査? 何のことです?」

 降谷は胸ポケットから警察手帳を取り出し、それを由梨の目の前にかざした。金色に光る桜の紋の上に、制服を着た降谷の写真。それを見た由梨は、ぽかんと口を開けて雰囲気に合わない調子はずれの声を上げた。

「えええ」

 降谷は精一杯の作り笑いをした。
 運命のいたずらにしても、神様は随分手の込んだことをするものだと、ほんの少しの恨みがましい気持ちを抱きながら。








20190930